太平記 現代語訳 33-9 菊池武光、大いに武威を振るう

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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九州地方の有力武士、小弐頼尚(しょうによりひさ)と大友氏時(おおともうじとき)は、菊池武光(きくちたけみつ)に九州全域を制圧されてしまい、その支配下に伏さざるをえないこの現状が、まことに、おもしろくない。ゆえに、足利幕府が派遣した細川繁氏(ほそかわしげうじ)の九州上陸に機を合わせて、菊池に対して叛旗(はんき)を翻そうと、たくらんでいた。

ところが、崇徳上皇(すとくじょうこう)の御霊(ごりょう)に罰せられて繁氏が悶死(もんし)してしまった、との知らせにガックリ、旗揚げ計画を断念した。

菊池武光 九州でぇ幕府側についとるんは、もう、畠山直顕(はたけやまなおあき)だけだわねぇー。これからちょっくらぁ出かけてってぇ、あいつがたてこもっとる穆佐城(むかさじょう:宮崎県・宮崎市)ばぁ、攻めてみるとねぇー!

菊池一族メンバー一同 よぉーし!

吉野朝年号・正平(しょうへい)13年(1358)11月17日、菊池武光は、5,000余騎を率いて肥後(ひご:熊本県)を出発、日向(ひゅうが:宮崎県)へ向かった。

道中は4日間の行程、山を超え川を渡り、行く先は険阻にして、後方には難所が多い。

その時、小弐頼尚と大友氏時は、菊池武光からの兵力動員催促(へいりょくどういんさいそく)に応じて、豊後(ぶんご:大分県)まで進んで、陣営を整えつつあった。

大友氏時 (内心)ムムム、絶好のチャンス到来!

菊池軍が肥後・日向国境を越えたタイミングを見計らって、大友氏時は、菊池に対して叛旗を翻し、豊後の高崎山(たかさきやま:大分県・大分市)に登ってたてこもった。

さらに、宇都宮宏知(うつのみやひろとも)は、川を前にして豊前(ぶぜん:福岡県東部)への道を塞(ふさ)ぎ、肥田刑部太輔(こえだぎょうぶのたいう)は、山を後ろに当てて、筑後(ちくご:福岡県南部)への道を塞いだ。

このように、周囲を完全に包囲された形となり、菊池軍は、どこへも退く事ができなくなってしまった。もはや籠の中の鳥、網代(あじろ)にかかった魚のごとしと、これを哀れに思わぬ人はいない。

しかしながら、菊池武光、この24年間というもの、九州のありとあらゆる武士たちと、あるいは敵対し、あるいは連合したりを繰り返してきたが故に、個々の勢力の陣構えスタイルや戦闘能力を、完全に知り尽くしてしまっている。

菊池武光 なにぃ、大友が豊後で叛旗? 宇都宮が豊前へのルートを塞ぎよったぁ? それがどうした! 痛くもかゆくも無かとぉーっ!

菊池一族メンバー一同 そぉとも、そぉとも、おぉとも(大友)、おぉとも、痛くもかゆくも、無かとぉ、無かとぉーっ!

武光は軍を進め、11月10日から戦闘開始、畠山直顕の子息・重隆(しげたか)がたてこもっている三保城(みつまたじょう:宮崎県・北諸県郡・三股町)を昼夜兼行で17日間攻め続け、それを落して300人の首を取った。

頼りにしていた三保城を落されて、畠山父子は、「もはやかなわじ」と思ったのであろう、本拠地たてこもりをギブアップし、穆佐城を捨てて深山の奥へ逃げこんだ。

菊池武光 ここまでテッテイテキにやっといたら、もう十分。さぁ、肥後へ帰るとね。

菊池一族メンバー一同 あんたがった、どっこさ、ひぃご(肥後)さ、ひぃごどっこさ。

菊池軍の背後を塞いでいた大友たちは、大軍をもってしても、彼らに対して何のアクションも起こせなかった。

かくして、武光は、矢の一本を放つ事もなく、自分の館へ帰還した。

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菊池武光 次は、大友よぉ、バァシッと、やっつけちゃるとねぇ。

菊池一族メンバーA 小弐や阿蘇が、ヘンな動き、せにゃ、いいんだが。

菊池武光 大丈夫。あいつら今まで、わしらの陛下にたてつくような気配、見せとらんばい。

というわけで、小弐頼尚、阿蘇惟村(あそこれむら)としめし合わせた後、菊池武光は、5,000余騎を率いて、大友氏時を退治するために、豊後へ向かった。

ここに至って、小弐頼尚は急に心変わりし、太宰府(だざいふ:福岡県・太宰府市)で菊池に叛旗を翻した。

阿蘇惟村も、頼尚を支援する動きに出た。菊池軍の退路を塞ぐべく、小国(おくに:熊本県・阿蘇郡・小国町)という所に9箇所の城を構え、「菊池軍、一人残らず殲滅!」との企てである。

菊池武光 チィ! ロジスティクス・ライン(兵糧運送経路)塞がれたんでは、豊後へ攻め寄せていくん、ちと無理ばぁい。

菊池一族メンバーB えぇい、小弐のヤロウめ、まっことニク(憎)かぁ!

菊池一族メンバーC いっそのこと、太宰府ばぁ攻めるとね。

菊池武光 いやいや、ここはムリしちゃ、いかんばい。

菊池一族メンバー一同 ・・・。

菊池武光 しょうがなかとぉ。いったん肥後ばぁ引き返してから、あらためて、戦の準備ばぁ、するとねぇー。

菊池軍は、本拠地の菊池(きくち:熊本県・菊池市)へ退却開始。阿蘇側が構えた9箇所の城を、順に一つずつ落して、退路を切り開いていった。

菊池軍の猛攻の前に、阿蘇軍は壊滅状態、阿蘇惟村は、頼りにしていた家臣を300余人も失ってしまった。菊池軍の退路を遮(さえぎ)るどころか、自分の命さえも危うい状態になってしまい、惟村は、ほうほうのていで逃走していった。

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吉野朝年号・正平(しょうへい)14年(1359)7月、「征西大将軍宮(せいせいだいしょうぐんのみや:注1)を大将に、新田(にった)一族、菊池一族、太宰府へ攻め寄せきたる!」との情報に、小弐頼尚は、陣を構えて相手の襲来を待ちかまえた。

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(訳者注1)後醍醐天皇の皇子・懐良(かねよし)親王。延元元年(1336)、比叡山から京都へ帰還の折、後醍醐天皇は懐良親王に「征西大将軍」の称号を与えて、九州へ送った。
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大将・小弐頼尚の下、その子息・小弐忠資(ただすけ)、その甥・小弐頼泰(よりやす)、朝井胤信(あさいたねのぶ)、筑後頼信(ちくごよりのぶ)、窪泰助(くぼのやすすけ)、肥後泰親(ひごやすちか)、太宰頼光(だざいよりみつ)、山井惟則(やまいこれのり)、饗場重高(あいばしげたか)、饗場行盛(ゆきもり)、相馬小太郎(そうまこたろう)、木綿左近将監(こわたのさこんしょうげん)、西河兵庫助(さいかのひょうごのすけ)、草壁六郎(くさかべろくろう)、牛糞刑部太輔(うしくそぎょうぶのたいふ)。

松浦党(まつらとう)武士団は以下の通り:佐志将監(さしのしょうげん)、田平左衛門蔵人(たひらさえもんのくろうど)、千葉右京太夫(ちばうきょうのだいぶ)、草野筑後守(くさのちくごのかみ)、その子・草野肥後守(ひごのかみ)、高木肥前守(たかぎひごのかみ)、綾部修理亮(あやべしゅりのすけ)、藤木三郎(ふじきさぶろう)、幡田次郎(はたたじろう)、高田筑前前司(たかだちくぜんのぜんじ)、三原秋月(みはらあきづき)の一族、島津貞久(しまづさだひさ)、渋谷播磨守(しぶやはりまのかみ)、本間十郎(ほんまじゅうろう)、土屋三郎(つちやさぶろう)、松田弾正少弼(まつだだんじょうしょうひつ)、河尻肥後入道(かわじりひごのにゅうどう)、詫間三郎(たくまさぶろう)、鹿子木三郎(かのきごさぶろう)等、総勢6万余騎、杜(えづり:福岡県・久留米市)の渡しを前にあて、味坂庄(あじさかしょう:福岡県・小郡市-福岡県・久留米市)に陣を取る。

それに対して吉野朝側は、後醍醐先帝の皇子・征西大将軍宮・懐良親王をはじめ、洞院権大納言(とういんごんだいなごん)、竹林院三位中将(ちくりんいんさんみのちゅうじょう)、春日中納言(かすがちゅうなごん)、花山院四位少将(かざんのいんよんいのしょうしょう)、土御門少将(つちみかどしょうしょう)、坊城三位(ぼうじょうのさんみ)、葉室左衛門督(はむろさえもんのかみ)、日野左少弁(ひののさしょうべん)、高辻三位(たかつじのさんみ)、九条大外記(くじょうのだいげき)、その子息・九条主水頭(もんどのかみ)。

新田一族からは、岩松相模守(いわまつさがみのかみ)、瀬良田大膳太夫(せらだだいぜんのだいぶ)、田中弾正大弼(たなかだんじょうだいひつ)、桃井左京亮(もものいさきょうのすけ)、江田丹後守(えだたんごのかみ)、山名因幡守(やまないなばのかみ)、堀口三郎(ほりぐちさぶろう)、里見十郎(さとみじゅうろう)。

侍大将の陣には、菊池武光、その子息・菊池武政(たけまさ)、その甥・菊池武信(たけのぶ)、同じく甥・菊池武明(たけあきら)、赤星武貫(あかぼしたけつら)、城越前守(じょうのえちぜんのかみ)、賀屋兵部太輔(かやひょうぶのたいふ)、見参岡三河守(みさおかみかわのかみ)、庄美作守(しょうのみまさかのかみ)、国分次郎(こくぶんのじろう)、故・名和長年(なわながとし)の次男・名和長秋(ながあき)、同じく三男・名和修理亮(しゅりのすけ)、宇都宮刑部丞(うつのみやぎょうぶのじょう)、千葉刑部太輔(ちばぎょうぶのたいふ)、白石三川入道(しらいしみかわのにゅうどう)、鹿嶋刑部太輔(かしまぎょうぶのたいふ)、大村弾正少弼(おおむらだんじょうしょうひつ)、太宰権小弐(だざいのごんのしょうに)、宇都宮壱岐守(いつのみやいきのかみ)、大野式部太輔(おおのしきぶたいふ)、派讃岐守(みなまたさぬきのかみ)、溝口丹後守(みぞぐちたんごのかみ)、牛糞越前権守(うしくそえちぜんのごんのかみ)、波多野三郎(はだのさぶろう)、河野辺次郎(かわのべじろう)、稲佐治部太輔(いなさじぶのたいふ)、谷山右馬助(たにやまうまのすけ)、渋谷三河守(しぶやみかわのかみ)、渋谷修理亮(しゅりのすけ)、島津上総四郎(しまづかずさのしろう)、斎所兵庫助(さいしょひょうごのすけ)、高山民部太輔(たかやまみんぶのたいふ)、伊藤摂津守(いとうせっつのかみ)、絹脇播磨守(きぬわきはりまのかみ)、土持十郎(つちもちじゅうろう)、合田筑前守(あうたちくぜんのかみ)。

これら主要メンバーの他、総勢8,000余騎が、高良山(こうらさん:福岡県・久留米市)、柳坂(やなぎざか:久留米市)、水縄山(みなうやま:久留米市)の3箇所に陣を取った。

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(訳者注2)福岡県・久留米市に、「宮ノ陣神社」という社がある。神社境内にある久留米市による解説によれば、「征西将軍宮・懐良親王がここに陣を張ったことが、『宮ノ陣』の地名の由来とも言われている」のだそうだ。

神社の境内に、「将軍梅(しょうぐんばい)」という梅の古木があり、「懐良親王のお手植」と言い伝えられているのだそうだ。
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7月19日、菊池武光が先陣を切った。

武光は、自らの手勢5,000余騎を率いて筑後川(ちくごがわ)を渡り、小弐頼尚の陣へ押し寄せた。

頼尚は何を思ったのか、戦わずして30町ほど退き、大原(おおはら:福岡県・小郡市)に陣を張り直した。

武光は、引き続き頼尚を攻めようと思ったが、両者の間には深い沼が横たわり、そこを貫く細い道が一本あるばかり、途中には三個所、掘が切られており、その上には細い橋を渡してあるだけ、とてもそこを通過できそうにない。

両軍の間合いは次第に縮まり、互いに、旗の紋までもが、鮮やかに見えるようになってきた。

頼尚をはずかしめんがため、武光はわざと、金銀の太陽と月を打ってつけた旗の蝉本(せみもと:注3)に、一枚の「イワクつき」の起請文を貼り付けた。

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(訳者注3)「蝉」は、旗の頂上に取り付けられた小さな滑車であり、旗のその部分を「蝉本」という。
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昨年(注4)、足利直冬(あしかがただふゆ)の陣営に所属していた小弐頼尚は、古浦城(ふるうらじょう:場所不明)において、足利幕府九州庁駐在・一色一族メンバー・一色範氏(いっしきのりうじ)によって、今まさに討たれんか、という状態になった。そこへ、武光が大軍をもって後づめをかけた結果、一色範氏は退却し、頼尚は命拾いをした。

頼尚は喜びに堪えず、「今より後、子孫7代に至るまで、菊池家の人々に向かって、弓を引き、矢を放つような事は、決していたしません」と、熊野神社(くまのじんじゃ:和歌山県)の護符の裏に、自らの血を絞って書いた。それが、この起請文なのである。

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(訳者注4)史実においては、「昨年」ではなく、1353年の出来事。
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それにもかかわらず、このようにあっけなく、心変りしてしまったなんともなさけない頼尚の醜態を、天に訴え、人に知らしめようとの、武光の意図である。

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8月16日夜半、武光は、夜襲のベテラン300人を選抜してコマンド部隊を編成。

彼らは、山を越え川を渡り、小弐陣営のカラメテ方面へ進んだ。

その後、武光は、主力7,000余騎を3手に分けて筑後川(ちくごがわ)ぞいに進軍、川の水音に紛れて険阻な場所を超え、小弐陣営から至近距離の地点へ迫った。

大手方面軍のこの接近に時を合わせて、コマンド部隊300人は、カラメテ方面から小弐陣営内へ突入。3箇所に分かれて一斉にトキの声をあげ、十方に走り回りながら小弐陣へ矢を射掛け、相手の背後に回り込んでひかえる。

狭い場所に、6万余騎もの軍勢が、クツの鋲のようにビッシリと陣を並べていた小弐サイドは、あっという間に、大混乱状態に陥ってしまった。

菊池軍コマンド部隊の上げるトキの声にあわてふためき、敵がどこにいるのかも定かならないままに、こちらに寄せ合い、あちらに懸け合わせては、延々数時間もの同志打ちを展開。頼尚が頼りとするメンバー300余人が、この同志打ちの中で死んでしまった。

小弐陣営パニック状態の中に、やがて、夜が明けた。

菊池武光 よぉし、総攻撃開始ぃー!

吉野朝軍一同 ウオオオーーーー!

吉野朝側第1陣は、菊池二郎(きくちじろう)、例の起請文の旗を進め、1,000余騎を率いて小弐陣に突入。

これを迎え撃つは、頼尚の長男・小弐忠資。

50余騎でもって戦ったが、父の起請違反が子にたたってしまったのであろうか、忠資はあっけなく敗北、なおも、返し返し戦い続けたが、ついに、菊池軍の武士に組まれて討ち取られてしまった。

これを見て、小弐軍の朝井胤信、筑後頼信、窪泰助、肥後泰親(注5)ら100人が反撃に出て、迫り来る菊池軍メンバーに引き組み引き組み、刺し違えて次々と死んでいく。

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(訳者注5)原文では、「肥前刑部太輔」となっているが、これはおそらく太平記作者の誤りで、正しくは、「肥後刑部太輔」すなわち、「肥後泰親」であろう。
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吉野朝側も、菊池武明、菊池越後守(えちごのかみ)、賀谷兵部大輔(かやひょうぶのたいふ)、見参岡三川守、庄美作守、宇都宮刑部丞、国分次郎以下の主要メンバー83人が、全員一所に討たれた。

小弐側の第1陣は、大将の小弐忠資が討たれてしまったので退却。吉野朝側の第1陣も、馬を休めるために、第2陣に最前線を譲った。

吉野朝側第2陣は、菊池武光の甥・菊池武信と赤星武貫が率いる1,000余騎。

これを迎え撃つは、頼尚の次男・小弐頼泰と太宰頼光が率いる20,000余騎。

始めのうちは、双方100騎ずつ、順次、最前線に出ては戦っていたが、次第に乱戦模様となり、双方あわせて22,000余騎、サッと入り乱れ、ここに分かれ、かしこに合し、1時間ほど戦い続けた。組んで落とせば下敷きにし、切って落とせば首を取る。

勝敗が未だ決しないままに、吉野朝側の赤星武貫を討ち取って、小弐側は大いに意気上がり、吉野朝側は退却。しかし、吉野朝側も、小弐側の太宰越後守を生け捕りにできたので、勝ちどきをあげて喜ぶ。

吉野朝側は、結城右馬頭(ゆうきうまのすけ)、加藤太夫判官(かとうだいぶのはんがん)、合田筑前入道(あったちくぜんにゅうどう)、熊谷豊後守(くまがやぶんごのかみ)、三栗屋十郎(みくりやじゅうろう)、太宰修理亮(だざいしゅりのすけ)、松田丹後守(まつだたんごのかみ)、松田出雲守(まつだいずものかみ)、熊谷民部大輔(くまがえみんぶのたいふ)以下、主要メンバー300余人が戦死。

小弐側は、饗場重高、饗場行盛、山井惟則、相馬小太郎、木綿左近将監、西河兵庫助、草壁六郎以下、頼りのメンバー700余人が討死。

吉野朝側第3陣は、懐良親王・親衛隊、新田一族、菊池肥後守ら3,000余騎。彼らは、一団となって小弐陣を中央突破し、蜘蛛手(くもで)十文字(じゅうもんじ)に懸け散らさんと、おめいて、馬を走らせる。

小弐、松浦党武士団、草壁、山賀(やまが)、島津、渋谷ら20,000余騎は、左右へサッと開き、吉野朝側に矢の雨を浴びせかける。吉野朝側もこれにはたまらず、退却。

懐良親王は、三個所もの重傷を負ってしまった。

日野左少弁、坊城三位、洞院権大納言、花山院四位小将、北山三位中将(きたやまさんみのちゅうじょう)、北畠中納言(きたばたけちゅうなごん)、春日大納言(かすがのだいなごん:注6)、土御門右小弁(つちみかどうしょうべん:注7)、高辻三位、葉室左衛門督に至るまで、何とかして懐良親王を逃がそうと、踏みとどまって戦い続けた。

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(訳者注6)前記中には、「春日中納言」と記されている。

(訳者注7)前記中には、「土御門少将」と記されている。
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これを見た新田一族33人は、1,000余騎を率いて横方向から攻撃、左右の小弐側最前線を追いまくり、真ん中へ会釈もなく懸け入って、引き組んでは落ち、打ち違えては死に、命を限りに戦う。

世良田大膳太夫(注8)、田中弾正大弼、岩松相模守、桃井右京亮(注9)、堀口三郎、江田丹後守、山名播磨守(注10)が、小弐軍メンバーに引き組まれて討たれていった。

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(訳者注8)前記中には、「瀬良田大膳太夫」と記されている。

(訳者注9)前記中には、「桃井左京亮」と記されている。

(訳者注10)前記中には、「山名因幡守」と記されている。
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懐良親王が負傷したのみならず、公卿や新田一族が多数討たれてしまったのを見て、菊池父子は、

菊池武政 もうこうなったら、命なんか惜しぃない。

菊池武光 日頃の約束違えずに、わしについてくるモンら、全員、討死にしてもらうとね!

菊池軍メンバー一同 ウオーーー!

菊池父子は、全軍の真っ先切って、反撃にうって出た。

よく見知った菊池父子であるから、小弐軍側はここぞとばかり、

小弐軍メンバーD 菊池や、菊池や!

小弐軍メンバーE 弓、弓!

小弐軍メンバーF 射落とせぇ!

鏃(やじり)をそろえ、雨のごとく矢を射掛ける。

しかし、菊池武光が着ている鎧は、今回の戦の為に特別にあつらえたもの、「強弓の使い手に、3人張りの弓を持たせて、鉄板を射させて」といったような耐久テストを行い、それに合格した鉄板だけを用いて組み立てさせたものである。故に、小弐側からどのような強弓で射られようとも、その鎧を貫通する矢は1本も無い。

馬は射られて倒れども、それに乗る武光は無傷。馬を乗り換えては乗り換えては、17度もの突撃を敢行。その結果、武光は、兜を落され、頭部に2箇所の太刀傷を負った。

さすがの菊池武光も、「あわや、これまでか」と思われたが、武光は小弐武藤(しょうにたけふじ)に馬を並べて組んで落ち、相手の首を取って太刀の先に貫き、武藤の兜を取ってかぶり、その馬に乗り換えた後、さらに小弐陣中へ突入。午前6時から午後10時頃まで、休む事なく戦い続けた。

長男・忠資をはじめ、一族23人、頼りにしていた郎従400余人、その他の軍勢3226人を失ってしまった小弐頼尚は、「もはやかなわぬ」と、太宰府へ退却し、宝万岳(ほうまんだけ:福岡県。太宰府市)に逃げ上った。

勝利を得たものの、吉野朝側も戦死者を調査してみれは、その数なんと1800余人、これではとても、戦闘続行は不可能である。「ここしばらくは、負傷者の回復を待ち、あらためて再度の戦を」という事になり、吉野朝軍は肥後へ引き返した。

その後は、双方、自らの本拠地にたてこもり、にらみあいの状態となった。

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