ゲイから好きになられたら【暫定版】
note に質問箱は置かない予定ですが、これまで講師をやって来た中で、また生きて来た中で、印象が強い質問というものがあります。その中から、表題の「同性から好きになられたらどうすればいいですか?」という質問を選んでみました。本稿において回答します。ちなみに、「交際を求められたらどうすべきなのか」という意味の質問です。下に行くにつれ、「時間があればこの話もする」「更に時間があるならこんな話もしたいところ」という内容になっています。どこで読むのをやめていただいても構いません。
他の講師による「悪い」回答例
私が回答する前に、他の講師による「悪い回答例」を紹介しておきます。これは「悪い例」です。すぐ下に回答としての問題点を解説していますが、もしお時間があれば、まず「どこが問題なのか」ご自分でも考えてみてください。
性的少数者から好きだと告白されたり、性的な関係になりたいと言われた時に、嫌だなと感じても、断ってもそれは「差別ではなく区別」だと思います
さて、この回答の問題点を説明してもよろしいでしょうか。
問題は「支配者化教育であること」です。
「差別ではなく区別」という言葉は差別を行なう人たちの論理/常套句です。「何が差別であるかを決めるのは多数派である」という強いメッセージ(支配者化教育)として作用する言葉なので、この不均衡そのままの/客観も相対もない文言を使用した以上、その後に何を続けても(正しいことを言ったとしても)その発信は抑圧構造の強化にしかならない「抑圧者の論理」と堕す、ということです。実際使われる場面としては区別ではなく差別でしかない時に、これから差別を無化するという時に、枕詞として使われます。この言葉が出たら「ああ差別するんだな」と思ってまずハズレはない。
私が聴講したこの講義は何と性的少数者を理解する内容だったのですが、この差別をないものとする「無化」を行ない「支配者であれ」と促す意図で使われてきた「忌避すべきワード」を、肯定的な文脈で使用し直し、聴衆の心理面で差別に対するハードルを下げた点で、とても有害と感じました。
人権教育には言語的センスもリテラシーも必要なんですよね。
「差別と区別はちがうものであり得ることを否定するのか」という反論があった時にどこまでお付き合いできるか分からないのですが、ここで「私はそんな話をしていない」という点、お断りしておきます。既存の制度やシステムは常に途上である、改善を待つものであるという前提にはご賛同いただけるでしょうか。その途上にあって、不備の指摘を聞き入れない危険性についてはいかがでしょうか。人類は前時代の感覚はおかしかった、ひどかったと気付くことを繰り返して進んでいる、その点についてはどうでしょう。区別だと思っていたけれど差別だった事例はいくらでもあった。男女の賃金格差など最たるものです。「何が抑圧かを抑圧側が決めること」はダメダメだったんですね。私はここで「差別と区別のちがい」という話をしていない。それを決めるのは多数者だと教える教育がダメだと指摘しているだけです。
さて私の回答です。今回あつかう質問のように、「交際を断ったら差別になるのか」ととんでもない誤解をする若者も実際にいるし、断ることが苦手であったり罪悪感を覚える人もいて、そこで悩むということがある。問題の講師は「断ってもよい」という点をこそ言いたかったのでしょうし、その点においては私も基本的に同じです。当たり前のこととしてそうです。
ただし、私なら同じことを次のように語ります。以下が私の回答です。
RYOJIの回答①「これは性的同意の問題です」
今回は同性からの告白が想定されていますが、これがもし異性からの告白だったなら、あなたはどうするでしょうか。あなたが異性愛者であるなら、きっと、付き合えそうなら交際してみるかもしれないし、付き合えないなら断るでしょう。それと全く同じことなのです。なぜなら皆さんには、自分がどのように生きるか人生を選択する自己決定権があるからです。「性的同意」の文脈で「性的自己決定権」という言い方もしますが、この決定においては、あなたの事情や感情が、相手の事情や感情よりも優先されます。逆も然りで、あなたから告白した場合でも、絶対に相手の合意がなければダメなのです。あなたがどれだけ相手を好きでも、相手の事情や感情を無視して交際や行為を強要することはできません。
しかし告白して来たのが「同性愛者だから」困惑したならば、それは現代的な感性ではないと思います。なぜ世代を重ねて感覚が刷新されなかったのか、自分の場合にはどうしてそれが驚くような経験だったのかというポイントで考えてみることをおすすめします。
「短く、最も重要で本質的な話をするなら」こうなる。このこと以外にない。この質問に回答する上で重要なポイントは「性的自己決定権」また性的同意という点です。「他者の権利を超えて自分の願望が実現されることはない」という原則です。「質問者はそこが曖昧になっているから」軌道修正をしなければならないが、この質問には、本来それだけで済むのです。「悪い例」の講師は「差別か区別かを決めるのはマジョリティ」という話にしてしまった。教員自身が不均衡について非常に鈍感だったんですね。関連書籍を2冊読んだ程度で、インターネット世代向けに受けを狙って語ると惨憺たる結果になる、ということかと思います。
もし時間があるなら、私は更に丁寧に、気づきを促します。
RYOJIの回答②「なぜ別ルールでの対応が必要と考えたのか」
それが、相手が異性である時と同性である時で、何がちがうでしょうか。
あなたは質問する上で、「交際を断ったら相手の感情を害する/傷つけるのではないか」と考えたのではないでしょうか。しかし恋愛的/性愛的な交際においては、アプローチされた側であるあなたの意思が全てだというお話をしました。相手が同性愛者でも異性愛者でもそれは同じであるということです。恋愛において相手を傷つけてしまうことは往々にしてありますが、それは異性相手でも同じことですよね。ではなぜ、あなたは相手が同性の場合だけ気にしたのでしょうか。ここを少し考えてみてください。
あなたは、交際を断ることが差別になると恐れたのかもしれない。
あるいは、同性愛者が「差別だ!」と騒ぎ立てることを危惧した。
「ストーカー化するかもしれない、厄介だ」と。
そのふたつの恐怖が「同性の場合だけ」起きたのだとしたら、あなたは差別がどういうものか分かっていないだけでなく、同性愛者が対話できない相手だと考えていて、それは「偏見」です。基本的に「グループAとグループBで異なる扱いをすることを考えたら」、その考え方のクセが心のどこから来ているのかを検証する必要があります。
もっと時間があれば尚のこといいですね。更に「自他の尊重とは」という話が続きます。
RYOJIの回答③「他者への偏見は、自らへの偏見でもある」
この「同性から好きになられたらどうすればいいですか」という質問は、「同性愛者と異性愛者がいて告白が起こるとしたら、それは同性愛者から異性愛者に対するものである」という前提からして、まあそう限ったことでもないんだけど、と思うようなものです。実際どれだけ同性愛者が異性愛者から言い寄られているか。カミングアウトしてもそういうことはあるのです。
そこまでの話を一度に理解しなくてもいいとして、断りたければ断ればいいだけのことだよねとだけ話しても、「断っていいんだと、ホッとしました」と言われて、こちらは「ああ何かが絶対に伝わってない」とモヤモヤすることがあるんですね。断っちゃダメと言うとでも思うのだろうか、こんなこと、ひとつの結論しかないことなのに。いや問題は別にありそうだ。それが回答①部分で、講師が「もっと時間があればいいのに」と臍を噛むポイントです。
質問者は、おそらく何を取り繕ったところで、同性愛者が怖いのだと思います。「理解できない存在で怖い」。でもそう言えば相手を傷つけると思うから遠回りな質問にして、何か安心できる感触を得ようとしている。悪い言い方をすれば「当事者」から言質を取っておきたいというのもあるわけです。異性愛者サイドの「迷惑」を分かってくれてますかということも遠回しに言いたいのかもしれない。「これだけ気を使っている」というアピールであることは確からしく思える。でもそれ、不安があるからすることなんですね。
きちんと意思表示できる自分か、対話できる自分か、自信がないのです。自分を守る論理が弱いから、毅然とできない。差別はそんな弱さから始まることもありますよね。その問題があるなら、私はそこにアプローチしたい。
だから「質問は意見」。質問は怖いことですよね。どう思われるか怖い。でもだからと言ってオブラートに包みまくって「これはあなた側のための目配りなのです」という形にすれば、私に伝わらないんですよ。「前置きとかオブラートとか不要だからあなたの問題を伝えて!」と思っています。
告白じゃなく単なるカミングアウトに対しても、「ゲイでもいいじゃん」「私は偏見ないので」と紋切型に対話を終了させる言葉をストックしているのは、それだけで済むと雑に考えているからだけでなく、コミュニケーションに自信がない可能性がある。なぜそんな言葉で性急に対話を打ち切りたいのでしょうか。「性急さ」は自信のなさです。「紋切型」「上から」は自分のなさです。まず話の続きを終わりまで聞きませんか。あなたはまだ、意見を訊かれていない。でも多くの人が、非常に性急な打ち切りをしてくるんですね。私はそこでめげないけれど、それは利害関係がない他人だからです。あなたの子どもは分からない。あなたの友人は分からない。あなたの同僚は分からない。めげるかもしれません。
質問では、個人の幸福追求は他者の権利や幸福を侵犯してなお認められるものではないという大原則が理解できていない点も、非常に心配です。どんな教育をされて来たのでしょうか。「自分は心が女だと言えば男が女湯に入って来ても警察は動けない」なんてデマが飛んだのは「性的少数者を理解してないから」以前に、そもそも自分の権利が分かっていないのです。本当にどうして警察はシスジェンダー女性を守らないと考えたのでしょうか。
つまるところ、「あなた」の問題は同性愛者じゃなく「他者」や「社会」なんです。そして自分は守られないという現実認識なんです。関わりをもつ人間が対話できる相手か常に疑っていなければならなくて、正常な関係性が構築できると思えないことです。それはとても大変です。不安はよく分かります。しかしそれでもあなたはその不安を性的少数者のせいにすべきじゃない。性的少数者をスケープゴートにすべきじゃない。不条理です。そしてあなたのためにもならない。敵を直視していない。問題を直視していない。本質から目を逸らしている。だから、あなたは対応できない。自分を危険にしているのです。
もちろん病んだ関係性や性暴力について、対応できる人などいない。けれどそんな現実は、身の守り方も含めて誰もあなたに教えなかったことを正当化しません。性的少数者をモンスター扱いする前に、既に「した後に」ですが、自分の権利意識が揺らいでいることに意識的になって、不健康な関係性や、日常的なリスクに向き合う、積極的に学ぶ、自分のスタンスを定めるということを、一緒にやって行きませんか。
いま教育の現場では、包括的性教育ということが言われます。どのようなプロセスで卵子に精子が着床するかという話だけが性教育なのではなく、相互の権利を学び、相互的な尊重を学ぶことが求められる。この質問が出て来ること自体が、お互いの尊重とはどういうことかを知らない、ということなのです。性的少数者のこと以前に、自分の権利/身の守り方が分からない状態なのです。どれだけ弱い状態か、身近な事例で考えてみたいと思います。
異性愛者男性がサウナやスパなどで同性愛者男性と二人きりになった経験を「怖くなって女性の気持ちが分かった」と語るのを聴いたことがありますか。あると思います。彼には次のような問題があります。
・それまで他者にとって脅威になり得る自覚が育たなかった点
・それまで自分が性的対象でもある意識が育たなかった点
・男性を「抑制できない性」と考えているであろう点
・自分のことも「抑制できない性」と考えているであろう点
・社会生活上「ゲイが至近に存在する」という現実認識の欠如
・ゲイに対する偏見
こうしたことの問題点は「性加害にも性被害にも非常に近いところに身を置いている」ことにある。自分の権利も相手の権利も分からないということは、そうしたリスクなのです。しかし女性も同じです。質問者は女性でした。質問者のように「差別だと言い立てられないために交際しなければならないのではないか」と一瞬でも考えたことがあるなら、自他の境界が曖昧で、あなたが性被害にも性加害にも近いということです。状態としてパニックを起こしている。性被害に関しては「いくら遠ざかっていようとも起きる時は起きる」というものではありますが、あなたが他人の事情や感情を自分のよりも上位に置く傾向、そうしなければならないのではないかと一瞬でも考えた事実は、自覚した方がよいと思います。
なぜなのかなと、時間をかけて考える必要があります。
RYOJIの回答④「それはやはり侮辱である/次世代に残す学び」
これ以降は、まあお話しできる機会もないのですが。
「なぜ性的関係を迫るのは性的少数者の側と考えたのか」という点でもお話ししたいことはありますね。
このようなお話をすると、「加害される恐怖が分かっていない」と非難されることがあります。私は性的サバイバーでもあるんですが、想像力がなければ外見から分からないみたいなんですね。しかし指摘の半分は認めます——幼すぎたので、その時に感じていた恐怖があなたの思う恐怖と完全に同じだったかどうか、断言できない。ただずっとギャン泣きしていましたし、嫌だと言い続けてました。それはさておき、確かに私はこの「異性愛者が同性愛者から好意を向けられたら交際すべきなのか」という質問に回答する上で、努めて感情で語ることをしません。概して言えば、それをせずにフラットな会話ができる、という理由からです。しかし、そもそもがなぜ同性愛者が異性愛者に交際を迫る場面設定しか想定されないのかという感情を閉じて、この場にいます。一方的に加害者予備軍と置かれる不条理を脇にどけて、お話ししています。この状況自体が不条理だと理解しながら、それを飲み込んで回答しています。それは主に「あなたの」感情に配慮しているからです。
しかしあなたの側は、「あなたも一方的に語られ押し付けられて来た社会の犠牲者なら」、私にそういう思いをさせずに話し合いができて然るべきではないでしょうか。まるで経験値がないように物を言われても困る、これが私の「感情」です。では「経験」の話に戻していいですか。私は性的少数者が一方的に加害者予備軍のように扱われる不均衡を「経験から」事実のみを述べて指摘できます。
恋愛であれ性愛であれ、性的少数者がマジョリティから関係を迫られる事例など、身近にいくらでもあるからです。レズビアンは絶えず性的関係を迫られていますし、それはレズビアンだと伝えた後に激化することがあります。異性愛者男性のセクシュアル・ファンタジーには「レズビアン」もある。異性愛者男性向けポルノのジャンルとしても確立している。そしてレズビアンから性的に搾取するのは異性愛者男性だけでなく、異性愛者女性のケースもあります。
私の旧い友人の話ですが、彼女は大学の寮生活で、後輩の異性愛者女性たちから「抱いてほしい」と迫られていたのだそうです。彼女はレズビアンで、それは周知の事実でした。しかし「抱いてほしい」と言われて応じると、その関係は後輩たちの噂話で「食われた」と言いふらされるようになった。秘め事として思い出にはしなかったわけですね。「食われた」とは誘惑したのがどちらかという点で事実に反しますし、わざと下卑た表現を選んで、その経験を異性愛者にとって不利益なだけのものとして語り直すわけですよね。同性愛者を性的捕食者として語り直した。異性愛者であるその後輩たちは何がしたかったのでしょうか。自分は性的冒険ができる人間なんだと仲間内にアピールしたいし、でも自分は同性愛者じゃないという点も言っておかなければならなかった。そのふたつのポイントがあった。レズビアンに「食われた」だけだと。しかし残酷にも私の友人の立場は地に落とされたわけですね。同性愛者側にとって、これは性的搾取された経験で、非常に暴力的な状況です。問題のポイントが分かりますか? 性的関係自体はその場で合意だったとしても、その後の侮辱/言いふらしが問題なのです。総合した時に性的搾取であるということです。
さて、異性愛者は常に被害者なのでしょうか。
ゲイの場合でも、同じような経験をするのです。ゲイと知らせた上で起こるケースに限っても。それをするのが異性愛者女性である場合は、女性が非常に大胆になることが、古い文献にあります。ゲイの同性指向を女性に対する劣等感と考え大胆な行ないに至った可能性が文中で指摘されていました。ゲイバーで酔った異性愛者女性が服を脱ぎ出し、両隣りのゲイに身体を舐めるように求めたのは私自身が目撃した事例としてお話しすることができます。わざとゲイに近づきアプローチさせて、後からその経験を悪しざまに語るというような暴力はよく起こります。これは被害者の自然な性的欲求を利用して蔑むパターンの性暴力です。オリンピック村で選手をゲイ用の出会い系アプリで炙り出そうとしたような残忍さは、どちらの加害性を証明するでしょうか。性暴力は加害側の性的ベクトルが(向きでも大きさでも)被害者に向かっていたかどうかを問わず起こります。
確かに異性愛者は同性愛者に対して「真剣に交際を求めることは」少ないかもしれない。しかし異性愛者にとって同性間の行為はポルノでありプレイのひとつで、性的冒険でおふざけで、仲間内での酒の肴である。「他者サゲ自分アゲ」の道具に同性愛者を使う。昔のテレビ番組を覚えていますか。同性愛者の欲求を笑うことも、異性愛者には欠かせない楽しみだったわけです。カウントするなら、同性愛者側の被害もきちんと数えましょう。
こうした「暴力」に関してはいくらでも話がある。暴力からの逃れにくさについて、私たちは語り合ってもいいでしょう。性的少数者にとっても性被害は逃れにくいものであったという話は、誰もが性被害を受ける可能性があるという深刻さを証明こそすれ無化しない。お互い「被害」の話も「加害」の話もできる。利害は一致している。だからその話にしても構いませんよ。きっと有意義な報告会になるでしょう。
その時も、サウナで異性愛者男性が同性愛者男性から行為を強要されたというようなケースも、もちろん私は同等に問題として扱います。私は性暴力と闘うのであって、異性愛者と闘っているわけではないからです。イーブンに話をしましょう。私の方は準備ができています。
しかしそのような語り合いをする目的は、当然ですが、決してやり込め合うことではなくて、昔から異性愛/同性愛問わず私たち皆が経験してきたことを、どうしたら互いの尊重ができるのか、自分の心身を、他者の心身も、守って行けるのかという学びに高めて、次代につなぐところにあるべきだ、と私は思います。差別も抑圧も、いじめも性暴力も、あった。それをただ事実と後世に残し、君たちはどうするかと問い、こう生きられるよと示して行く。そのためだったら、私たちはこのとてもキツい課題に取り組めるんじゃないかな。そうだと言ってもらえるんじゃないかと、思うのです。
いつか私たちが出会い、それぞれの知見と経験を共有し、多角的に語り合える機会を楽しみにしております。
さて、読んでいただいてありがとうございます。ここまで読んでくださった皆様には、「これだけ語られるべきことがある」という点を感じ取っていただけていると思います。最後に「私たちは同性の異性愛者からも性的関心をもたれている」というお話をして、結ぶとします。
RYOJIの回答⑤「安全は常に揺らいでいるもの」
私たちは自分が恋愛対象になること、また性的に対象化されることに、エゴイスティックな感情を抱きます。恋愛的/性愛的に親しくなりたい相手から関心を向けられた時には歓迎し、そうした間柄になりたくない相手から関心を向けられた時には困惑するものです。
しかし私たちは誰もが誰かの恋愛対象になり得るし、誰かの性愛の対象になり得ます。そして他者はコントロールできません。私たちが自分の意志でコントロールできるのは、他者と自己の関係はそういうものだと受け止め、その時に自分がどう対応するかを決めておくことだけです。
それでも私たちは「誰が自分にとって安全か」「誰が自分にとってリスクになり得るか」確からしいと思える条件を夢想します。心は積極的にバイアスを歓迎するのです。
私たちは絶えず考えているものです。
「この人は既婚者だから性的に充足しているだろう」
「この人は単身者だから性的に充足していないだろう」
「この人はゲイじゃないだろうから安全だろう」
「この人は非モテだから性的に鬱屈しているにちがいない」
「男だから」「女だから」……
そういうことを全く考えたことがない人がいますか。
私はそういうことを考えないために日々努力していると認めます。
道徳上の理由ではなく、性暴力にならないためにするのですが。
しかしそれでもそうしたバイアスと完全に無縁ではいない。
バイアスをコスト削減の補助機能だと捉えれば、これも「配偶者選択の模倣」のようなことだと分かります。他者に対する先入観を自分に許すのは、確認の手間がコストだからです。実際、脳は負荷を嫌いパターンを求める。だからエラーがあると知っていてもバイアスは避け難いし、だからこそバイアスの暴力性に意識的でなければならない。
見落とされがちですが、誰しもそうしたバイアスは「自分についても」働かせています。性的存在でもあり他者から価値化される自分に無関心になる。無頓着になる。自分に性的価値を認めないという「抵抗」で脱価値化を図るわけですね。自分についての想像力を失うことで、一時の安全を夢想しているのです。今ご自分について「そんな面倒なことはしていない」と感じた方のために、「男湯」「女湯」の話はいかがでしょうか。
あなたが男性なら「男湯」で。あなたが女性なら「女湯」で。
人々はその場所で自分が誰の性的対象でもない/誰も自分の性的対象ではないというように脳を騙して、全裸の解放感を味わっています。そこであなたは自分が性的存在ではないと、感じることができる。大浴場の安息と解放感には、その要素もあると言い切ってよろしいでしょうか。認めていただけますでしょうか。私がこう書くのは、皆さんが同性愛者を警戒するからです。そして同性の裸体に一片の関心もないと嘘をつくからです。
「ちょっと待て。俺は男に発情したりしないぞ」
そう反論されるかもしれません。そしてそれはその通りなのでしょう。
しかし蔑視や見下しという意地悪な視線も「性的」関心であれば?
あなたは性的にあなたを見下したい他者からの視線を感じたことはありませんか。私たちは「大多数は異性愛者だから」というバイアスで、裸の同性たちを異性愛者であろうと見なしていることが多いでしょう。しかしその「異性と性的関わり合いをもつ同性」について、その性的魅力を、自分と比べたことはありませんか。彼らの性生活を想像したことは一度もないですか。それも「性的」な関心でありまなざしです。あなたと性行為をしたいというような欲望からのみで、あなたは価値化されているのではない。性的優劣というような蔑視的な空想でも私たちは搾取されている。同性からの瞬間的な、いわれなき反発を経験したことはありませんか。身体的特徴をからかわれたことは? 誰かの羨望に優越感を覚えたこと、誰かの傲岸な態度に劣等感を抱いたことは? 「性的魅力」だけが搾取されるわけではなく、私たちはいわれなき警戒や蔑視を向けられる最中にも性的に搾取されている。そして私たちはそうしたことに意識を向けたくない。だから自他が性的存在である事実に無頓着でありたいのです。それは性的競争に参加したくないから「だけ」ではない。安全が揺らいでいることを意識するとストレスだからです。もしあなたに身体的コンプレックスがあるなら、それは他者の目線によって植え付けられたものではありませんか。
こういう話って、自意識過剰みたいですよね。
こういう時に言われるのは「誰もそんなに見てないよ」というお決まりのセリフです。それは事実ではありませんが、そう考えるのもいいなと思うことは私にもあります。私も安全を感じる時間が欲しい。互いに害さない、共感のみでいられると思いたい。その意味では、ゲイだけを危険視して、かつ、自分の周囲にゲイはいないと空想することで安心を得ている人々の気持ちは理解できます。現実を見てないし過剰反応だしこっちはたまらないけど、思考の道筋は理屈に合っていると思います。
ただし「他人の視線が嫌だ」と、誰かが気持ちを語ってくれるなら、私は「誰もそんなに見てないよ」とは絶対に言わないと決めています。その通りだと認め、その居心地の悪さを覚える感覚は現実に即していて正しい、と伝えたいです。リスクに目をつぶって安全を空想するより、何が危険かを知って対処を考える方がずっといいからです。
性にまつわる「被害」と「加害」。私たちは日頃、そのどちらもあまり直視せずに過ごしたいと感じています。しばしばそれが欺瞞に過ぎなくとも、無頓着を装ったり、被害者や加害者を特別な誰かと考えて、自分と無関係だと考えようとします。立場的にふたつ、性的少数者のみを敵とみなすのはやめていただきたいとやはり思うし、それだけ想定していては対策にならないということも思い、長いものを書きました。今ひとまず終えようと思って、「どうして性暴力って言うのかな」と考え始めています。その言葉は他に替えようもないと思うし何も悪くはない。しかし人はそれを「暴力になるセックスと暴力にならないセックス」に分けているんじゃないかと、語感に不安も覚えます。どちらかと言えばその暴力は、「尊厳を貶めるために利用される自他の性」というところが本質であり、暴力のために性が使われる感じです。だから性的欲求のあるなしや、性的ベクトルの向きは関係なく加害が起こる。リンチの一環として起こるような場面では特に、被害者の性別も加害者の性的指向も関係ありません。むしろそれは性的欲求ではない。相手の存在を貶めるための行為として行なわれるのです。
「そのちがいが被害者にとって何の意味がある?」と問われれば、私には今、回答するための言葉がありません。そのちがいは被害者にとって何の意味もないし、加害者がゲイであろうがそうでなかろうが同じことだろうと思います。しかし誰しも誰かを加害し得るという、その点を考える時には、どうしても必要なことだと、その一心で書き続けていました。何が加害かを知らなければ、自分の加害に気づくことができない。それでも全てを書き切ることなどできないのですが、ひとまず「暫定版」として終わりたいと思います。すみませんがそろそろ寝ようかな、と……
最後になりますが、こうした話をする時に「加害者にも被害者にもならないために」という言い方は、もう少し考えていただきたいと思います。被害者は「対策しなかったから」その境涯に墜ちたわけではありません。被害を避けるにはどうしたらいいかなんて、誰にも言えないものです。私たちにできることはただ、加害者にならないための不断の努力です。
それでは。ありがとうございました。
この記事をご紹介いただきました
小野 光一 様、ありがとうございました。
この記事をご紹介いただきました
ゆる様、ありがとうございました。

