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夜と心を、やさしく照らす物語

琥珀色にゆらめく珈琲に
白い月の雫と
きらきら光る
星のかけらを
そっと混ぜて溶かし込む

***

夜の色を纏った本の表紙を開くたびに思い出すのは、二年前の冬のとある日のこと。
夕暮れ時の空の透き通ったみずいろと、冷たい風と、書店のある建物の中に足を踏み入れた途端に漂ってきた、珈琲の香りと。


その頃のわたしは、様々なことで心をすり減らしていて、本を読むことができなくなっていた。
花が萎れるようにして、心が乾いてゆく。
うれしさや楽しさが消えてしまうのを感じていながら、なすすべもなくそんな自分を見つめるだけの日々。

夕陽がおだやかな光で街を包み込むのを眺めていると、ふと、本を読みたい、と思った。
そして、このままでは良くないという声が、胸の内で響く。


澄みわたる紺碧の空
春風が歌う萌葱色の旋律
銀色に煌めく雨の滴

そんな色彩を帯びた背表紙を目で追っているうちに、強張っていた気持ちがゆるやかにほどけ、心の中に在る花が瑞々しさを取り戻してゆくのがわかった。


平台に置かれた一冊の本の前で、足を止めた。
『月とコーヒー』という題名を見た瞬間に思う。
この本に出会うために、今日ここを訪れたのだ、と。


「月とコーヒー」というタイトルは自分が小説を書いていく上での指針となる言葉のひとつです。
おそらく、この星で生きていくために必要なのは「月とコーヒー」ではなく「太陽とパン」の方なのでしょうが、この世から月とコーヒーがなくなってしまったら、なんと味気なくつまらないことでしょう。
生きていくために必要なものではないかもしれないけれど、日常を繰り返していくためになくてはならないもの、そうしたものが、皆、それぞれあるように思います。場合によっては、とるにたらないものであり、世の中から忘れられたものであるかもしれません。
しかし、いつでも書いてみたいのは、そうしたとるにたらないもの、忘れられたもの、世の中の隅の方にいる人たちの話です。

『月とコーヒー』吉田篤弘
あとがき より



温かいマグカップを手のひらでそっと包み、二年前の冬の日から今ここへと意識を戻す。
あとがきを読みながら、過ぎた歳月のことを思った。自分にとっての「月とコーヒー」を見失い、あてもなく霧の中をさまよっていたわたしのもとに、やさしい月明かりを届けてくれたのが、この一節だったのだ。


暁方の空気に流れる、季節の香りにふれる刹那
絵画が奏でる色の調べに、耳を傾けるひととき
夢とうつつのあわいで、揺蕩う覚めぎわの時間


瞬く間に消え去り、二度と巡りあうことの叶わない、ささやかな結晶の輝き。

ささやかなものは、かけがえのないもの。
心に風が通り、澄んだ音色が広がってゆくときがわたしにとっては、"なくてはならないもの"なのだから。



とっておきの青いインクだけをつくる工場
トランプのジョーカーが作るサンドイッチ
汽車の中で本を読む少年の、静かな佇まい

眠る前に本を開き、物語の世界へと旅に出る時間が、こもれびのようなぬくもりを心に注ぎ込んでくれた日々のことを懐かしく思い出す。


やすらかな気持ちのまま、手元に迎えたばかりの第二集『月とコーヒー  デミタス』の表紙を眺めた。
昨年の春に出版されたことは知っていたのだけれど、楽しみをとっておくために、ショートケーキの苺の一粒を最後に残すようにして、読まずにおいた一冊。


冬晴れの日の朝、静かに並ぶ本の前に立ち、併設されたカフェから届く複垢たる香りを味わっていると、表紙に描かれた月を抱いて立つひとが目にとまる。

はじまりの物語の文章の中に、〈三日月〉という名前の「コーヒーの店」が現れるのを見た瞬間、「そろそろこちらにおいでになりませんか」と、そっと語りかけてくる声が、聞こえたような気がした。




購入する際に「表紙がすこし傷んでいるのですが
よろしいでしょうか」と尋ねられたけれど、
その傷も今の自分には似つかわしいような気がして
「大丈夫です」と答えて手元に迎えたことも、読み
返すたびに心に浮かぶ大切な思い出となっている。

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夏樹 最後まで読んで下さり、ありがとうございます。 あなたの毎日が、素晴らしいものでありますように☺️