②紫系統 その1 紫の変遷と系統色 ✨🔷瑠璃
紫は中国から日本へ入ってきた色であるが、中国では「論語」の中にすでに紫がみえる。後漢時代には、紫が傷の濁った血の色で人を惑わす色と思われていた。このような紫がどのようにして高貴な色と認識されるようになったのかについては、「五行思想」がかかわっているようである。
「日本色彩文化史」<sup>注22</sup>には、紫の高貴性には五行思想が深くかかわっているとしている。それは、五行思想に基づき、色を正色(青、赤、黄、白、黒)と間色(緑、紅、碧、紫、瑠璃黄)に分け、間色は正色が合して作り出されるものであり、黒=北・冬、青=東・春、赤=南・夏、白=西・秋、瑠璃黄=中央となって、北方に輝く不動の星・北極星=紫とし、それが天帝の居る所として考えられていたためであろうとあり、これが紫に高貴性をもたらした、有力な説であろうと思われる。
日本では、邪馬台国女王卑弥呼が魏王より授かった金印紫綬が紫の日本で最初にみられる例である。そして、大陸の文化が本格的に入ってきた聖徳太子の時代、冠位十二階の中での最高色の紫が登場するのである。それでは次に紫の系統色の色相や位置等について述べる。
紫は、紫草を染料としている。中国では「茈草」と書かれ、日本での「紫」の字は「茈草」の根で染めた糸であることを示すものである。この紫草は飛鳥時代に朝鮮から伝わり、その色相は青味の紫である。中国の紫は赤の下染めをするので赤みがかった紫であったらしく、日本と中国ではこの時代から色相は異なっていたようである。
紫は、冠位十二階にもみられるように臣下にとっては最高の色であった。この頃は紫といえば一つの名称だけであったが、時代が下って「延喜式(縫殿式)」では深紫・紫・浅紫になり、色に対する意識は高まる。なお、時代が下っても紫は高貴な色であることは変わりなく、特に深紫は臣下の官位で一位の色、親王の色として禁色であった。また、平安時代には特に好まれ、濃き・薄きだけでもその色を示し、また紫が禁色であったがゆえにできた淡色・半色(いづれも紫のうすい色)などもみられる。紫についての説明は、前章の末摘花の章も参照。
葡萄染(えびぞめ)の「えび」はぶどうの古名で、この色名はエビカズラと呼ばれる山葡萄の実の色からきているという。色相は淡い赤味の紫である。天武天皇の頃は深浅の二級であったが、「延喜式」ではただのは経赤・緯紫、重色では表蘇芳・裏縹(一説では経赤・緯青)といわれている。この後、葡萄染とは織色で、「延喜式」の葡萄染よりは濃く、これが平安中期の葡萄染の色であったらしい。なお、養老律令での位置は纁(そひ)に次いで九番目で中間に位置する。
以上が奈良時代にみられる紫系の色である。平安時代の新色には、二藍(ふたあい)がある。二藍は、藍と紅花の交染による鈍い青味の紫をいう。二つの藍で(青藍と紅藍)染めることからその名がある。深浅の二級に分かれ、織色は経紅・緯藍、重色では表二藍・裏白あるいは表裏とも二藍などがあったらしい。
他に紫苑色(しおんいろ)がある。青みがかった薄い紫で、重色として表紫・裏蘇芳や表薄紫・裏青などがある。藤は、藤の色をそのまま模した色相で紫色系の花が特に好まれたようである。また一方で、藤の名が藤原氏を連想させ、藤原氏の勢力が盛んになるに従って藤との結びつきが大きくなり藤はめでたい色とされたようである。重色としては、表薄紫・裏青などがある。
棟(おうち)は棟の花に似た薄紫で、重色も諸説あるが、表裏薄紫、表薄色・裏青、薄青などである。他には、菖蒲(表薄萌黄・裏濃紅梅等)、杜若(表二藍・裏萌黄)もみられる。
次は
その2 紫系統の色に対する意識です。
