『あなたは本当に「鴻鵠」なのか?』
『燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや』
小人物には大人物の志など推し量れるはずがない、というこの古言は、傲慢と謙遜という人間の両刃を突いた一文である。
しかし、私たちはこの言葉を口にする時、なぜか決まって「自分こそが鴻鵠の側」であると信じて疑わない。
隣の同僚の視野の狭さを笑い、世間の浅慮を嗤うとき、私たちは無意識に、天空を悠然と舞う大鳥のつもりでいる。
この自己評価の過剰さ、すなわち「鴻鵠の錯覚」は、誰もが陥りがちな自己防衛的な認知バイアスの産物だ。
だが、真にこの言葉を理解するとは、自分がいかに燕雀であるかもしれないという現実を、痛みとともに直視することではないだろうか。
誰かが「普通ではない」行動を取るとき、私たちは即座にその人を「異常者」と断じる。
だが、その行動の根底には、私たちには見えない遠い地平、あるいは私たちには届かない深い思慮が潜んでいるかもしれない。
彼らにとっては「至って当然の行動」である可能性もある。
にもかかわらず、私たちは「異常」を見つけるたびに安心する。
「自分は常識的な側にいる」と信じるために、誰かを異端として排除しようとする。
他者を裁くその瞬間、私たちは鴻鵠ではなく、群れの中で安心を得ようとする燕雀の群れにすぎない。
この構図がもっとも鮮明に現れたのが、新型コロナウイルスのパンデミックであった。
見えない恐怖に包まれた社会は、理性よりも同調の熱に支配された。
政府の要請は絶対となり、異議を唱える者は、「反社会的存在」として糾弾された。
「自粛しない人間は国賊だ。」
「命より経済を優先するのか。」
こういった不安に裏打ちされた「正義」が、瞬く間に社会を覆い尽くした。
だが、その人々の中には、行き過ぎた対策による弊害や、国家による私権制限に警鐘を鳴らす市民もいた。
彼らは、単なる反抗者ではなく、「同調圧力という名の暴力」に抗う鴻鵠であったかもしれない。
しかし、群衆の目にはそれが見えなかった。
彼らに映っていたのは、ただ「群れから外れた燕雀」だった。
そして、あの熱狂は今どうなっただろうか。
感染者数が再び増加する今、あれほど自粛を叫んでいた人々が、同じように慎重に行動しているだろうか。
あのとき人々が掲げていた「正義」とは、情報の断片化と不安という熱に浮かされた一時の幻影だった。
彼らの行動は、未来を見据えた信念のためではなかった。
むしろ、群れから外れることを恐れた燕雀たちが、安心を得るために「同調の翼」を寄せ合っていたにすぎない。
「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」
この言葉の真の矛先は、他者を見下すための格言ではなく、自分の小ささを自覚するための戒めである。
私たちはいつだって、世界の全てを理解しているように錯覚する。
SNSで得た断片的な知識で、誰かの判断を嘲る。
しかし、その一つひとつの背後には、私たちの知らない事情、痛み、覚悟、そして孤独が横たわっている。
そのことに気づいた瞬間、人は初めて燕雀の視点を脱する。
他者を裁くのではなく、理解しようと努める。
そして、自分が「知らない」ことを知る。
それこそが、鴻鵠の志の入り口である。
人間は、容易に燕雀となり、鴻鵠を笑う。
けれど本当に恐ろしいのは、「自分が鴻鵠である」と信じ込んだまま、他者を弾圧するその瞬間だ。
私たちはあのコロナ禍で、まさにその過ちを社会全体で演じてしまった。
だからこそ、今こそこの言葉を、自分自身に向けて言い直さねばならない。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
