8回落選した人が選考委員になる世界|小説の評価の不思議さについて|創作論|小説新人賞|文学賞|創作の悩み|書くこと|
皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、
@おはようございますです。
小説新人賞について考えていると、
「小説って本当にわからない」
と思わされることがあります。
その象徴のような話があります。
ある文学賞で、
最終選考委員を務める作家が、
かつてその賞に8回も落選していたという話です。
これは、とても示唆的です。
なぜなら、
かつて“選ばれなかった人”が、後に“選ぶ側”になる
ということだからです。
ここには、
小説というものの評価の難しさ
が表れているように思います。
8回落選しても、才能がなかったわけではない
普通に考えれば、
8回も落選したら、
「才能がなかったのではないか」
と思ってしまいます。
しかし、その人は後に作家となり、
ついにはその賞の選考委員になった。
つまり、
8回落選したことは、
その人の才能の欠如を意味していなかった
ということです。
これはとても重要です。
落選という結果だけを見れば、
実力が足りなかった
評価されなかった
才能がなかった
と考えがちです。
でも現実には、
落選していても、
後に高く評価されることがある。
ここに、小説の評価の複雑さがあります。
小説の評価は数値化できない
小説が難しいのは、
評価が数値化できない
ことです。
たとえば試験なら、
何点取ったか
合格点に届いたか
が分かります。
スポーツなら、
タイム
得点
がはっきりしています。
しかし小説には、
絶対的な点数がない。
ある作品を、
面白いと思う人もいれば、
面白くないと思う人もいる。
ある文章を、
独創的と見る人もいれば、
読みにくいと感じる人もいる。
つまり、
小説の評価は、読み手との関係の中で決まる
のです。
だから、
ある年には落ちても、
別の読み手なら評価されることがある。
8回落選した人が
選考委員になるというのは、
そのことを示しています。
落選は「価値がない」という意味ではない
ここで大切なのは、
落選 = 価値がない
ではないということです。
新人賞では、
募集要項との相性
選考委員の好み
その年の傾向
他の応募作との兼ね合い
さまざまな条件で結果が決まります。
だから、
良い作品でも落ちる
ことがあります。
逆に言えば、
落選したからといって、
その作品や書き手の価値が
否定されたわけではありません。
8回落選した人が後に
選考委員になるという事実は、
「選ばれなかったこと」
と
「価値がないこと」は別
だと教えてくれます。
「わからなさ」があるからこそ希望もある
小説はわからない。
これは苦しさでもあります。
なぜなら、
何が悪かったのか分からない
なぜ落ちたのか分からない
努力がどれだけ届いたのか分からない
からです。
この不確実さはつらい。
しかし同時に、
わからないからこそ希望もある
とも言えます。
もし小説が完全に数値化されるなら、
一度低評価なら終わり
になってしまいます。
でも実際はそうではない。
ある場所で評価されなくても、
別の場所で評価されることがある。
今は落ちても、
後に認められることがある。
だから、
「今落ちた」ことが
「才能がない」ことを意味しない
のです。
これは、創作する人にとって大きな救いです。
小説は「能力」だけでなく「出会い」でもある
小説の評価には能力が必要です。
文章力も構成力も必要です。
でも、それだけではありません。
そこには、
出会い
があります。
誰が読むか
どのタイミングで読むか
どんな作品が求められているか
こうした偶然も大きく影響します。
つまり、
小説の受賞は能力だけでなく
巡り合わせでもある
のです。
8回落選した人が選考委員になるというのは、
能力がなかったから落ちたのではなく、
その時に選ばれなかっただけ
という側面もあることを示しています。
おわりに
何度も落選した人が、
後にその賞の選考委員になる。
この事実は、
小説の評価がいかに単純ではないか
を教えてくれます。
小説には、
実力
相性
タイミング
巡り合わせ
が絡みます。
だから、
落選した = 才能がない
とは言えない。
むしろ、
評価は絶対ではない
ということです。
小説はわからない。
だから苦しい。
でも、わからないからこそ、
今の結果だけで未来は決まらない
とも言える。
創作を続ける人にとって、
この「わからなさ」は不安でもあり、
希望でもあるのだと思います。
どうでしょうか。よろしければ、
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@おはようございますでした。
