痛みと記憶を、包み込むように。
仕事を終えて建物から出ると、夕闇の気配が漂いながらも明るさはまだ残っていて、季節が進んでいるのを感じました。
橙色と薄紫色が滲む空を見上げれば、やわらかな水色の部分を背景にして、飛行機雲が幾筋も描かれています。
飛行機雲の軌跡を目で追うと、空が丸く感じられる。
そのことに気がつき、何度も雲の跡を目でなぞっていた幼い日のことを今でも覚えているのですが、なぜそんなささやかな出来事を記憶に留めているのだろうと、不思議な気持ちになりました。
通学路に毎年花を咲かせていた、白い彼岸花の姿。
祖母の裁縫箱の中に入っていた、針山やまち針の形。
家の門の前で飛べずに佇んでいた、すずめの瞳の色。
いつ手のひらからこぼれ落ちてしまってもおかしくないような、小さなもののこと、家族の誰もが忘れてしまっているような、ふつうの日の情景の一場面を思い出すことが度々あり、今でも覚えているということは、この先も忘れることはないのかな、それともある日不意に忘れてしまうのだろうかと考えて、なんとなく寂しさを感じます。
短い間のことだったのですが、十代の頃に、過去の記憶が欠け落ちてしまった時期がありました。
欠け落ちる、ということばは、正しく無いのかもしれません。
記憶を失ったと周囲の人には認識されていたのですが、失われたのではなく、思い出すことができないように、無意識のうちに心の奥底に沈めてしまっていたのです。
苦しかったことを忘れなければ、この先の道のりを歩いていけない。
傷ついた記憶が失くなれば、傷自体も無いことになる。
そう思い詰めていたからこそ、生じた変調でした。
今振り返ればそう考えられるのですけれど、当時のわたしには、心と記憶の状態について自分自身でも理解が追いつきませんでした。
自分が自分ではなくなってしまったという不安を抱えながら暮らしていて、記憶と共に感情の輪郭も曖昧になり、抜け殻のような姿で日々を過ごしていたのです。
そんな中でも、本が好きなのだという思いは残っていて、図書館によく足を運んでいました。
本を読んでいる間だけは、過去のことも、未来のことも考えないでよかった。
あの頃のことをかえりみると、自分がどんな気持ちでいたのかということが、ぼんやりとしか思い出せません。
けれども、陽ざしが差し込む図書館の窓辺で本を開き、読み終えて外を見れば樹々の緑が輝いていた日の光景は、幸福な思い出として心に描かれているのです。
沈めていた記憶を思い出しても大丈夫になったのは、いつの日のことだったのだろう。
少しずつ感情を取り戻していく日々の中で、いつしか、過去のことを口にできるようになっていました。
そして、時間が解決する、ということばの意味が、分かったように感じられたのです。
見つめると傷痕は確かに残っているのですが、疼くような痛みはすでに無く、その傷がつけられたときの記憶も、明瞭さを失っていました。
無かったことにはなりませんが、時の流れの中で、うすれていくものは確かにあります。
飛行機雲の端の方が消えていくのが目に入り、傷痕もうすれるだけではなく、あとかたもなく消えるものであれば良いのに、と思いかけ、違う、消えなくても良いのだ、と思い直しました。
なにかひとつでも異なる経験をしていたら、今のわたしはここに存在しません。
きっと、過去のすべての出来事が必要だったことで、目にしたもの、耳にしたもの、ふれたものによって、わたしという人間はかたちづくられている。
たとえ痛みを伴う記憶であったとしても、それは自分自身の大事な一部なのだから、覚えているのならば、手のひらで包み込むようにして持っていようと思うのです。
そして、強く印象に残る出来事と同じくらいに、何気ない日々のささやかな記憶も、大切なのでしょう。
当たり前のように目にしているものが、ある日突然無くなってしまうこともあります。毎日見慣れた同じ景色を見ているつもりでも、本当は、全く同じということはありえません。
記憶に残っているものは、何重もの意味で、もう二度と出会うことが叶わないのだと思うと、ひとつひとつが光を湛えているように感じられる。
すべてを覚えていることは出来ず、忘れることも生きていくうえで自然なことです。
けれども、仮に忘れてしまったとしても、過去に経験したことや、心を染め上げた思いは、その人自身の生に刻まれていて、それが消え去ってしまうことは、無いのだと思うのです。
空がゆっくりと夜の色に近づきつつあるのを見ていると、今日という日は二度と訪れない、ということばが頭に浮かびました。
こんなふうに考えを巡らせた今日のことを、懐かしく思い出す時が来るのだろうか。
その時のことを想像すると、もう少しこの光景を目に映しておきたいように思われ、しばらくの間足を止めて、暮れゆく空を眺めていたのでした。
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最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
あなたの毎日が、素晴らしいものでありますように☺️