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アラカン・ルージュ

街で一番大きな商店街に、その店はあった。香水の匂いに誘われて、そっと覗いた店内には、煌びやかなコンパクトや口紅のサンプルが並んでいる。その華やかさの中に飛び込んでいきたい気持ちをおさえて家に帰り、私は財布に残っていた小銭を貯金箱に入れた。

私が高校生だった当時はまだ、化粧は「不良がするもの」だった。時々、カラー・リップクリームをつけたり、色の薄いマニキュアを塗ってみたり、母の化粧品をこっそり借りて白粉をはたくことはあったけれど、自分だけの、本格的な化粧品を揃えるのは、高校を卒業してからと決めていた。受験勉強の傍ら、ティーン雑誌のメイク特集を眺めては胸をときめかせ、気になる化粧品をリストアップしていった。
大学に合格し、迎えた十八歳の春休み。貯金箱のお金を全て財布に移し、私は商店街へ向かった。いよいよとなると、ちょっぴり恥ずかしい。周りに知り合いがいないことを確かめてから、私はあこがれ続けた化粧品店に、初めて足を踏み入れた。
そこは、夢見ていた通りの場所だった。きれいなお姉さんたちが、満面の笑顔で私を迎え、化粧初心者の私に、頬紅のさし方や眉の描き方を、丁寧にアドバイスしてくれた。一通りの化粧品を買い揃え家に戻ると、早速、私は鏡に向かった。
目の周りを黒く縁取り、ビューラーで睫毛を丸める。
口紅は数種類の色が並んだパレット。その頃、聖子ちゃんの「ロックン・ルージュ」が流行っていた。

ピュア ピュア リップス♪
気持ちはイエス♪

口ずさみながら、私は一番赤い紅を選び、リップブラシで唇をなぞる。
どんどん変わっていく自分の顔。そして、完成した化粧顔が鏡の中に映った時。私は全身に真新しい血が流れ始めるのを感じていた。それは、私が生まれて初めて自分に自信が持てた瞬間だった。

以来、毎朝、早起きしては鏡とにらめっこするようになった。どんなに寝不足でも、失恋して泣き明かした朝でも、化粧をすれば、いつも元気が出た。素顔でいる時よりも、何百倍も自分に誇りを持てた。化粧は、私を勇気づけてくれる、身近な友達のようなものだったのだ。

化粧がつまらなくなっていったのは、社会人となり十年も経った頃だろうか。それは歯を磨いたり、髪を梳かすのと変わらない朝の決まりごとのひとつ。面倒でもなければ、わくわくすることもない、単なる習慣に過ぎないものとなっていた。
ファンデーションを塗るのをやめ、目も描かなくなった。そうして、冠婚葬祭以外ほとんど化粧をしなくなってから、何年が経ったのだろう。
いつしか、化粧をした顔を見せるほうが、気恥ずかしくなっていた。

コロナ渦をきっかけに、仕事がフルリモートとなった。そして転機は、ある日、突然訪れた。
Web会議中のことだ。
液晶画面に映った自分の顔を見て、私は仰天した。
そこには、見知らぬ初老の女が居た。不意打ちを食らった私は、ショックのあまり、咄嗟にカメラをオフにする。
気付けば五十代も終盤。同じ世代の女優さんやタレントが今も若々しく美しいので、すっかり油断していた。でも、人の目を集めてこそ成り立つ商売の彼女たちは、美しさを保つため、日々、たゆまぬ努力を続けているに決まっている。
久しぶりに鏡の中の自分の顔と向き合ってみる。いつの間にかシミが増え、頬も弛んでしまった。このまま何もせずに歳を取り続け、醜い婆さんになってしまうのか。
そんなの、嫌だ。
ちゃんと肌のお手入れをしなくては。せめて人に会う時くらい、化粧をしなくては。
思い立ったが吉日。私は財布を掴み、近所のドラッグストアに駆け込んだ。

居間のテーブルの上に、買ったばかりの化粧品を並べてみると、少しだけ心がざわめく。真っ赤な口紅がもう似合わないのは、鏡を見なくてもわかっている。この日選んだのは、淡いピンクの口紅だった。唇を彩りながら、私は思い出す。
十八歳の春。化粧をした自分の顔が誇らしくて、うれしくて仕方なかったあの日。どきどきが止まらなかった私は、飽きもせずに鏡の中の自分を見つめていた。数十年後、シミを隠し、弛みを誤魔化し、溜息をつきながら口紅を塗る日がくるなんて、想像もしていなかった。
そして、出来上がったアラカンの化粧顔。液晶画面に映った、衝撃の老け顔よりはましだけれど、どんなに塗りたくったところで、やはり年相応の顔だ。鏡の中の私は、泣き笑いの表情を浮かべるしかない。虚しいけれど、これが歳を取るということ。生きていれば巡り会う、ありとあらゆる感動の場面から、少しずつ遠ざかっていくのだ。
老いに逆らうつもりはない。受け入れながら、残りの人生で一番若いこの日を、胸を張って生きるために、女たちは鏡に向かい、紅をひくのだ。

いつのまにか、街の化粧品店は軒並み姿を消していた。少女たちは百円均一の店で気軽に化粧品を手に取っている。
それでも、初めて化粧を施した自分の顔を鏡の中に見た時、彼女たちの胸には、言葉にならない高揚感が溢れてくるのに違いない。二度と戻らない私の、十八歳の春の日と同じように。

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