冬の夜、青金石と眠る物語。
真っ白な液体からかすかに漂う油脂の匂いが、冷えた空気にやわらかな膜を張ってゆく。
攪拌され、次第に艶を帯びる生クリームの表面を眺めていると、冬の曇天の空の色が心に広がるようだ。雪が舞いおりてくる前の静けさと、水気をふくんだ風の質感を思い浮かべた。
キルシュヴァッサーの、華やかな香りと。
グリオッティーヌの、艶やかな暗紅色と。
ココア色のジェノワーズに、陽光を反射する雪原のようなクレームシャンティ。
アンビベとナッペを繰り返し、シュヴァルツヴァルトの森を組み立ててゆく。パレットナイフは、自分の指先だと思え。切り分けた際の断面を思い描きながら均すときは、ほんの少し息を止めて。全体がなめらかになったことを確かめてから、木の葉のようにごく薄く削られたチョコレートを散らす。
仕上げには、ラフティスノウを。
微細な粒子に閉じ込められた甘さは粉雪となり、黒い森の樹々にうっすらと降りつもる。
シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ。
ドイツに広がる森の情景を象ったケーキの名を、心の内で呟いてみた。樹皮の肌ざわりを想像しながら手を動かしていると、昨夜読んだ物語のかけらがふとよみがえる。そしてそれは金粉となり、目には見えない輝きを、梢の先にそっとあしらってゆく。
月の姿が無い夜空の下を歩く。
巡りくる季節は、どれもがそのときどきの香りを纏っていて、指の間をすり抜けて過ぎ去るそれを長く留めておくことは出来ない。
冬の香りが好きだ。よく研がれた刃先のように青く澄んでいて、洋酒やチョコレートの甘やかさが天鵞絨のリボンのようにその上でほどけるとき、胸の奥底で小さな光が熾る。
その光を読書灯にして、いちにちの終わりに繙く本の頁は澄み渡っている。
『ラピスラズリ』、この作品に出会ったのは、もう十年以上も前のことだ。ちくま文庫が並ぶ棚の前に立ち、背表紙を眺めていると何故かこの一冊だけが鮮やかに目に飛び込んできた。ひそかに声に出して題名を読めば、その響きは夜露の雫が揺れる音色のように感じられたのだ。
目次に並ぶ、銅版 閑日 竈の秋 トビアス 青金石、ということばの風合いに心惹かれた。「銅版」と題された一篇は次のような文章から幕を開ける。
「画題をお知りになりたくはありませんか」──睡眠不足で赤い眼をした画廊の店主はそのように話しかけてきたのだったが、そのときわたしが立ち止まって眺めていたのは横並びに展示された三枚組みの小さな銅版画だった。
「銅版」より
深夜営業の画廊に佇み、心奪われているのかただ放心しているだけなのか分からぬまま、細部まで緻密に描き込まれた銅版画を眺める"わたし"の隣に立ち、店主の充血した眼を見つめながらその説明に耳を傾ける。
森の場面、真冬の寝室の様子、緑の幾何学庭園。
三葉の版画に見入っていると、冬眠者、ということばが店主の口からこぼれ落ちてきた。
彼ら彼女らは冬の間、〈冬寝室〉と呼ばれる場所で、眠り続けるのだとか。その物語を描くのが、この銅版画なのだと。
四柱寝台に横たわる婦人、床に舞い込んだ数葉の枯れ葉。天井まで届く飾り戸棚に犇く大小の人形の群れの視線に絡め取られ、いつしか物語の世界へと架けられた橋をわたしは渡りきっていた。
城館を彷徨うゴースト。春を迎える前に目覚めた冬眠者の少女。人形を怖がる召使。火の番にあたる少年。
目まぐるしく変わる視点に翻弄され、自分が今いる場所が分からなくなる。ただ感じられるのは、ことばで構築された世界の壮麗さだけ。そして、晩秋から冬にかけて彩られる樹々の葉の香りと、燃え上がる焔の鮮烈さと。
薄色の陽射しを漉して黄変していくカバやケヤキ、深紅のカエデ、浅緑の木立ちと金いろのブナの樹林に混じる火の色のナナカマド。秋の日の終日をひそひそと森の日蔭の窪地を辿って歩き続けるうちに、やがて枯れ葉の囁きが耳に憑くようになった。
冷たいからこそ味わえる、ぬくもりの深さがある。カモミールティーで満たされたマグカップ、やわらかな手ざわりが心地よいひざ掛け。更けてゆく夜の中で、玄冬、ということばを思い浮かべた。
漆黒の上で、白と紅、金と銀の色は一層際立つ。
綴織のような文章から伝わるってくるその色を、手のひらで温める。真冬の虚空に貫き透る少年の声が、耳元で閃く。
「これが雪と氷、これが寒さ、これがおまえたちが知ろうとしない〈冬〉なんだよ」
叫んでから、これを叫ぶためにここまでやってきたのだと急に気づいた。思うことは胸に溢れたが、つづく声はことばにならなかった。──この荒れる肺の鞴、痛い氷の粒を含んで騒ぐ血が〈冬〉、これが〈冬〉なんだよ。
凍てつく星の光、きらめくひとひらの雪。
どうして冬眠などできようか。ときにその冷たさが肌に血を滲ませるとしても、この季節だけがもたらす真白な静謐さとともに、わたしは日々を送りたいのだから。
冬至を過ぎれば、遥か彼方に、春の後ろ姿がほの見えてくる。
厳しい寒さの向こう側にある、やわらかな旋律が野原に満ち、鳥の羽ばたきが花開く。
最後の一編「青金石」を読み終えた後に心を染めあげるのは、果てなき天上の色彩と、瞳を照らす眩い光。
冬を越えた先に待つ季節の瑞々しさに巡りあう為に、これから先も繰り返し、この物語の世界を訪れる。きっとその度に、ラピスラズリの輝きは、眠りの水面に揺らめくだろう。

いいなと思ったら応援しよう!
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
あなたの毎日が、素晴らしいものでありますように☺️