太平記 現代語訳 1-8 うらぎり
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]のメンバー、土岐頼員(ときよりかず)は、六波羅庁(ろくはらちょう)の局長・斎藤利行(さいとうとしゆき)の娘と結婚し、彼女を深く愛していた。
しかしながら、世の中の情勢は刻々、緊迫の度を高めている。
土岐頼員 (内心)あーあ・・・合戦でも始まりゃぁ最後、わしが討死にしてまう確率、99.9%・・・あぁ、わがいとしの彼女といっしょにおれるんも、あと少しだけ・・・あーあ、なごりおしいわねぇ。
ある夜、夫は妻にいわく、
土岐頼員 なぁあ・・・「二人の人間が一本の樹の木陰で宿り、同じ川の流れの水を飲んだりするんも、全てそれは、お互いの間に前世からの因縁あるから」って言うわねぇ。
斎藤利行の娘 ハァ?
土岐頼員 おみゃあさんとわしとが夫婦になってから、もう3年以上にもなるでねぇ。
斎藤利行の娘 ・・・。
土岐頼員 おみゃあさんに、わしがゾッコンてこと、わしの態度とか、折に触れて、よぉ分かってくれとるだろうなぁ。。
斎藤利行の娘 ・・・。
土岐頼員 定め無きは、人生の常ってもんかぁ・・・「出会いは別れの始まり」・・・よぉもまぁ言うたもんだわ・・・。
斎藤利行の娘 ・・・。
土岐頼員 なぁ、わしになぁ、もしもの事があった時にはなぁ、わしの死んだ後も、他の男とくっついたりせんでな、わしの冥福、祈ってくれなさらんかのぉ。
斎藤利行の娘 ・・・。
土岐頼員 来世でまた、人間に生まれてくる事ができたら、わしとおみゃあさんとで、また夫婦になろうやなぁ。
斎藤利行の娘 ・・・。
土岐頼員 それともなんだ・・・もしも、極楽浄土(ごくらくじょうど)に行けたら・・・蓮の花の上のスペース半分あけて、おみゃあさんの来るの、わし、ジッと待っとるでなぁ。(涙)
このように、頼員は、それとなく、苦しい胸のうちを語り続けた。
斎藤利行の娘 あんたぁ、いったいどないしはったぁん? なんやおかしいわ。
土岐頼員 ・・・。
斎藤利行の娘 男と女の仲なんて、今日約束しても明日はどないなってしまうかわからへん・・・そやのに、死んでから後の事まで約束するやなんて・・・。
土岐頼員 ・・・。
斎藤利行の娘 そうや、きっとそうや! あんたはもう、うち(私)を捨ててしまおと、思ぉたはんねんわ。そやないと、そないな事言うはずおへんもん(ないもの)・・・そうや、きっとそうやわ。
土岐頼員 え、え、違う、そら違うで!
斎藤利行の娘 うち、ほんにまぁ、悲しおす、うっうっうっうっ・・・(涙)。
妻は泣き泣き、恨み言をかこちながら夫に迫る。で、とうとう夫は・・・あぁ、まったくもう、なんという、思慮の浅い男なのだろうか!
土岐頼員 いやいや、それが、それがな・・・えぇい、もうこうなったら白状するけどな、実はなぁ、わし、天皇陛下から思いもかけねぇドエリャァ事、おおせつかってしもぉてなぁ、断ることもできんのよぉ。
斎藤利行の娘 いったい何を、おおせつかったん?!
土岐頼員 なんと、わしなぁ、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]に、参加させられてまったんよぉ。
斎藤利行の娘 エエーッ!
土岐頼員 だもんでな、千に一つも命助かる可能性ゼロなんよ・・・あぁ、もうワシ、人生まっ暗になってしもとるでぇ。
斎藤利行の娘 そんなぁー!
土岐頼員 おみゃあさんと別れる日も、近ぉなってくるかと思うと、わし、悲しぅて、悲しぅて・・・前もって、言うといた方がいいかなぁ、思うてな。
斎藤利行の娘 ・・・。
土岐頼員 な、な、この事な、絶対に他の人に言うたらいかんよ、な、わかったな、な、な・・・。
妻に対してクドクドと、口止めをする夫であった。
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頼員の妻は心賢き女人であった。翌早朝、起床するや、彼女は沈思黙考(ちんしもっこう)。
斎藤利行の娘 (内心)陛下の企画してはる、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]とかいうのんが、もしも失敗に終わってしもぉたら、うちの大事なあのひとは、たちまち、殺されてしまうやろ・・・。
斎藤利行の娘 (内心)反対に、もしも、その計画が成功してもぉてやで、幕府の方が滅びてもた、なんちゅう事になってしもぉたら・・・そないなったら今度は、おとう(父)はんはじめ、ウチの親族、誰一人とて、生き残れへんようになってしまうやん・・・困ったなぁ・・・。
斎藤利行の娘 (内心)うーん・・・この陰謀の事、おとうはんの耳に入れてもぉた方が、えぇんちゃうやろか・・・そないしたら、「倒幕計画を内通したる功績ある者」という事になってやで、あのひとの命を救えるやん、ウチの親族一同かて、この危機から救えるやん・・・。
斎藤利行の娘 (内心)ヨォシ!
彼女は急ぎ、父(斎藤利行)のもとに赴き、密かに、夫から聞いた事をありのままに告げた。
斎藤利行 なんやて! 打倒・鎌倉幕府やとぉ!
彼はビックリ仰天、すぐに、土岐頼員を自宅に呼び寄せた。
斉藤利行 あんなぁ! 水面下で密かに、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]とかなんとかいう、トンデモないもんが動き出しとる、とかなんとか、信じがたいような話、耳にしたんやが・・・これ、ホンマかいな?!
土岐頼員 ・・・。(冷汗)
斉藤利行 あろう事にやでぇ、あんたがそれに一枚かんでる、とかなんとかいう情報も、伝わってきてんねやが・・・。
土岐頼員 ・・・。(冷汗)
斉藤利行 よぉ考えてやぁ! 今のこの世の中でやでぇ、鎌倉幕府打倒やなんて、よぉ、そないな大それた事を・・・それこそ、石抱いて、深い淵に飛び込むようなもんやないかいな!
土岐頼員 ・・・。
斉藤利行 こないな事が他人の口からリークでもしてみぃ、巻き添え食ぉて、わしらまで皆殺しやがな!
土岐頼員 ・・・。
斉藤利行 あんなぁ、ここは、こないしてはどないかいなぁ? 「婿(むこ)の頼員がな、こないなオッソロシイ陰謀計画を、わしに通報してくれよりましたんやがな」とな、六波羅庁長官に、わしの方から報告すると、そないなフゥにしてな、そっちとこっちと共に、その咎(とが)から逃れる・・・どないだ?
これほどの一大事を女性に知らせてしまうような男である、頼員はもうただ、おどおどするばかり。
土岐頼員 実はな、この件はな、一族の土岐頼貞(ときよりさだ)と、多治見国長(たじみくになが)に勧められて、同意してもたんよ。こないなったらもう、とにもかくにも、わが身が助かるように、取り計らって下さいな!
斉藤利行 よっしゃ! まかしとき!
夜明け前に、斎藤利行は六波羅庁へ急行、事の詳細をくわしく報告した。
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それを受けて、六波羅庁はただちに、鎌倉へ早馬を走らせて報告するとともに、京中(きょうじゅう)・洛外(らくがい)の武士たちに緊急招集をかけ、馳せ参じてきたメンバーの氏名を、リストに記した。
ちょうどそのころ、摂津国(せっつこく:大阪府北東部+兵庫県南東部)の葛葉(くずは:注1)という所で、土着の武士たちが代官に背き、合戦に及ぶ、という事件があった。そこで、六波羅庁は次のような指令を出した。
六波羅庁指令:
かの荘園の、領主側・現地管理人を、荘園事務所に護送するために、京都市中48か所・警護番所づめの者、ならびに、京都常駐・治安維持担当メンバーを、緊急招集するものなり。
これすなわち、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]・メンバーを一網打尽(いちもうだじん)にするための偽装作戦である事は言うまでもない。
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(訳者注1)葛葉(くずは:大阪府枚方市)は、河内国内にある。太平記作者の誤記であろう。
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それが、わが身の上に関わってくる重大事であるとは思いもよらず、明日の葛葉への出向の準備を整え、土岐、多治見、共にそれぞれの邸宅にいた。
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明朝、元徳(げんとく)元年9月19日(注1)午前6時ころ、招集された武士たちはウンカ(雲霞)のごとく、六波羅庁へ集合してきた。
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(訳者注2)「元徳元年(1329)9月19日」は、太平記作者の誤。史実では、1324年9月19日。
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小串範行(おぐしのりゆき)、山本時綱(やまもとときつな)の両名が追討軍の大将に任命され、北条家・家紋入の旗を授かった。
彼らは、鴨川(かもがわ)の六条河原(ろくじょうがわら)へ打って出た後、3,000余騎を二手に分け、一方は、多治見国長の邸宅がある錦小路高倉(にしきこうじたかくら)へ、もう一方は、土岐頼貞の邸宅がある三条堀川(さんじょうほりかわ)へ向かった。(注3)
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(訳者注3)六波羅庁(六波羅探題)は、鴨川の東側、六波羅密寺(ろくはらみつじ)の近くにあった。一方、錦小路高倉、三条堀川はいずれも、鴨川よりも西方の場所である。ゆえに、「六条河原を経由して、鴨川の東から西への進軍」とのルート選択となるのは自然の成り行き、といえよう。
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土岐頼貞・討伐の方を担当したのは、山本時綱であった。
山本時綱 (内心)こんな大軍率いてワイワイ押し寄せてったんでは、土岐に感づかれてまうかも・・・ヘタすると、大物を取り逃がしてしまうことになるかも・・・。
山本時綱 よぉし、全軍しばらく、ここ、三条河原(さんじょうがわら)で待機せェー!
六波羅庁・三条堀川方面軍・メンバー一同 ドヤドヤドヤドヤ・・・。
時綱は、長刀(なぎなた)を持たせた中間(ちゅうげん)二人だけを伴い、土岐邸へ静かに馬を駆った。
門前に馬をサット乗り捨て、小門から内へツット入り、中門の方を窺(うかが)う。
宿直当番の者であろうか、甲冑(かっちゅう)、太刀(たち)、刀(かたな)を、枕辺に乱雑に置き、高いびをかいて寝入っている。
山本時綱 (内心)どっかに、抜け道あるやろか。
馬屋の後方に回り込み、調べてみたが、館の周囲はすべて築地壁(ついぢかべ)で囲まれており、門より他に、脱出口はない。
山本時綱 (内心)よぉしよし、こういう屋敷の構えやねんから、土岐を取り逃がすおそれは、ないわなぁ。
彼は、客殿に忍び入り、その奥にある二間の部屋の扉を、サッと引き開けた。
眼前には、頼貞が。ついさきほど、起床したようで、今まさに、髪をなで上げ、結わえようとしている。
時綱をキッと見るや、頼貞は、
土岐頼貞 ムム! さては!
叫ぶやいなや、頼貞は、刀架に立てかけてあった太刀をひっつかみ、
頼貞の太刀 カシャ!
障子 バリバシィ!
かたわらの障子を蹴破り、六間四方の客殿へ走り出た。
山本時綱 土岐頼貞、覚悟ォー!
土岐頼貞 えェィ!
時綱の太刀 チャイーン!
頼貞の太刀 グワシ!
時綱の太刀 キュイーン!
頼貞の太刀 ビュゥーン!
頼貞は、太刀を天井に打ちつけたりせぬように、横払いに太刀を使う。
時綱は、頼貞を広庭へおびき出し、すきあらば生け捕りにしてくれようと、太刀をうち払っては退き、相手の太刀を受け流しては飛びのき・・・。
一対一の死闘が続く・・・と、その時、
六波羅庁・三条堀川方面軍・メンバー一同 エェーイッ、エェーイッ、オーゥーッ!
山本時綱 !
土岐頼貞 ウゥ!
振り返る時綱の眼中に、中門からなだれ込み、一斉にトキの声を上げている後づめの大軍2,000余騎の姿が飛び込んできた。
このまま闘い続けていたのでは、生け捕りにされてしまう、と思ったのであろうか、頼貞は、先ほどまで寝ていた部屋に走って戻り、その場で腹十文字にかっ切り、北枕の中に果てた。
中の間で寝ていた頼貞の若党(わかとう)たちも、思い思いに戦って討死。土岐邸から逃れ得た者は、一人もいなかった。
土岐頼貞の首を取って太刀の切っ先に突き刺し、山本時綱は、六波羅庁へ帰っていった。
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錦小路高倉の多治見国長の邸宅へは、小串範行が率いる3,000余騎が押し寄せた。
六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバー一同 エェーイッ、エェーイッ、オーゥーッ!
終夜の酒に酔い、前後不覚で寝入っていた国長は、にわかに上がるトキの声に、ガバと飛びおきた。
多治見国長 ナニゴト(何事)やぁ!
遊女 アァ!
傍らに寝ていた遊女は、こういう局面によく慣れている人であった。
遊女 さ、さ、早いとこ、鎧(よろい)!
多治見国長 ウン!
彼女は、枕辺の鎧を取って国長に着せ、上帯を強く締めさせた。そして、まだ寝入っている国長の家臣たちを、起こして回った。
遊女 えらいこっちゃで、攻めてきよったがな! さ、さ、皆さん、早いとこ、起きとくれやっしゃぁ! 攻めてきよった、攻めてきよったでぇー!
彼女にたたき起こされ、小笠原孫六(おがさわらまごろく)は、太刀だけ取って中門まで走り出た。
目をすりすり、四方をキッと見わたせば、車輪マークの旗が一本、築地の上に見えた。
孫六は、中へ走り込んで叫んだ。
小笠原孫六 六波羅、六波羅! 六波羅の軍が押し寄せて来たがや!
多治見家・家臣一同 なにぃ!
小笠原孫六 こないだから殿が計画してた事、もう、バレてしもてるでぇ!
多治見家・家臣一同 ・・・。
小笠原孫六 もう、こうなったからにゃぁ、みんな、太刀がもちこたえる限りゃぁ、せいいっぱい敵と切り合ぅて・・・最後は腹切るだけだで!
孫六は、腹巻(はらまき:注4)を取って身に装着、2ダース矢入りエビラと、繁藤弓(しげどうゆみ)を引っさげ、門の上の櫓(やぐら)へ、かけ上がる。
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(訳者注4)鎧の一種。
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弓に中指(なかざし)矢をつがえ、狭間(はざま)の板戸を全開にし、追討軍に向かって彼は叫んだ。
小笠原孫六 ヨォヨォ、こりゃまたぁ。よくもまぁ、こんなに大勢で押しかけてきてみえたがねぇ・・・よっぽど、わしらが怖いんじゃろうな、あんたがたぁ。
六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバー一同 ・・・。
小笠原孫六 そっち側の大将は、どこの何てぇ名前のお人かねぇ? ちょっとこっちぃ来て、この矢ぁ一本、受けて見んかねぇ?
孫六は、12束3伏(じゅうにそくみつぶせ:注5)の矢を十分に引き絞り、パァッと放った。
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(訳者注5)矢の長さ。束は指幅4本分の長さ、伏は指幅1本分の長さ。
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追討軍の先頭きって進んでいた、狩野下野前司(かののしもつけのぜんじ)の若党・衣摺助房(きぬずりすけふさ)に、その矢は命中、冑(かぶと)の真っ正面から最内層まで貫通し、馬から真っさかさまに射落とした。
これを手はじめに、孫六は、追討軍メンバーたちの、鎧の袖、草摺(くさずり)、冑の鉢と、ところかまわず思うがままに、矢を連射、最前線の武士24人を馬から射落とした。
更に孫六は、エビラから残りの一本の矢を抜いた後、そのエビラを櫓の下へカラリと投げ落としていわく、
小笠原孫六 この矢ぁ一本、わしの冥土の旅の用心に、持ってくかぁ!
その矢を腰に差し、
小笠原孫六 さぁ、さぁ! 日本一の剛(ごう)の者が、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]に参加して自害するとこ、よぉ見といてな、他の人にも伝えてちょぉ!
高らかに叫んだ後、孫六は、太刀の先を口にくわえ、櫓から頭を下にして飛び降り、太刀にわが身を貫かれて死んだ。
この間に、多治見国長はじめ一族若党20余人、鎧兜(よろいかぶと)でしっかり身をかため、広庭に躍り出て、門にかんぬきをさし、追討軍を待ち構えた。
六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバー一同 ・・・。
多治見家・メンバー一同 ・・・。
六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーA (内心)こっちサイドは、ウンカ(雲霞)の如き大軍勢。
六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーB (内心)人数面で見れば、こっちサイドが、圧倒的多数・・・とはいいながら・・・。
六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーC (内心)あの館の中に引きこもっているのは、覚悟固めきった者ばかり。
六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーD (内心)やつらの思いはただ一つ、「トコトン、アバ(暴)レマワッテから、死んでやる!」
六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーE (内心)ジワジワァと、わが心中に沸き上がりくる、この恐怖感。
六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーF (内心)あぁ、だめだ、とてもあんな中へ、踏み込んでいけるもんじゃぁない。
そのまましばらく、時が流れ・・・そしてついに、
伊藤彦次郎(いとうひこじろう) よぉし!
伊藤・父子兄弟4人、意を決し、門扉の少し破れている所から、内へ這入っていく。
その志、勇猛果敢といえども、待ちかまえている相手側のまっただ中に、這入っていくのであるから、あまりにも態勢が悪すぎる。相手方と太刀を合わすまでもなく、全員、門の脇で討ち取られてしまった。
この様を見た追討軍側はますますおじけづき、門に近寄る者もいなくなってしまった。
それを見て、館の中の人々は門戸を押し開いて立ち、
多治見家・家臣K わしらを攻める役目ぇ、承(うけたまわ)ってみえたほどの人らだというのによぉ、まぁなんと卑怯(ひきょう)な事だがやぁ。
多治見家・家臣L こないして扉、開いてさしあげたがね、さ、ここから早(はよ)ぉ入って来なさいな。
多治見家・家臣M わしらの首、引き出物に差し上げるでね。
多治見家・メンバー一同 ワッハッハッハッハァ!
このように、彼らは追討軍サイドを、嘲けりはじめた。
さんざん嘲りを受けたあげく、ついに、追討軍サイド第1陣の500余人が下馬、
六波羅庁・錦小路高倉方面軍第1陣・メンバー一同 ウォオオオオ・・・!
おめきながら、徒歩で、庭へ突入。
多治見家・メンバー一同 ドェエエエエーーーィ!
「もはや逃れるすべはなし!」と、思いきり、中にたてこもる多治見家のツワモノたち、、どこへも一歩も退くはずもなし、メンバー20余人、大勢の追討軍のまっただ中に乱入乱入、わき目もふらず、真っ正面から切りかかっていく。
追討軍サイド第1陣の500余人は、散々に切り立てられ、門から外へサァッと退いた。
しかしながら、攻め入る側は大軍勢、第1陣が退けば、第2陣がおめいて突入する。突入すれば追い出し、追い出せば突入し、午前8時ころから正午ごろまで、攻める側、守る側双方、烈火のごとくあい戦った。
大手(おおて:注6)側の防御がこのように強固であるのを見て、佐々木時信(ささきときのぶ)の配下1,000余人は、多治見邸の裏手方向へ回り、錦小路の方向から民家を破壊しながら前進し、多治見邸内に突入した。
これを見た多治見国長、
多治見国長 もはや、これまでやね!
多治見サイド22人は、中門の前に並んだ後、互いに刺し違え刺し違えしながら、算木(さんぼく:注7)を散らしたごとくに倒れていった。
このようにして、大手側の追討軍が門を破る間に、搦手(からめて)(注8)側の追討軍が乱入して多治見サイド全員の首を取り、六波羅庁へ帰還していった。
この合戦での、負傷者・死者・カウント数は273人。4時間に渡ってくりひろげられた戦いであった。
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(訳者注6)正面方向の攻め口。
(訳者注7)易占に使用する道具。
(訳者注8)裏側方向の攻め口。
(訳者注9)
[太平記 現代語訳]の中では、[六波羅探題](ろくはらたんだい)を、[六波羅庁]と翻訳することにした。
以下、[六波羅探題の研究 森 幸夫 続群書類従完成会] を [文献A]と表記する。
[文献A]の19Pには、以下のようにある。
「承久の乱後、六波羅探題が設置され、①朝廷の監視及びそれとの交渉、②洛中警護、③西国成敗(訴訟)の主として三つの任務を行うこととなった。その主班者である探題には、周知のように、北条氏一族中より通常二名を以って選任された。当時「(両)六波羅殿」と呼称され、一方のみを区別して指称する場合には、「北方(殿)」・「南方(殿)と呼ばれた。」
[文献A]の20P~21Pに、歴代の両六波羅殿の氏名がリストアップされている。
それによれば、初代の北方殿は、かの、[北条泰時]([御成敗式目]を制定した)である。[承久の乱]の際に、[鎌倉幕府軍]の総大将として京都へ進軍し、その後、新たに京都に設置された[六波羅探題]の北方殿に就任したのである。
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[六波羅探題]のオフィスがあった場所については、[文献A]の23Pには、以下のようにある。
「まず初めに北方・南方という呼称について考えてみよう。
これはもちろん地理的に北方が六波羅領域内の北側に、南方が南側に置かれていたからこう呼ばれたのであろう。その場所は、ともに大和大路の東側であって、北方は旧五条・旧六条坊門の間、南方は旧六条坊門・旧六条の間に所在し、隣接していたとされている。(8)」
上記中の「(8)」は、[文献A]中に記されている注記を示す番号であり、それに該当する注記は、[文献A]の47Pにある。そこには、以下のように記されている。
「(8) 高橋慎一朗氏「「武家地」六波羅の成立」(『中世の都市と武士』 吉川弘文館、一九九六年、初出一九九一年)。」
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[文献A]の[第二編 六波羅奉行人の考察 第四章 六波羅奉行人斎藤氏の諸活動]に、上記に登場する[斎藤利行]が所属していた[斎藤氏]について、記されている。
それによれば、この[斎藤氏]は、[武士]というよりも、[官僚]と呼ぶ方がフィットするような集団であったようだ。豊富な知識と経験をもって、訴訟関連の業務において、六波羅探題の中で重要な役割を果たしていたようである。
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