夏の記憶 溶けてゆくことば
ほっそりとしたグラスに注がれた透明な液体に、小さな泡の粒がいくつも浮遊している。
水滴を纏う硝子の曲線に指をそわせると、肌に心地よい冷たさがしみこんでくる。グラスを傾ければ、ほのかな甘みと、泡が弾ける感覚が喉をすべりおりてゆく。
買いものを済ませた後、照りつける陽ざしの下を歩いていたのだった。ふと、甘味処の涼しげな暖簾が目にとまり、緑陰を求めるような気持ちで店内に入る。窓の向こうの木の葉のきらめきを眺めやりつつサイダーを飲んでいると、体の内側にこもった熱が消え去ってゆくようで、胸の奥がしんと鎮まるのを感じた。
繰り返し読んだために角が丸みを帯びてきた文庫本をかばんから取り出し、ゆっくりと文章に目を通す。ことばの意味を捉えるのではなく、文字のなめらかさを味わうように、夕暮れどきに流れる雲を眺めるようにして。
はまゆう、はまなす、はまなでしこ、といった浜に寄せる花が熱波を浴びて咲いていたこと、他家の軒先の、色づきを控えたからすうりの実にけだるい目を遣ったこと、永遠子の被った麦わら帽子が風にとばされ、ながい髪が揺れていたこと、足裏の皺の一筋一筋に砂がまつわり、ゴム草履の緒ずれに海水が滲みるのをこらえてこの坂道を通ったこと。
どれも夏の記憶ばかりだった。
心の内で声に出して読んでいると、見たことのない光景なのに、まるで遠い日の自分自身の記憶のように、描かれたものの質感があざやかに浮かび上がってくる。
春、秋、それから冬も。
移りゆく季節の中で出会ったささやかな出来事はたくさん覚えているけれど、なぜなのだろう、夏の記憶は細部の輪郭がくっきりとしているような気がするのだ。
「静かだから、いるのかいないのか、わからない子だね」と、まわりの大人たちからよく言われたものだった。
夏休みになると、起きてすぐ庭に出た。朝顔の花や蔓にふれてそのやわらかさを確かめ、蜘蛛の巣にちりばめられた雨粒がきらきらと光るのを見つめる。日が高くならないうちに縁側に置いた小さな机で勉強をした後は、真昼でも仄暗い仏間の畳の上で本を読んだりジグソーパズルで遊んだりして時を過ごしていた。
今思えば、ただ目の前のことだけに意識を向ける時間を好んでいたのだと思う。音が失われた世界で、湖の底に佇むようなひととき。早朝の静けさを包み込んだ花の冷ややかさも、風に揺れる蜘蛛の糸の繊細さも、畳のへりのざらついた手ざわりも覚えているけれど、そのとき心にあったはずの気持ちの色彩は記憶に残っていない。
本から、そして記憶の海から顔を上げると、周囲のざわめきが急に耳に入り、一瞬、今どこにいるのか分からなくなる。
きっとこの瞬間をいつか思い出すのだろうという気がする、いや、その前にこうして文章を書きながら数日前の午後の光景をたどっているのだけれど、すでにあの日の自分と今日の自分は時間によって隔てられてしまっている。
書くときにはいつも、映像を撮っているような心地になる。畳の上に座って本を読む子どもと、甘味処の暖簾をくぐるひとの後ろ姿が見える。今、更けてゆく夜の中でその姿を見つめながらことばを紡いでいる者は、一体誰なのだろうと思う。
英語に翻訳された自分の文章をはじめて読んだとき、"I"という主語の彩度が高いと感じた。度数の強すぎる眼鏡をかけて風景を見ているようで、軽い眩暈におそわれる。
主語を抜いても成立してしまう日本語の不思議を思うと同時に、霞がかったようなその文章があまりにもからだに馴染んでいることに、今更のようにおどろく。
確固たる"わたし"というものなど、はたして存在し得るのだろうか。
あえて主語を置くとすれば、"I"と"she"のあわいにある、マーブル模様をえがくような人称なのだと思う。そしてその時々で、模様の曲線や色彩の配合は刻々と移り変わってゆく。
立ち上がり、窓を開ける。
物憂いような生ぬるい風と、水気をふくんだ土の香りが流れ込んできた。
夜の青に、海松色と利久茶がとろりと注がれる。
その色彩を見つめていると、眠りの波ときらめく木の葉の残像が揺らめき、ことばも思考も記憶の中へと溶けてゆくようだった。
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最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
あなたの毎日が、素晴らしいものでありますように☺️