太平記 現代語訳 1-3 後醍醐天皇、意欲的に改革を指向
-----
この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
-----
当時、京都の四方の境界・七道(しちどう)に関所が設定されていた(注1)。その目的は、
(1) 国家の重要禁制を人々に知らしめる。
(2) 非常事態発生に備える。
-----
(訳者注1)原文では、「それ四境七道の関所は」。[七道]とは、[畿内(きない=首都圏)]の周囲に位置する、[東海道]、[東山道(とうさんどう)]、[北陸道]、[山陽道]、[山陰道]、[南海道]、[西海道]の7つの行政区域。
-----
後醍醐天皇(ごだいごてんのう) うーん、そうは言うけどもやでぇ、今や、関所は完全に、形骸化してしもとるやないか。本来の目的はもうどっかへスットンでしもぉてて、やっとるこというたらや、ただただ通行人から独占的に利を貪っとるだけの事やないかぁ。
閣僚メンバー一同 ・・・。
後醍醐天皇 こないな事では、商業の為の人の移動とか、年貢の輸送とか、円滑に行くはずないわなぁ!
閣僚メンバー一同 ・・・。
後醍醐天皇 よぉし、決めたぁ! 大津(おおつ:滋賀県大津市)と葛葉(くずは:大阪府枚方市)だけを残し、新しぃできた他の関所、みんな廃止してまえ!
閣僚メンバー一同 ハハァーッ!
元享二年の夏、大干魃(かんばつ)が国土を襲った。地上の植物はみな枯れてしまい、京都の周囲百里にわたって、見渡す限りの赤土のみ、田圃(たんぼ)の青苗(せいびょう)は全滅、行き倒れた人が巷に満ち、餓死者は地に倒れる。
かくして、この年のモミ米の相場は、[米1斗 : 銭300]のレベルにまで、暴騰してしまった。
この大飢饉の惨状を聞こしめされた天皇は、のたまわく、
後醍醐天皇 あーぁ・・・このわし(私)に、なん(何)か不徳のとこがあるっちゅうんやったらやでぇ、わし一人を、天はわし一人だけを、罰しはったらえぇ(よい)やんか・・・そない思わんかぁ?
閣僚メンバー一同 ・・・。
後醍醐天皇 かわいそうなんは、民やがな。いったいなんで、こないな災害に遭(あ)わんならんねん! 彼らには何の罪もないわなぁ。
閣僚メンバー一同 ・・・。
後醍醐天皇 ようは、わしにはまだまだ帝徳(ていとく)が不足してるっちゅうことやわなぁ・・・ハァー・・・(溜息)。このわしの日常の行いが、天のご意向に背いてるよってに、こないな災害が起こるっちゅうことやろうなぁ・・・ハァー・・・(溜息)。
閣僚メンバー一同 ・・・。
後醍醐天皇 よぉし、わし、あした(明日)から、朝飯抜きや! その分、飢えて苦しんどるもん(者)らに、施してやれ、分かったなぁ!
閣僚メンバー一同 ハハァーッ!
陛下のこのご発意、まことにご立派なことではある。しかしながら、ご飯一人分をいくら施してみても、万民の飢えを助けることには、ならないではないか。
ということで、都庁長官(注2)に対して、
-----
(訳者注2)原文では、「検非違使の別当」。
-----
後醍醐天皇 あんなぁ、こんな情報、耳にしたんやが・・・京都の富裕層がな、この大飢饉でいっちょボロモウケしたろと企んでや、米や穀物をたんまりしまい込んどる、と。これ、ほんま(真実)か?
都庁長官 はい、お言葉の通りでおます。
後醍醐天皇 んもぉうー、なんちゅうヤッチャァ! よぉし、それ、ナニガナンデモ市場に流通させるんや! まずは、連中が蓄えとる米穀、即刻洗い出せ!
都庁長官 ハァッ!
後醍醐天皇 次にはと・・・そやなぁ、適当なとこ(所)に米の仮設市場、設置するんや。いったい、どこがええ?
都庁長官 そうですなぁ・・・やっぱし、二条町(にじょうまち:注3)あたりが、ナニカとよろしぃんちゃいますやろかぁ。
後醍醐天皇 よぉし! その仮設市場に連中らの米、残らず出させぃ! ほいでや、オマエがきちっと判断してやな、米の相場、決定してやな、正当な価格で売買させるようにせぇ、分かったなぁ!
都庁長官 ハハァッ!
かくして、米を売る側、買う側、双方ともに利益を得て、「人みな9年の貯えあるがごとき」状態となった。
-----
(訳者注3)「二条町」とは町名ではなく、(平安京の)[二条大路]と[町小路]の交差する地点付近、という意味である。
-----
後醍醐天皇 領地関連の訴訟に、一大問題ありやなぁ。
閣僚メンバー一同 ・・・。
後醍醐天皇 当事者間の利害の事実関係とかが、訴訟担当のもんらに、きちっと、伝わってるんやろうか? どうも心もとないぞぉ。
閣僚メンバー一同 ・・・。
後醍醐天皇 よぉし、明日から領地問題裁判所、わしも出席したろ!
閣僚メンバー一同 ・・・。(目を見合わせる)
このように、天皇自ら裁判所へ出御(しゅつぎょ)あそばされ(注4)、訴訟人の訴えを直接聞かれ、事情をよく把握された上で、その理非を明確に、自ら裁決するようになさった。
かくして、その方面の訴訟はたちまち無くなり、刑鞭(けいべん)も朽ち果て(注5)、諫言(かんげん)の合図の鼓(こ)を撃つ人も無し(注6)、という状態になった。
-----
(訳者注4)原文では、「記録所へ出御成つて」。
(訳者注5)「刑鞭」とは罪人を打つ鞭のこと。ようは、訴訟の件数が激減した、という事を言いたいのであろう。
(訳者注6)「諫言」とは、君主に対して臣下から、「そのような事をやるべきではありません」、「このようにすべきです」等と、(勇を振るって)言う事である。「後醍醐天皇の治世がとても良かったので、誰も諫言する必要が無かった」という事を、言わんとしているのであろう。
-----
後醍醐天皇のこの政治に関して、私・太平記作者から一言言わしてもらうならば:
まことにもって、治世安民の政治、統治の巧みさという観点からの評価としては、「準聖人レベル」と言ってもよいであろう。
しかしながら・・・おしむらくは、斉(せい)の恒公(かんこう)が用いた[覇道(はどう)]、あるいは、楚(そ)の恭王(きょうおう)の、自国の事しか眼中になかった狭量さ・・・陛下の政治路線にも、そのような傾向が幾分か、あったのではないだろうか。
後の陛下の運命は、天下を併呑(へいどん)して偉大な治世を開始されてはみたものの、闘争の末勝ち得た政権を、文治の力によって維持しえた期間は、たった3年にも満たず、というようなカタチに展開していく。
その運命の変転の真の原因はまさに、この両者、すなわち、覇道への傾斜と狭量さにあったのではと、私には思われてならないのである。
-----
(訳者注)[二条富小路(にじょうとみのこうじ)内裏]について
この時代、正式な御所(内裏)というものはなく、天皇は貴族の私邸に居住し、そこが朝廷が営まれている場所になった。これを[里内裏]という。後醍醐天皇の[里内裏]は、二条富小路にあった。
-----
(訳者注)[町小路]について
[町小路]は、現在の[新町通」に相当する。中世の京都においては、この通りが、極めて注目すべき道路であったようだ。
[寺社勢力の中世 伊藤正敏 ちくま新書734 筑摩書房]の39P~41Pに、この通りに関して、いろいろと書かれている。関心がある方は、そこをご参照いただくとよいと思う。
-----
太平記 現代語訳 インデックス 1 へ
