『本当に大は小を兼ねるのか』
わが社の社長は、「大は小を兼ねる」という言葉を、経営判断の万能薬のように信じている。
増車の話が持ち上がったとき、私は「2トンショート」を強く推した。
狭い路地を縫える取り回し。
現行の普通免許しか持たない若手でも即戦力になれる機動力。
現場という現実に、きれいに嵌まる最後の一片は、それしかないと確信していた。
だが、納車日に現れたのは、「2トンロング」のワイドボディだった。
見上げるような巨体を前に言葉を失う私に、社長は満足げに言った。
「小さいのより、こっちの方が荷物が乗るだろ?」
それきり、そのトラックは一度も公道を走っていない。
免許の壁に阻まれ、道幅に拒まれ、駐車場の片隅で静かに陽を浴びている。
エンジンは眠り、タイヤは減らず、ただ“所有物”としての存在感だけを主張する鉄の塊だ。
「大は小を兼ねる」
たしかに、大きな風呂敷は小さな菓子折りを包める。
だがそれは、風呂敷という柔らかな布であり、形を自在に変えられるという前提があってこそ成立する理屈だ。
小荷物を包むために、風呂敷ではなくパラシュートを持ち出すのは賢明だろうか。
どちらも同じ布であり、「包む」という機能は備えている。
しかし、パラシュートで包んだ贈り物を抱え、軽やかに街を歩ける者はいない。
余った布は足に絡まり、重さは体力を削り、やがて目的地に辿り着く前に膝を折る。
道具には「最適解」がある。
大きなトラックは多くの物を積める。
だが「積む」は手段であって、目的ではない。
その目的は現場に届けることだ。
免許という法的制約、道幅という物理的制約、運転技術という心理的制約。
それらのどれも越えられない車両は、輸送機器ではなく、ただの巨大なオブジェに過ぎない。
風呂敷なら余分を折り畳み、時に切り詰めることもできる。
だがトラックのフレームは切れない。
数字上の“余裕”は、現場では“負債”に変わる。
社長の言う「大」は、現場の「小」を兼ねるどころか、その呼吸を鈍らせた。
今日も駐車場で陽を浴びるワイドロングの巨体を見るたびに思う。
どれほど立派なパラシュートであっても、それを畳めない者の手にあれば、ただの扱いきれない布でしかないのだ。
