『判決を待つ浴室』
朝、目が覚めると、私の身体は半ば自動操縦のように浴室へ向かう。
昨夜の残り湯を抜き、洗剤を吹き付ける。
テレビCMでは「擦らずに流すだけ」と軽快に謳っているが、私は結局、スポンジを握る。
化学の進歩を疑っているわけではない。
ただ、自分の手でキュキュと鳴る摩擦を確かめなければ、どうにも落ち着かないのだ。
浴室を出れば、今度は夕飯の仕込みが待っている。
米を研ぎ、炊飯器のタイマーをセットする。
冷蔵庫の在庫を確認し、足りない調味料をスマートスピーカーのリストに登録する。
すべては、いつも通りの作業だ。
何年も繰り返してきた、判で押したような日常。
だが、その単調な反復の隙間から、ときおり厄介な問いが顔を出す。
――なぜ、私ばかりがやっているのだろう。
世間では「家事分担」の話題が、定期的にタイムラインを炎上させている。
「旦那が何もしてくれない。」
「ゴミ出しだけで家事をした気にならないでほしい。」
そんな言葉が流れてくるたび、私は妙な居心地の悪さを覚える。
私はこれ以上、一体何をすればいいのだろうか。
もちろん、それらの言葉が私個人へ向けられているわけではない。
だが、人は主語の大きな言葉に触れると、否応なくその中へ放り込まれた気分になる。
「夫は家事をしない」という一文の前では、私が毎朝磨いている浴槽も、段取りを組んで進める炊事も、まるで存在しないかのように扱われる。
世間という巨大な裁判所で、「何もしていない夫」という判決だけが先に確定しているような感覚。
それが妙に息苦しい。
もっとも、こんなノイズを頭から締め出すために始めた習慣だったはずなのだ。
変えられるのは、自分だけ。
そう割り切った行動。
妻が掃除をしないなら、自分がやればいい。
炊事も洗濯も、他人のやり方に不満を抱くくらいなら、自分で済ませたほうが圧倒的に早い。
期待しなければ失望もしない。
それは夫婦関係という不条理な共同生活を円滑に回すための、私なりの処世術だった。
ところが皮肉なことに、その合理性が新しい悩みを生み出した。
誰にも期待しない代わりに、すべてを自分が背負う。
その仕組みは確かに衝突を減らした。
だが同時に、「なぜ自分だけが維持しているのか」という問いまで、一人で抱え込むことになった。
防波堤は、外から押し寄せる波を防いでくれる。
しかし、防波堤の内側にいる人間の孤独までは守ってくれない。
今日も私は浴槽を擦る。
スポンジが立てる小さな摩擦音を聞きながら、きれいになった浴槽と引き換えに、少しずつ削れていくものがあることを知りながら。
それでも、手は止まらない。
まるで、いつ下るとも知れない判決を待ちながら、自ら無実の証拠を積み上げ続ける被告人のように。
浴室に響くキュキュという乾いた音だけが、誰に聞かれることもない、私の静かな弁明だった。
