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問いは、いつから居場所を失ったのか

皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。

僕は小学生の頃から、よく質問する子どもだった。
そのときは損得も考えず、
授業の枠をはみ出すようなことも、自然に聞いていた。

「どうしてそうなるんですか」
「ここって、別の考え方はないんですか」

先生はその場では答えられないこともあったけれど、
こう言ってくれた。

それはね、大学に行ったら全部解決できるよ。

その言葉を、僕は素直に信じた。


中学、高校に進むにつれて、空気は変わった。
とくに高校では、指導の軸ははっきりしていた。

受験、合格、実績。

質問は歓迎されるものではなく、
管理すべきものだった。

「今はそこを考えなくていい」
「入試に出ない」
「時間がない」

問いは、後回しにされ、
やがて口に出さなくなった。

それでも僕は、
「大学に行けば違うはずだ」という期待だけは、
最後まで捨てなかった。


大学には、確かにアカデミックな雰囲気があった。
シラバスにはオフィスアワーがあり、
質問や相談のための時間が制度として用意されていた。

だから僕は、
自分で調べ、考え、それでも分からなかったことを抱えて、
教員のもとを訪ねた。

何度か出入りするうちに、
距離は少しずつ縮まっていったと思う。
向こうも本音を話してくれる場面が増えた。

そして、あるとき、はっきりと言われた。

カリキュラムの範囲の質問ならいいけれど、
それを超えることについては、原則として答えられない。

別の場面では、
「質問攻めしているのか」と言われたこともある。


学生相談にも行った。
そこで言われたのは、
教授たちの多忙さを前提にした説明だった。

  • 教員は忙しい

  • 君の質問のレベルは高い

  • 家庭教師ではない

  • 正直、分からなかったのかもしれない

理屈としては、理解できる。
もし自分が教員の立場だったら、
同じように感じる場面もあると思う。

だからこれは、
誰かの性格や善意の問題ではない。


僕が感じたのは、
問いを受け止めきれない構造そのものだった。

小学生の頃は、
「大学に行けば解決できる」と言われ、

高校では、
「今は考えるな」と言われ、

大学では、
「それはカリキュラム外だ」と言われる。

問いは、ずっと先送りにされ続けた。

そしてついに、
どこにも行き場がなくなった。


大学という制度は、
自由な探究の場として語られることが多い。

でも実際には、

  • 想定された問い

  • 処理可能な問い

  • 時間内に収まる問い

だけが、歓迎される。

それを超えた問いは、
善意の中で、静かに弾かれる。

僕が研究界隈から距離を取ったのは、
学問が嫌いになったからではない。

問いを問いとして扱う余地が、
あまりにも狭いと感じたからだ。


今でも思う。

問い続ける子どもに、
「大学に行けば大丈夫だ」と言っていいのだろうか。

もし大学が、
カリキュラムの外の問いを抱えきれないのなら、
そのこと自体を、
もっと正直に語る必要があるのではないか。

これは、失望の話であると同時に、
問いがどこで失われていくのか、という記録でもある。

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