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NUDE 礼賛 — おとこのからだ 2025

アートは分かんないけど、社会におけるメイル・ボディの扱いは気になる。これは2025年10月25日(土)の日記(の修正版/再アップ)です。

RYOJI

 アート展、ふたたび。個展に行ったTORAJIRO氏が今回も出展されているから、なのだが。メイルヌードの復権を掲げるアート展は非常に数少ないわけだから、希少な機会だった。それで小雨降る中、お茶の水から文房堂まで歩いたわけだ。あの日、雨のお茶の水を傘もささずに(傘きらい)皮ジャンでノシノシ歩いてた奴がいたでしょ。アレおれです。


男性の裸と心と性と欲求と、その語られ方問題

竹内雄大

 三枚ないし四枚が丸められたティッシュペーパー(左)。その重さを知ってる。しかしその重さについて、男たちは未だ語り方を知らずにいる。

TORAJIRO

前回の個展でTORAJIRO氏は「もう幸福になっていい」と語りつつも絵は悲しみを湛えていた。しかし新作群ではより希望と喜びが感じられる。


ギャラリー・トーク

 たまたまなのだが、キュレーターが会場の客たちに作品を説明して回りつつ、作家とトークを広げる時間帯だった。海外の美術館で作品を回りながら絵を解説してもらう、アレですよね。しかしそれは大きな美術館でやることであって、画材店のワンフロアに設けられた小さなギャラリーでやることではないと思う——実際、自分のように予期せず居合わせてしまった者にとっては、作品から作品へと移動しては立ち尽くす人々の群れに阻まれて、自由に鑑賞するには不便だったし、ご自身も出展している作家のひとりであるキュレーター木村了子氏と作家陣のトークは、作品をどう鑑賞できるのかという視点や知見を与えてくれるものではなく、裏話に脱線しがちだった。メイル・ヌードのアートにおける現在地とか、この催しがどんなカウンターになるのかとか、そういう話にはならなかった。

  むしろボディシェイミングを助長するようなところもあったこの日のトークの方向性に触れつつ、雑感を(多くは遺憾を)書いておきたい。アートを鑑賞しに行ったのだから作品について書きたいのだけれど、実んとこ鑑賞中も場内に響き渡るトークに気が散り、ロクに鑑賞どころではなかったのだ。

「イケメン」発言問題

 木村了子氏のトークで最もノイジーだったのは「イケメン」という語だ。イケメンという概念を共有可能な価値観として使用するのだが、木村了子氏の罪はルッキズムではなく通念的に美を規定した点にある(アートの記事でルッキズムを語るつもりはない)。トークの出だしから「イケメン」また「イケメンならざる対象」を規定して語るのでは、このアート展の将来的な広がりが疑わしくなるばかりである。押しかぶせて広げるのは「イケメンばかりを描いていたら客からコンプレックスを刺激されたと聴きイケメン枠ではない人々も描いた」という話で、そこで禿げて太った男性や痩せぎすな男性、また中熟年男性がローマ風の風呂に集う絵を披露されては、あまりにもあからさま過ぎた。客が作家から聴きたいのは「ドブネズミみたいに美しくなりたい」というあの歌に通じる言葉だ。美については高踏的でよいのだ。客は気づかれずにいた美にこそ打たれたくて画廊に足を運ぶ。そして作家がどれほどの高みに到達しているかを知って満たされるのである。

 実は(トークからではなく後で自分なりにあれこれ木村了子氏について読んで感じたところによれば)、現代的なタッチの通念的なイケメンを日本画で描くのは、浮世絵における「美人画」との対置なのだろう。私には理解できないところも、試みとしては野心的ですごいことなのかもしれない。しかしそれならば是非そちらをトークで聞きたかった。「美人」という概念/通念に対して「イケメン」という概念/通念を並列してみせることがどれほど驚嘆すべき挑戦なのか、せめてそちらを聞きたかった。「イケメンの絵で劣等感が刺激される」という男性客の話に、会場の男性客たちが笑っているのも私には理解できないことだった。何が可笑しいのか言ってみろよ。
 ・「イケメンの絵ばかりで劣等感に苛まれる」と作家に言う男性客
 ・その客を笑い話にする作家
 ・それに笑う男性客たち
 褒めちぎりたくて出かけたのに、狙いのレベルが低い。

「ペニスはきれいなものとは思わない」発言問題

 続く作品紹介でも、紹介された作家が流れに合わせて「勃起したペニスを描いていたら客から自分はもうそうならないので観ていてつらいと言われたので」萎え切って包皮に包まれたペニスも描くようになった、という話をする。会場では男性客たちが再びの追従笑いを始める。耐えられない……

 オーケー、これは「イケメンじゃない人も描いた」という前フリあっての、もう一発笑いを誘うトークでしかなかっただろう。話を合わせただけだろう。しかしもう勃起することがないペニスに物語も美も発見できないのならば描かなければいいのだし、先端まで包皮が覆ったペニスこそがモチーフであるべき理由を見つけたのであれば、そこをこそ語ってもらいたかった。 
 そもそも「変な客がいた」という話は客に聞かせる話でもないだろう。それはやはり、品位に欠く。

 何の地獄かと思って、私はひとり憮然としていた。そして各トーク終わりにはキュレーターがそれぞれ作家に「男の体毛をどう思うか」訊ねる流れがあった。「作品における体毛の処理/描きたいか描きたくないか/描くべきか描かないべきか」などテクニカルな部分を問うのではない。「個人として好きか嫌いか」「どこの毛ならあって欲しいか」を作家たちに訊くのだ。おやボディシェイミングからのセクハラすか。どこの毛だって自然美なんだよ。ふざけるな。何の意味もないばかりでなく、ひたすら客に通念的な美意識から出ないよう阻んでいるとしか思えなかった。「おとこのからだ」と銘打ったアート展でそれをするのである。あろうことかその間にも「ペニスはきれいではない」という発言も多々(女性作家陣の間で)飛び出して、汚いとは衛生面の話なのか形状なのかその両方か分からないけれども、それを言う目的は何なのか。彼女たちは男性からヴァギナが汚いものと言われたらどう感じるのだろうか。それが侮辱だと分かるのだろうか。自分たちがペニスを汚いと言うことが、男性に対する暴力だという点は理解できるのだろうか。

 ひとつ理由を(作家が語らないので)代弁すれば、ペニスをモチーフにする女性作家にとって「ペニスは汚い/好きではない」と語ることは、今も必要な防御であるということだ。わざわざ「自分はもうこんなに立派にならない」という話をしたがる男性が現れるからだし、とりわけセックスが好きなのだと思われるリスクもある。だが男性の性器を侮辱する必要は絶対にないし、「おとこのからだ」「ヌード礼賛」という場でそれをするのは、作家自らが芸術を否定することに等しい。なぜこれほど整理されずにものを語れるのか分からない。もし本気で汚いとさえ思いつつ「ペニス描いちゃう女性作家ってイケてるから」描いているなら、それは搾取以外の何物でもないだろう。モチーフに対する愛も敬意もないなら、描くべきではない。例外は恐怖や不安、悪の象徴としてペニスを描く場合だ。彼女たちは汚物としてペニスを描いてもよかったのだし、それなら私も価値を認めただろう。しかし「礼賛」と銘打たれた展示なのであれば、堂々と「良いと思うので描いた。何がいけないんでしょうか」と言っておればよく、それが正道である。
 それ以外にあるんだろうか。

 いとわしいのは、「汚いと思いながら描いた作品」を鑑賞させられることだ。私は耳に入って来るトーク中で「イケメン」という語を使った作家について、またペニスを「きれいなものではない」と昂然と語った作家については、その作品と向き合おうとは一切思わなかった。一顧だにせず通り過ぎた。作家自身がモチーフを愛さなかった作品に、作家自身がその美を信じていない作品に価値はなく、客側に鑑賞する義務もない。観客はその責を負わない。そんな絵は一瞥にも値しない。

「男は男に生まれない。男になるのだ」

 そして会場の、「いやあ、言われちゃったなー」というように声を立てて笑っている男性客たちは何なのか。こういう場面ではいつも「男は、男に生まれない。男になるのだ」と思う。「そうそう汚いもんなあ」と頭を掻くのはなぜだよ。怒れよ。おれのチンポは汚くねえぞお前らのは汚いのか?

 この社会では常にふたつのメッセージが示されて来た。「女に女の性と身体を恥じさせるな」と「男は男の性と身体を恥じよ」というメッセージだ。ペニスを汚いと語る暴力は正しい暴力とされている。しかしそれを許すところにどんな芸術的革新があるだろう。どんな闘いがあるだろう。どこに美の発見があるだろう。祈りがどこにある? このアート展の真意(として屹立すべきもの)はついにトークで明らかにされることなく、姿を消した。

 なぜ、男に男の身体を笑わせたのか――ひどく無念だった。目を開かれることなき無知なる者に自らを笑わせる残忍。そして昔それをさせられていたのは女性なのだ。その女性が今はペニスを笑うことを男性に求める、その醜悪。マイノリティの経験とは何だったのか。歯噛みする。しかしこれはそんな「牧歌的な」話ではない。
 男は、それほど単純ではない。もっと狡猾である。「もう私は勃起しませんからこういう絵は苦しいです」とわざわざ言いに行ったという、その言葉そのままに狡猾である。「お前は勃起した男のものが好きなんだろ?」と言いたい意図を隠した、その言葉。

 世間はいつになったら理解するのだろう。男性集団の中で男が男の裸体を笑うとき、そこには同性間の「けん制」が忍び込む。恐怖と嫉妬、優越と劣等意識が水面下でせめぎ合い出口を探す、緊張が生じる。この「笑い」はストレスに対する防衛反応でもあるのだ。しかし男性集団の「緊張→緩和」プロセスには、異性への反感で団結する部分もある。「それでも女は男を受け入れざるを得ない」という「笑い」に転化することもあるのだ。「それでも男は女を受け入れざるを得ない」と女が先に笑ったのであれば、尚のことである。
 私は何もリベラルらしく「男性の気持ちも傷つけてはならない」と言っているのではない。「男に男の身体を笑わせるなんて残酷だ!」と言いたいのでもない(どちらも言うべきであろうが)。見くびって笑うのが、最も良くないのだ。彼女たちは明らかに見くびっていた。私が観客たちの輪から抜けたのは、暴力と距離を置くためだった。そこで何かが始まるわけではなかったが、そこでは乱反射のように悪意のベクトルが飛び交っていた。
 なぜ彼女たちにはあの「笑い」の裏面が見えないのだろうか、と思った。しかし人間を見渡せば、恐れながら高揚し、怯えながら見くびる。実に多くの人間がそれをして自覚しない。そして、間違うのだ。

 どう見ても不要なトークだった。「なぜ女性作家がペニスを描くのか」という話になるべき場面さえ生かせない。いっそ害悪でさえあった。せめてカッコいいことのひとつも言えよとウンザリしたが、その準備さえ出来ていなかったということなのだろう。しかし何もかもを横目に飛び越えてしまえるのが芸術だったのではなかったか。その跳躍が、飛翔が、見たかった。
 女がペニスを描けば好奇の視線に晒される。そこを引っ繰り返したくならなかったのかな。低俗な世間に合わせて「別にペニス好きなわけじゃないですから」と言うために開催したわけじゃないだろう。そのためにペニスを描いているわけでもなかろうに、と思うのだ。

「ヌード礼賛」展においてヌードは礼賛されたのか

 女性を【見られる性】として女体を価値化してきた歴史に抵抗して男性をも【見られる性】と置き、男体を価値化するのは前時代へのアンチテーゼになる。その表現としてメイル・ヌードを商品として引きずり出す試みなら大いに賛成だった。実際、トークでは「男性を【見られる性】に置き直す」という視座も開かれていたのだ。仮にその方法のひとつとして「女体の価値化の結果、男体は無価値なものとされました」という点を強調するのなら、「ペニスは汚い」という表現は(女体の価値化を追走して)成立し得る。
 いっそ「無価値展」をやるとか、確かにひとつ手段ではあるかもしれない。しかしそれは「等価にすることを目的に置かない場合の」、尊厳を再び地に落とす、先も広がりもない手だ。それでも「おとこのからだ」というテーマには合うのかもしれない。だが「ヌード礼賛」というタイトルにはどうだろうか。

 あの場においてメイル・ヌードは礼賛されたのか。男体に美があるかのように客を呼び込んでおいて「ペニスは美しくない」と語ってみせるトークを聴く限り、そうとはとても思えなかった。観客たちに事前準備ができていたとして、それはまちがいなく「メイル・ヌードにおける美を一部否定する」準備ではなかっただろう——私はそのアート展で起きることを言葉どおりに「ヌード礼賛」だと信じていたのだ。まさか「恥じ入れ」「部分的に隠せ」と言われようとは、全く思いがけないことだった。「イケメン」なんて浅く棒切れのようなワードがまかり通る場とも、予想しなかったのである。

 アートは美を規定するものと今も闘い続けているだろうか。メイル・ヌード展という爆弾を使うなら、そこで何を見せられるだろうか。私はやはり「全肯定」以外の道はなかったと思う。そう思えてならない。
 日本画の「美人」に対して「イケメン」という通念を置く、その意図は分かる。しかし「表現として」効果的であるかとか、「誰かを傷つけてさえ/時代を戻してさえ」どうしても必要かとか、「芸術的に」真に価値ある挑戦かという点で力弱く、やはり「否」と言うしかない。美人画に抵抗するならば、通念的でない美を見出す以外にない。これまでもそうだったし、これからもそうなのだ。「美人/イケメンって何だよアホか」と言い続けることなのだ。彼女自身の語りによれば木村了子氏にとって「イケメン」は新庄剛志のような人らしいのだが、新庄剛志に似ても似つかない私が、あの日ギャラリーの中で客からナンパされていた事実は、多少なりとも反証になるだろうか。会期中、誰か会場でナンパされてた奴がおれの他にいたか? そして会場には他に多くの「私に見向きもしないゲイ」がいたことも「イケメン」の共通イメージなどないことの証左だろう。ねえんだよ、そんなもん。これまではどうでもいいし、これからは絶対ナシなんだよ。美人画だって、美の基準が時代に移ろうことしか示していない。

等価として示せ

 海外の話として、トークでは「男女どちらもモチーフとするヌードのアートが」各々の点数まできっちり半々に展示されることがあるという(しかしここではメイル・ヌードだけであるという)説明があったが、「そういう話だけでいいんだよ!」と思いつつ、ここは海外を倣っていいのではないかと考えた。きっちり男女ヌード半々にする、価値を等しいものとして示す、それでこそ目に明らかになるものがあるのだろう。作品それ自体が何をインプリケートするかという点は、何より重要だ。しかし展示物の点数からして物理的に「等価と示す」ならギャラリーが、場が問いかけるのだ。それも主催者のメッセージであり、ひとつの作品(性)なのである。

男性たちに男体を笑わせることをやめよ

 メイル・ヌードのアート展で「ペニスは汚い」という発言が何度も飛び出し、自分の身体を恥じて笑うよう促される体験は、不快であった。だがここでゲイの活動家としてはもうひとつ、あの場には男性客に「自分はペニスを見に来たのではない」と安心させる効果が、そんな共犯関係があったことを指摘しておく。「そうそう、醜いよねえアレは。見たくもないよねえ」と追従笑いをしながら彼らが示していたのは客観的事実でも本心でもない。そこに薄くも深く入り込んでいるのは「ゲイと見られることへの子ども時代からの恐怖」だ。DNAに刷り込まれたようなそれだ。メイル・ヌードを鑑賞することにさえエクスキューズが必要なのは、男性客もそうなのだ。しかし、そんな臆病をよりにもよって「メイル・ヌードを礼賛する展示会が」助長することはない。ぜひ何度も開催して適切なトークができるようになればいいと思う。あるいは、専門のキュレーターに依頼することだ。音響もひどかった。TORAJIRO氏のトークはマイクに声が届いていなかった。それを会場スタッフがサポートできなかったし、ギャラリー入口で流しているBGMもずっと邪魔だった。しかしキュレーターの声はちゃんとマイクに届いており、キュレーターがTORAJIRO氏の作品について「良いのか悪いのか分からないけどかわいい(タッチ)」と二度も言ったのは拾っていた。「良いのか悪いのか分からないけど」とは何だろう。よほど抗議しようかと思ったほどの暴言だった。皆トーク終了ごとに拍手していたが、私には(一度も)できなかった。かわいいタッチ、良いに決まってんだろうがよ。失礼にも程があり、唖然とさせられた。展示された作品が「良いのか悪いのか分からない」キュレーターは不要だ。

TORAJIRO

逡巡

 本記事はこの日に開催された「キュレーター不在のギャラリー・トーク」の話でしかない。しかし会場に展示された作品は素晴らしかった(少なくとも三人は素晴らしいと感じる作家がいた)。そして彼らには作品を展示し、名前を知られる機会がどうしても必要だ。もしこの記事が展示会そのものを「ひどいもの」「つまらないもの」と思わせてしまったら。……私が後悔するだけでは済まないとやはり考えたし、記事をアップすることには迷った。しかしせっかく作家のジェンダーもセクシュアリティも不問でメイル・ヌードを評価の対象にしようと骨太な試みを行なうのであるなら、志を高くもって「美ではないとされて来たもの」にまっすぐ強い光を当ててもらいたい。作家なら「萎えて先端まで包皮に覆われたペニス」を描く理由をもてということだ。理由が「もう勃起しないから鑑賞しててつらいという客がいたから」であってはいけないということだ。今回は、隅々までそんな準備が出来ていたとは思えなかった。

 だが、「皆が」というわけではない。


「ゲイ・アート」が(やはり)担う役割についてのメモ

 ご自身は異性愛者だがメイル・ヌードを描く画家の六原龍氏は、トークできちんと「モチーフとしてのペニスの造型美」について言及されていて、トーク終盤に軌道修正してくれたという安堵感があった。そして会場には、ゲイ作家による男体「礼賛」が確かに存在した。彼らゲイ作家の作品は、いつも私に「NUDE」というより、能動的に主体的に裸体を晒したのではない「NAKED」ということを強く思わせる。彼らの裸の心に見入る/魅入られるような体験をもたらす。ここでもシステムから外れ置かれたところに始まったゲイ・アートの歴史はそれでも長く、ゲイにとってメイル・ヌードは今さら再評価を待つものではないし、ことさら昂然と謳う思想も不要で、傍からいかに非日常的に語られようとも、湛えるのは日常であり、ただのリアルである。
 それはいわゆる「ゲイ・アート」が既に市民権を得て来たという話ではなくして、男性の美を描き出す行為においてアプローチは長い時間をかけて試行/実践されて来たというだけの話であるのだが、彼らが「他者として/自己としての」男性を描く視点には、やはり見ておくべきものがあるだろう。

 TORAJIRO氏の絵には「男性が女性に表現しない/女性が男性に表現させない」男性たるものの一面が確かに描き出されてある。それは例えば繊細さ、柔らかさであるだろう。やはり孤独感が胸を突き、強さよりは弱さが作品を構成するが、それはゲイが見て来た「男」の確かな一面である。その進度は、たとえば女性写真家が全裸の男性を撮った作品で、男性モデルが挑む目つきになっていたことと比較したとき、やはり隔絶している。男性モデルたちはカメラの前で全て脱ぎ去り、また一枚、自意識をまとう。それは服より邪魔なものである。なぜそこでシャッターを切るのか。指を伸ばしても、肌に触れない。唇を寄せても、心に届かない。カメラが本質を捉えない。モデルが恋をしていない。——その点、TORAJIRO氏の意図は明快である。

TORAJIRO

 上の作品(左)。抱擁され、縋りついて安堵する。男性にとっても当たり前のことだが、果たしてそれは当たり前のこととして描かれて来ただろうか。当たり前のこととして社会で語られてきただろうか。氏の作品世界には、抱擁の不在が描かれることはあっても、抱擁の必要を否定するまなざしはない。男もまた抱擁を必要とする生き物でしかないという、その事実だけがある。そして全身が包まれたとき、心が溶け出す。腕が抱き返す。

 私は分別もなく生意気盛りの時代に「女に抱かれたことがない男や男を抱いたことがない女にはゲイのことは分からない」と考えた。今でも不必要な分別は身に着けてないつもりだが、今なら「男/女のことは(分からない)」と言い換えてもいい。そう、私は「女を抱く」「男に抱かれる」という言い回しが大嫌いだった。人と人は抱き合うものだろう。しかし(女を)抱く/(男に)抱かれるという言語表現は、とりわけ異性間において厄介な宿題を残し続けて来たのではないか。ゲイ・アートは計らずもそこを照射してみせていた。ただ絵の世界に分け入り、人はそんなことを感じ取っていればよい。

TORAJIRO

 男性について、TORAJIRO氏の世界を眺めながら考え続ける。彼らのための新しい均衡が未来にあり、彼らを思って寄り添い祈る存在があることを、彼らに教えようとした者がいただろうか? TORAJIRO氏は伝えている。隣で祈ると示している。そんなアートはやはりスペキュラティブだと思った——現在を問い、未来を想像させる。

 「ゲイ・アート」という括りが適切で公正なのか私は知らない。過去からの学びに照らせば、それらは単に「アート」と呼ばれることが正しい。——教科書どおりなら、そうだ。

 しかし「可愛らしく描かれることすら」疑問視されペニスや体毛さえ忌避されるような、同性も異性もその空気の中で笑うような時間、ゲイ・アートというその言葉が他にない「光」のように私には感じられていた。表現上の手法のちがいでなくもちろん技量の差でもなく、男体に向けるまなざしの優しさが、ゲイ・アートは異質だと思うのだ。特別だったのだ。それはむしろ愛した経験の差、愛し方という問題かもしれない。男体の、性も心も、ペニスも、個々様々な差異も特徴も、可愛らしさも、否定されるべきものではないことをゲイは知っているだろう。慈しみ方も知っているだろう。イメージとどう同じでどうちがうのか、知っているだろう。怯えや迷いを宿した目が、震えた指先が、縋りつく腕が、助けを求める声も涙も、間違いなく男性のものだと知っているだろう。——ならば、それを描けばいい。それも男だと、ゲイが描き続ければいい。

 「男」のためにそんな役割を務める者が、今なおゲイ以外にいるのだろうか――これを単なる挑発と捉えられても、かまわず私は問いかける。彼の優しさを、笑わず。弱さを、笑わず。つたなさを、笑わず。もどかしくも男たちのまだ少し遠い体温を描き続ける人々がいるなら、それを希望としよう。未来に広がるのは人々が男の裸を笑わずに眺め入る世界だ――そうでなくてはならない。恐怖と嫌悪と嘲笑の対象として(まるでゲイのようだ)男性の身体性は位置づけられてあった。そしてこの日に私が見たのは、侮辱されつつ自身そのものの誰かを笑ってみせた男たちの姿だった(まるで教室で繰り広げられるゲイについてのジョークに合わせて笑っていたゲイのようだった)。嘲りの忍び笑いが意図するものは何だったか。もし「尊厳とは、人にとって所詮この程度のものだったのか」という自嘲的笑いでないのなら、それはひどく残酷な「笑い」であった。犠牲者を切り捨てて自己を守るときに人は泣かず笑うのだ――私は誰かがそれをするのを、もう見たくない。

 ここから半歩でも出なければならない。否、大きく跳んでいい。


 結局、異性にとって/同性にとって、メイル・ボディやメイル・ヌードとは何だったのだろうか。まず脅威であり、侮蔑の対象でもあったもの。「みっともない」と笑われるもの。その愛で方をまだ人は知らない、と思う。ではゲイである自分は男をどのように愛してきただろうか。自分にとって、他の男の身体はいつでも、既知でありつつ依然として未知であり続けるものだった。私にとって彼らとの交歓は秘密を見せてもらえる喜びであり、存在を許し合わずにいられない渇望だった。自分にとってはそうだった。自分を愛することは難しかった、単に認めることも。抱えた欲求を絶えず侮蔑されていればそうだった。彼らを許し、そのことで自分も許された。
 (いや、異性間でもそれは同じなのではないのか?)——覆い隠すものがなくなった男たちの身体には、誰かを愛し誰かから愛された記憶が刻まれているだろう。またひとつ新たに印をつけよう、愛の痕を――beloved, 「彼は愛された」、と。

 帰り道、思った——おれはNUDEよりNAKEDの無防備さが好きだなと。ヨロイもポーズも神経症的な笑いもそこにはなくて、照れ臭そうな君が、目で問いかけるから。それだよな、これから何を始めようか。おれとしては余計な一枚を、脱がせたい。脱ぎなよ、愛したいからさ。


お詫び

 この記事は、再掲です。初回時のアップは下書きを誤って公開してしまっただけだったので取り下げましたが、その短い間にも3人の方から「スキ」を頂戴していたので、とても申し訳ない思いでおりました。改めて、多少加筆修正したこの文章をアップさせていただきました。本人としては初回より幾ばくか納得できるものになりましたので、そういうものかと納得していただけましたらと、いささか求めすぎではありますが、願うばかりです。

 あとつまんねーこと書けば、「男を礼賛しているのはゲイだけではないか」的に書いたことは現時点での俯瞰であって、「これまで・現在・これから」女性が(あるいはヘテロ男性が)男性を描けないとか言っているわけではありません。誰に遠慮することもない、描けばいいし、自分を作家と思うなら描き切ればいいんじゃないですか。まあこっちの気分的には怒りや軽蔑をのみ読んでいただいたとしても全然構わないんですけども(ペニスは汚いとか、侮辱はきっちり受け取ってます)。ああこっちはお詫びじゃねえな。つまんねーこと追記することについての、ごめん。

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