文学は「型」を学ぶために読むのか、それとも超えるために読むのか――漱石・芥川・中島敦と、現代の小説観をめぐって
皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。
皆さんは、文学についてどう考えていますか。
たとえば学校教育を振り返ると、夏目漱石、芥川龍之介、中島敦――このあたりは、ほぼ例外なく教科書に載っていました。『羅生門』や『山月記』を読まなかった人は、かなり少ないはずです。
小説というものは、まず古典を学ぶべきだ。
作家を目指すなら、先人の名作を手本にすべきだ。
こうした考え方は、長く共有されてきましたし、今でも根強く残っています。実際、『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』というタイトルの本が存在するくらいですから、これは決して的外れな意見ではないのでしょう。
ただ、僕はここに少し引っかかりを覚えます。
というのも、近年よく言われるのが、「漱石的な心理描写は、現代では評価されにくい」という話だからです。
感情をそのまま言葉にするのではなく、行動や状況を通して読者に感じさせる。いわゆる Show, don’t tell という考え方ですね。
「悲しい」と書くのではなく、
悲しんでいると思わせる描写をする。
これは確かに、現代の小説技法として重視されているポイントです。
そう考えると、小説を書くうえで、単に古典に倣えばいいというわけではないことが見えてきます。
古典を読むことは、表現の「型」を知るうえで非常に重要です。文章の呼吸、構成、視点の置き方――学べることは多い。
しかし同時に、いま市場が何を求めているのか、読者がどんな表現に反応しているのか、出版社が何を世に送り出そうとしているのか。そうした現代的な感覚にも、敏感でなければならない。
つまり、
「型を学ぶこと」と
「今という時代を読むこと」は、別の能力だということです。
ここに、おそらく多くの人が言うところの「センス」や「才能」が関わってくるのでしょう。
努力や訓練だけでは埋めきれない、感覚の差。
どこで勝負が行われているのかを嗅ぎ取る力。
文学は、過去の名作をなぞるだけでは成立しない。
かといって、過去を切り捨てればいいわけでもない。
そのあいだで、どこに自分の立ち位置を定めるのか。
そこにこそ、書くという行為の難しさと面白さがあるのだと思います。
