うつろう日々。彩雲を心に宿して。
一陣の風が吹き抜けていった後、自転車の前かごにはひとひらの木の葉が残されていた。
その葉がほんのりと色づいているのを一瞥してから、前方へ視線を向き直し、ゆっくりとペダルを踏み込んだ。遠くの山並みには暖かな色彩が入り混じっていて、季節のうつろいを感じる。
公園の脇にさしかかったとき、大きな樹の下が橙色に染まっていることに気がついた。
自転車をとめ、金木犀の花が散りしく様を立ち尽くして見つめる。蕭々と降る雨の中、うち湿る空気にその香りが華やぎを添えていた夜のことを思い起こした。もう地に還ろうとするのかと、名残惜しい気持ちになる。
空を見上げるたびに、風に包まれるたびに。
流れ去るときの中に、全く同じ瞬間などありはしないのだと思い知らされる。季節は巡りくるものだと知りつつも、うら悲しさが滲み出るのを遮ることが出来ない。
山に沈みゆく金色のまどかな月。
雲を虹色に彩る皎々とした月光。
もう二度と出会うことのない光景を目に映すたびに、うれしさと寂しさが溶け合うような思いにとらわれる。
そんな思いの雫が、胸の中にある器からこぼれそうになったのだろう。この頃、手帳にわずか二行ばかりの短い日記を毎日綴るようになった。
これまでにも印象深い出来事を書き留めることはあったけれど、毎日ではなかった。疲れきっている日には、ことばが浮かばないことも多かったのだ。
たったひと言でも構わない、過ぎ去る毎日に何かを残しておきたいという気持ちが芽生えたのは、冴え冴えとした月が雲に覆い隠されてゆくのを眺めていたある夜のことだった。
さびしさや思ひ弱ると月見れば心の底ぞ秋深くなる
藤原良経
落ちてくる光に夭逝した歌人のうたの響きを重ねて味わっていると、彼はその美しさに心を傾け尽くした為に、ついには月に召されてしまったのではないかという思いが胸を掠めてゆく。
もちろん、そんなことは空想にすぎない。
けれども、弱冠二十一歳のときに詠まれた一首の中の、"心の底ぞ"ということばの重みに、背中が冷たくなる。そこで深さを増す秋は、どのような色彩を帯びていたのだろう。
その晩、月を眺めながらわたしは…と綴りながら、ではその"わたし"とは誰なのか、と思った。
心の内側を表現しようとすると、現実から足を離さねばならないことがある。水や光に思いを託しながら、このようなことばがどこに沈んでいたのかと不思議な気持ちになるのだ。
文章を書くとき、日常生活を送るわたしとは別のわたしが顔を見せる。
書いていることは、偽りではない。
けれどもそれは、唯一の真実でもない。
糸を染め、縦糸と緯糸で布を織り上げてゆくようにことばを紡ぐ自分を、俯瞰するもうひとりの自分がいる。
そのふたりの対話から文章はうまれる。そしてそのふたりの振る舞いを遠くから見ているひとが、日々を生きるわたしなのだと思う。
この頃、過去に書いた文章を読み返すとき、その中に佇む自分の後ろ姿は遥か彼方にあり、もはや手が届かないような心地になることがある。
おそらくそれは、変化の証なのだろう。
消え去るもの、ことばに出来なかったものを留めたくて、文章というかたちにして残そうとする。
書きながら、心の内で声に出して読む。読むことで、文字は音になる。ことばは、響きなのだ。その音の波が、体の中を巡る水を揺らす光景をまなうらに浮かべる。微細な揺れが降り積もり、いつしか内側から大きな変化を促しはじめた。
子どもの頃、本の中の世界に身も心も入り込み、その場所から現実へ帰ってくるのに時間がかかることがあった。
大人になるにつれてその感覚は薄れてゆき、いつしか失ってしまったと思っていたのだ。けれども、文章を書いているとそれとよく似た感覚をおぼえることが増え、失ったのではなくて心の奥深くに仕舞い込んでいたのだと気がついた。そして書くことは、さらにその内奥へと分け入ってゆくことなのだろう。
まとまらない思いを振り払うように、ふたたび自転車に乗り、移り変わる景色を何も考えずにただ目に映す。
風に流れる雲の白さが清々しい。どこまでも重くなる思考に苦笑せざるを得ない。刻々とその姿を変える雲のように軽やかでいたいと願いながら、心のどこかで変化することを不安に思っている。
目的地に到着し、高い建物の間にある細い通路を歩く。
建物に区切られた空を仰いだ。風に流される雲のかたちに心を惹かれ、足を止めて眺めていると、光の帯が視界に入った。
薄い雲が煌めいたと思った刹那、あざやかな色彩が広がる。一枚だけ写真を撮り、その色を目に映し続けようとするけれど、瞬く間に消え去ってしまう。
季節もひとの心も、うつろうことは避けられない。けれどもそれを憂う必要はないのだと、彩雲に告げられたようだ。
胸の奥に留まる色を、手のひらで包みながら歩きはじめる。わだかまっていた思いが、その色彩の中に溶けてゆくのを感じた。

このような光景に行き合うと、
今この場所に存在していて良かったと思う。
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最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
あなたの毎日が、素晴らしいものでありますように☺️