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「自分を憎む」という感情は共有できるのか|村上春樹『鏡』を読ませる国語教育を問う

おはようございます。
HSP×アンチ東大主義の、
@おはようございますです。


村上春樹の『鏡』 を読んだとき、
一つの言葉が強く残りました。


鏡に映った自分自身が、
自分を憎んでいる。


そしてその憎しみは、

「誰にも癒すことのできない憎しみ」

である、ということ。


「自分を憎む」ということ


私はこれを読んだとき、


ある疑問を持ちました。


これは高校生に理解できるものなのだろうか。



他人を憎むことは、比較的わかりやすい感情です。


理不尽な扱いを受けたとき、


傷つけられたとき、


怒りや憎しみが向かう対象は外にある。


しかし、


自分を憎む
というのは違う。


それは外に向かう感情ではなく、
自分の内側をえぐるようなものです。


それは「日常」を壊す感情である

自分を憎むという状態は、

  • 精神的に不安定になる

  • 日常生活が揺らぐ

  • 自分の存在そのものが苦しくなる


そういった、かなり極限に近い状態だと私は思います。


それは単なる「自己嫌悪」とは違う。


もっと深く、逃げ場のないものです。


「誰も癒せなかった」という言葉の重さ


さらに印象的なのは、

誰も癒すことができなかった

という部分です。


ここには一つの前提があります。

つまり、

癒そうとする試みがあったはずだ

ということです。


人は苦しみを抱えたとき、

  • 酒に逃げる

  • 誰かに依存する

  • 何かで埋めようとする


そうした行為に向かうことがあります。


しかし、それでもなお癒えなかった。


この一文は、

あらゆる試みが失敗した後に残る絶望

を示しているように感じられます。


「わかる」と言っていいのか


ここで、もう一つの疑問が生まれます。


このような感情に対して、


「わかる、その気持ち」


と簡単に言ってしまってよいのか。


私はそこに、強い違和感を覚えます。


もちろん、この文章を読んでいる方の中には、


実際に自分を憎んだ経験のある方もいるでしょう。


その苦しみは否定されるものではありません。


しかし、軽く共有できるものではない


それでも私は思うのです。


このレベルの感情は、


簡単に共有できるものではないのではないか


と。


「わかる」という言葉は、とても便利です。


でも同時に、


その重さを軽くしてしまう危険もある。


年齢の問題ではなく「深さ」の問題


これは単純に、


高校生だからわからない、
大人だからわかる、


という話ではないと思います。


むしろ問題は、


どこまでその感情に触れたことがあるか


ということです。


最後に


『鏡』に描かれている「自分を憎む」という感情は、


安易に理解したつもりになれるものではない。


そして、


安易に共有してよいものでもない。


それでも人は、


誰かに「わかる」と言ってほしくなる。


その矛盾の中で、
私たちは言葉を使っているのかもしれません。


私はそう思っています。


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おはようございますでした。


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