45日目:水神と竜宮の噂
薪の焦げ、味噌の塩、濡れた土を踏み固めた道の匂い。人の線が太くなると、音も増える。戸の開閉、荷を引く軋み、遠くの声。生活の音が耳に届いた。
昨日の木苺の甘さが恋しい。もう少し摘んでおけばよかった。
それに、湯の町でまとった温さも少しずつ薄れてきている。湯は身体の芯にだけ、微かに残っている。けれど足は正直で、昼を過ぎると重さが戻ってきた。
山が低くなり、川が太くなり、道が素直に伸びる。人の往来が増えた。店先に干された布が揺れ、軒の影に道具が並ぶ。歩く線が、ひとつに束ねられている。
昼前、道の脇で、二人の声が聞こえた。
仕事の合間の、軽い会話だ。こちらに向けた言葉ではない。ただ、内容が気になり、耳に残った。
「……大江山の奥の岩穴の話、聞いたことあるか」
「あの、酒好きな鬼の頭領の住処か。かなわんよな」
「厄介やけど……水神さん絡んでる言うやろ。竜宮みたいなもんや。行ったら戻れん、て」
水神の竜宮。その言葉が、胸のどこかに引っかかった。マトが北の方を“調べる”と言っていたことを思い出す。重なるのは、ただの気のせいかもしれない。
里の人たちは、それを笑って話す。
怖がるどころか、面白がって酒の肴にしている。
けれど、その軽さが、逆に本物みたいに感じた。ほんとうに危ない話は、遠い話としてしか残らない。近いと、言葉にしにくい。
太い道はそのまま南へ伸びていた。伝えに戻るべきか、と一瞬思った。けれど、今の自分にできるのは進むことだけだ。引っかかりは、胸の奥に置いて歩いた。
それでも、僕は時々立ち止まって、空を見るようにした。進む道に迷いはない、ただ、立ち止まらないと、考える事を止めてしまいそうになるから。
夜、眠りに落ちる前に、胸の前で指を揃えかけて、手を止めた。
今日は湯も水も近くない。形だけ真似しても、意味はあるのか。
ただ、身体の芯で消えかかった湯の残り火に、もう一度触れたくて、手を合わせて敬意を込めた。
