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「良いこと悪いこと(第10話)」"いじめ"を犯罪にしても、人の心は弱者を虐げたがる

「いじめ」を語ることには、しばしば一種の刹那さが伴う。「なぜあの時、行動できなかったのか」「なぜ助けられなかったのか」と自問する人は少なくないだろう。だが、被害を受けた当事者にとって、たとえば新木優子が作中で述べるように、「絶対に許せない」という感情が、そのまま「許す」方向へと変容するとは限らない。心理的外傷は癒えないまま成人後にも残存し得る。そう考える人は多いはずであり、私自身もまた同様である。

ドラマは、前回、木村昴が逮捕されたことで一件落着したかに見えた。しかし実際には、背後関係はより大きかったということである。いわゆる、いじめに遭っていた“ドの子”は小学校を退学したのち、フリースクール「タクト学園」へ通うことになる。そこで出会ったのが、深川麻衣および戸塚純貴であった。序盤からこの二人にはインターネット上でも疑念が向けられていたが、「大後」という存在が表面化していなかったため、全体像が見えにくかったのだろう。

考えてみれば、フリースクールに通う子どもたちの多くは、程度の差こそあれ「いじめ」の被害経験を抱えている可能性がある。そしてその経験は、同年代への信頼を毀損する。ある意味で、小学校は「よい子/悪い子」という粗雑な選別が半ば制度的に生じてしまう場でもあるのかもしれない。そうして生じた悪意の痕跡は、加害側ではなく被害者の内面に残存し続ける。これを十分に処理できていない点に、現代教育の限界が示されているとも言える。さらに同種の力学は、社会人となっても形を変えて反復される。このドラマに潜む中核は、まさに多くの人がうすうす感じ取っている現実なのだろう。深川が言うように、「いじめを犯罪化する」措置によって行為の発生頻度が低下することはあり得るとしても、加害に向かう心性それ自体が減衰するとは限らない。最終回は、そうした点を含めて観る者に多くを考えさせる展開であった。

今回、物語が動く契機は、新木が勤める会社の週刊誌に事件がリークされ、間宮祥太朗の悪辣さが記事化されたことにある。それは仕事の受注に影響するだけでなく、娘のいじめへも連鎖していく。まもなくリークの主体が深川であると判明し、そこから「タクト学園」が浮かび上がり、戸塚へと接続するところまで間宮に知られる。間宮が戸塚を問い詰めると、戸塚は拳銃を取り出し、「自分を殺せ」と迫る。連続殺人事件の後に、首謀者とされる男が他者を殺害するという筋書きを成立させ、世間に衝撃を与える意図だという。もっとも、そのように迫られて実際に引き金を引ける者は、通常いないだろう。

その後、間宮は新木に依頼し、自身の過ちを語るビデオを撮影させる。しかし、それで直ちに何かが回復するわけではない。大きなニュースが現れれば、「いじめ」の問題は容易に忘却され、社会的関心から消えていく。長く生きていれば、その力学はよく理解できる。他方で、幼少期の苛烈な体験は、当人の内面に沈殿したまま残り続ける。

加えて近時、日本の首相が交代した後、生活保護受給者を「さもしい」と形容したり、「自分の命は自分で守る」と述べたりする発言が見られた。こうした言説も、広い意味での「いじめ」と同型の構造を持つ。弱者をいかに引き上げるかという制度的対策を構想するのではなく、弱者に自己責任を集中的に負わせる発想は、適切とは言い難い。

ドラマでは、クラスの指導者である担任教師が殺害されるが、この点はやや説明不足で分かりにくい。おそらく「なぜリーダーがいじめを止められなかったのか」という問い、ないしはその不作為への疑念を象徴化したものなのだろう。

本作の主眼は犯人探しに置かれているのだろうが、やはり観後感は良くない。作り手が「いじめ」という現象をいかに認識し、何を問題の核心と見なすのかが判然としないからである。とりわけ、この題材を選んだ以上、何らかの提言ないし視点の提示が欲しかったと思うのは、私だけではないだろう。

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