どんなラララ(週記:2025/03/15)
「読むのが追いつかない」という悩み。許してくらさい。そんなラララ。
初見でナメられないのはいんだけど
床屋へ。担当の方から「初見じゃナメられない感じになりましたね!」と言われ、「初見ではナメられない風貌でありつつも、交流すると中身が速攻バレるカンジで生きていきたい」と思う。繁華街をカッコつけて歩きつつ、同時に「こいつラララ書いてんだよな」とバレていたいと願う、私の両価感情。……ま、割とお望み通りバレんだけど。
パートナーから電話かかって来て
今日はどこか出かけたりしたの、と訊かれ、「……床屋に行きました」と白状する。何年もセルフカットしていたことを知るパートナー氏は敏感に「パンチにしたの?」と問いかける。「……そうス。すみません」となぜか謝るおれ。「なんで謝る。いいじゃん」とフォローされるおれ。まあ大体許容されるのだが。もし理由を問われれば時代の変遷と男性ジェンダー表象についてひと下り語ろうと思っていたのだが、そんなこじつけ要らないよね。論拠なしの持論だし。実際、理由なんて「トップ長めにしたいけどまとまらなくて面倒だから」だけだし。あとホラ男やろうと頑張ってる男ってカワイイじゃないっすか、方向性間違うと死ねとか思うけど。サイド刈り上げたスタイルのパンチって「濡れパン」って言うんすよね。「ヤらしい」って感じた人はココロが汚れてるんですよ。……言い訳なげえ。
シンナーの話、詳しくねえのよおっさんだけど。
おっさんだしパンチだし話を合わせてくれようとしたのか、若い床屋さんがシンナーの一斗缶について話してくれたのだが、ごめんおれシンナー吸ったことねえのよ。あの文化っておれが小学生の頃に中学生がギリやってた感じなのよ。ちょっと調整しようとして「まあ今は市販薬のオーバードーズが問題ですよねえ」と話を向ける。でもシンナーとかボンタンの話のほうが今となっては(まだしも)笑って話せるよな。それはわかる。過去だからね。何であれ笑えないのは、真に過去になっていないからだ。いつかヘイトも過去になる、そうさせる、「アンパン吸ってたやつら」みたいに。髪型までオラついちゃったついでに、ミラーに向かって「うっせえよ」と言ってみる。アラお似合い。おれは「うるせえ」と言ってるときの自分の顔が人間らしくて好きさ。当分そんなカンジで――清潔感あって理屈言うゲイなら、他にいるしな。
Rag'n'Bone Man の「Human」(2017)聴いてて。
「Rag'n'Bone Man」って「いきものがかり」的なことなんかしら。
いやコレを書きつつ聴いてるのは「Life By Misadventure」というアルバムで「Human」が入ってるのは別のアルバム(配送予定では今日届く)なんだけど、ラグンボーン・マンの「Human」はなかなか「厄介」な歌だと感じている――とても(歌声の魅力が強く印象に残る彼の楽曲のなかでは)異質で際立ってメッセージ性が強い部類の曲ではないかと想像するのだが、「対立構造のどちら側にいても」自分の立場に置き換えて聴ける歌なのだ。「おれは愚かだろう、物事が見えてもいないんだろう(ただの人間でそれ以上の存在ではない)」と始まるこの歌は、「だから責めてくれるな」と繰り返す。
「対立構造のどちら側にいても」心を重ねることができるし、どっちサイドにいても、心を責められずにはいられないのかもしれない。引け目を感じて「落ち着かない気持ちになる」なら、たぶん正しく聴けているんだろう。
異なる立場の人々のことを、長い間考えてきた。それは「目配り」や「優しさ」ではなく、必要なプロセスだからだ。調整すべき未解決な課題があったら、なぜ対立が放置されてきたのか考える。それは情緒や情感なんかとは無縁に、ただ絶対に必要な対応なのだ。でもそうした手つきは、必ずしも当たり前のものではなかった。乾いて温かい、分厚く大きな手のひらによる、繊細な仕事は。頬に置かれて安心する手のひらがない。
人がしゃべるのは「理は我にあり」ということだけだ。聞き飽きている。あるいは「どっちも嫌い」と駄々こねて終わる――それも見飽きている。自らの無為無行動を許すための他者批判なら聞く価値もない。「ノンポリ」なんて言葉が聞かれなくなって久しいが(誰もポリシーねえから揶揄できなくなったんだろな)、傷つきを装って離脱はできないのだ。意見が分かれても「傷ついても」スタンスを一方に定め、誠実に言論を洗練/成熟させていく先にしか前進はない。――この歌も屁理屈に隠した後ろ向きな自己憐憫なのだろうか?
そこの如何は「should go looking somewhere higher」という部分をどう解釈するかにかかっているのかもしれない。なぜこの一文が入るのか。何を超越すべきなのか、どのように超越できるのか。聴き方によって、この歌の印象は大きく変わる。
「こっちはただの人間だ」という「居直りのような」言葉。しかし「そっちだってただの人間だろ? 」と重ねているのだから、「咎め立てるなよ」は「咎めることはしないよ」になる、そこはイーブンゆえにそうなる。どうも歌の造りを考えれば、その聴き方しかないように今のところ思えている――「一緒に高いところに答えを探せないか?」という歌なのではないか、と。
実際そうであってくれないと困るのだ。この歌声が好きだから。傲慢にも繊細にも愚直にも傷だらけにも見える風貌で、こんな声で歌われたらさ。
どーなんだろか。
こういうのってちゃんと英語できる人が和訳してくれればいいと思うの。音楽に詳しい人が「こんな背景でね」「こいつはこういう人物でね」と解説してくれるとかね。結果おれが、CDブン投げるかもしれないとしてもさ。
マガジンにご登録いただきました①
青山 風游 様が運営されるマガジン「とって おき させて下さいませ」に、記事「THE LAST OF US ディスク届かんのよな」を追加していただきました。
KOHSUKEさんの記事で知った原作ゲームの映像化があって、主人公たちがゲイカップルであるエピソードについて、未見ゆえに内容について感想は述べないとしても「社会の変化について」ゲイとしての思いを書いていた。「かつてイレギュラーとされた組み合わせのふたりで」普遍的な愛情関係が丁寧に誠実に描かれたとき、人はそれが愛の物語であると理解できるか――それは創作する人たちにとっては重要なテーマかつ挑戦であるだろうが、ゲイは「ヘテロしか出て来ない名作の数々を」与えられ、それらが描くものが「愛」だと理解していたのだという、ひとつの事実を考えてみてもいいだろう。将来は「それが愛を描き切っていれば」良い作品だと誰もが思えているはずだ。そうした変化は微かなザラつきを残しながらも、始まっている。
ところで。
おれは社会の変化に対して斜に構えた態度で応じる「当事者」が好きじゃない。おれは鏡のように生きるよ――受け取ったら背筋を伸ばせ。まっすぐ立ち前を見ろ。――よい変化を見とめたときには。それが「礼儀に対して示す礼儀」というもので、「報いる」ということだろう。
マガジンにご登録いただきました②
たよろよろ図書館DATABASE 様 が運営されているマガジンに、記事「今日のどなたに」を追加していただきました。
この記事は sanngo様 もマガジンに加えてくださっていて、記事のナメたタイトルやプンプン怒っている部分もある内容を思えば恐縮するのですが、大変ありがたいです。おふたり共ありがとうございます。
マガジンにご登録いただきました③
青山 風游 様が運営されるマガジン「出会った 詩 集」に、記事「あくにん」を追加していただきました。
人生で大きく傷ついた経験は何度かあるのですが、生まれたことレベルで後悔するような体験は一度だけです。メタメタやられた数年間があって、言葉を胸につぶやきながら夕暮れの空を撮って。この「あくにん」は詩なんですか、分からないです、ここに詩を詩として成立させるものがあるのかどうか。でも、嬉しいです。
マガジンにご登録いただきました④
KP61 様 が運営されているマガジン「BREAK THE BORDER」に、ある日のつぶやきを追加していただきました。ハル・ベリーに母親が言ったという言葉についてのつぶやきです。
「勝ち組/負け組」と口にする精神の貧しさが大嫌いでした。負け犬と見なされる人生は自分にとってはキャリアだったし(ゲイではなく別の要素についての感慨です)、「どう計量し直したところで自分は絶対的に恵まれていて」それゆえ社会に寄与しなければならないと思うことしかない。痛みや傷はより良く生きるための何かでしかない。――そう言える自分は恵まれているのです。ただし心弱く世の中を眺め、自分の内面に迷い、自分が何者であるか忘れる瞬間は度々あるし、「よき敗者になれない者は、よき勝者になれない」という言葉の意味について本当に理解しているとは言えません。
ただ分かるのは、この言葉を「戒めとして/恵みとして」受け取れる資質をもった人は恵まれているということで、そう在りたいと思うのです。
マジで読むの追っつかんわ(謝罪)
分かってるって。わーかーってるーって。読みますって。マジ読みますって。だから許してって。いやすみませんすみませんすみません。2週間遅れくらいになっても「海のような心で」見守っていただけましたら。何とぞ。
