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花と心の色。青空の雫。

真夏のような陽ざしに目を細めながら、ちいさなやしろの門をくぐって手水舎に向かっていると、目の前をふわりと横切るものがあった。
視線を上げてみれば、澄み渡る空を背景にして、見事な模様の揚羽蝶が翅を泳がせている。優雅に舞う様子に見惚れていると、静かな境内の中で一瞬時が止まったように感じられたけれど、もちろんそれは気のせいに過ぎなくて、社務所の奥で庭の手入れをしているひとの姿が視界に入り、我に返った。

参拝を済ませ本殿の脇で佇んでいたところ、紫陽花が咲いているのが目に留まり、その方へと足を進める。
色が異なる花が隣り合って咲いているのを眺めながら、それぞれの在り方でその場所に存在するということの不思議さに、思いを馳せずにはいられない。


やわらかな色のすぐ隣で


深い色の花が咲いていた。


花と緑の色彩を心の中のパレットに絵の具をのせるようにして楽しんでいると、不意に、「もっと自分を出した方が良いと思うよ」ということばが耳元で響いた。


それは数日前に職場の面談で言われたことで、そのことばは自分にとって目新しいものではなく、幼い頃から様々なひとに言われてきた馴染み深いものだ。助言として口に出されていることは理解できるのだけれど、それを聞くと、気持ちが沈むのを避けることができない。

どうして、わたし自身としてただそこに在るだけでは許されないのだろうという思いと、出せるような"自分"なんて何ひとつ無い、という虚しさにとらわれる。

これまでの人生の中で、"自分の好きなものがわからない"という時期が長かったせいだろうか、些細なことがきっかけで、わたしという人間の中身は空っぽで、何も無いのだ、という気持ちの波に攫われることが今もある。

夕暮れどきに雲をふちどる光や、ページを開くだけで風が吹き抜けるような心地がする詩歌集、夢に落ちる刹那の花が綻ぶような気持ちの和らぎに、琥珀色の照明の下でゆらめく珈琲の表面。

好きだったり、心が動いたりするものはささやかなものばかり。そして、そうしたものが好きなのだと自覚してから、それほど時も経っていない。
朝露や風花のように儚く移ろっていくものに対する思いを誰かに手渡すことはいつだって上手くできなくて、口に出した瞬間に、胸にある気持ちは雲が流れるみたいにして姿を変えてしまう。

ささやかなものに心が動くということは、小さなことで傷つきやすいということと表裏一体で、昔のわたしはそれが許せなかった。許せなかったというよりも、心の揺らぎを自分自身でも扱いかねていて、もっと強く、傷つかないようにならなくては駄目なのだと思いこみ、次第に厚く重い鎧を着込むようになっていった。

歳月を重ねた後に、鎧の重みに耐えきれなくなり全てを取り去ったとき、自分の中には何も残っていないと感じて、そう感じた瞬間にふれた底のない闇の濃さを、いつまでも忘れることはないのだと思う。


目を閉じて陽ざしを浴びていた紫陽花の色を思い描き、その色を灯火のようにして闇を見つめる過去の自分へと差し出してみる。

何も無い、なんてことはない。
この色に揺れ動く、心がある。

そう思えるようになるまで、あきれるほど長い時間がかかってしまった。その思いさえも確固たるものではなく、ほんのわずかな風が吹いただけで消えてしまうようなものなのだ。

それでも、何も無い、の波に攫われ沖まで流されても、今は岸辺に帰ってくることができる。

岸辺に立ち、虹色を纏った貝殻や、漆を塗り重ねたような深い色の石ころを拾いあげ、日の光にかざしてみるようにして、目に映った光景の煌めきや、心惹かれたものの姿を書き留めていく。
そんなふうにして胸に刻んだものは光となり、暗い場所を照らしていくと知ってから、帰る道筋が見えるようになったのだろう。

すべてが明るくなるわけではない。
空白の部分も、漆黒の夜を思わせる部分もあるけれど、それも大切な自分の一部だ。
そして、ひとそれぞれが、花のようにおのずから現れる無数の色彩を、心の内に持っているのだと思う。

その色で何が描けるのか、何を描きたいのか、わたしはきっとまだその答えを見出せずにいる。

そこまで考えて息をつき、台所に入り、食器棚の引き出しを開ける。
いちばんに目に入るのは、数日前に購入したばかりの、青空を雫にしたような丸い箸置き。
手のひらにのせてその色を見つめていると、心の中に、透明な光が広がるのを感じた。


ひと目見て心を捉えられたもの。
水で洗う時には、雨上がりの空のようだと思う。








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夏樹 最後まで読んで下さり、ありがとうございます。 あなたの毎日が、素晴らしいものでありますように☺️

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