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ゴリラを見落とすということ――読むとは、何を見ることか

皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。

こんな実験(Daniel J. Simons & Christopher F. Chabris (1999))がある。

被験者に、
「バスケットボールのパスが何回行われたか、あとで聞くので数えてください」
と指示する。

被験者は真面目に、パスの回数を数える。

すると、映像の途中で
ゴリラの着ぐるみを着た人が画面を横切る

にもかかわらず、
多くの被験者は「ゴリラがいたこと」に気づかない。

これは有名な「注意の錯覚」の実験だ。

だが、これは単なる心理学の小ネタではない。
読むという行為そのものの寓意になっていると思う。


「本を読め」は、十分条件ではない

小説家志望に対して、よく言われる。

とにかく本を読め

もちろん、読むことは重要だ。
だが、問題はそこではない。

  • どの本を読むのか

  • どういう観点で読むのか

ここが曖昧なままだと、
読むという行為は、簡単に見当はずれな努力になる。


夏目漱石を読むことの危うさ

たとえば、夏目漱石。

心理描写が丁寧で、日本文学の古典としても重要な作家だ。
だが、これはあくまで僕の感覚であり、
また多くの評論者の指摘でもあるが

現在の小説の主流は、漱石的な心理描写とはかなり距離がある。

もし、

  • 心理描写がうまい

  • 内面を丁寧に書いている

という点だけに注目して、
漱石や古典を無批判に読み続けたらどうなるか。

「ここ、心理描写が巧みだな」
「この内省の書き方、真似すればいいんだな」

そういう読みだけが残り、
現代小説が何を価値としているかを見失う可能性がある。

これは、パスの回数ばかり数えて、
背景のゴリラを見落とすのと同じ構造だ。


小説は、どこを切り取るかで全く違う

小説という作品は、豊穣だ。

  • 構成

  • 視点

  • 文体

  • リズム

  • 情報の配置

  • 余白

どこに注意を向けるかで、
全く違う読みが立ち上がる。

私たちは、常に
自分の関心・興味というフィルターを通して読んでいる

だからこそ、

  • 重要な構造を見落とすこともある

  • 今の自分には不要だと思った要素が、実は核心だった、ということも起こる

読むという行為は、
決して中立ではない。


だから「内省的に読む」必要がある

ここで言いたいのは、

  • 乱読すればいい

  • とにかく多読すればいい

という話ではない。

読むという行為そのものを、
もっと内省的に捉えるべきだということだ。

  • 自分は今、何に注目しているのか

  • 何を「当然」として読み飛ばしているのか

  • 逆に、どこに強く反応しているのか

この自己点検がないと、
読書は単なる作業になる。


実践的には、どこを読むべきか

小説家志望にとって、最も実践的なのは何か。

それは、

応募先の出版社の出版物や、掲載作品を読むこと

だと思う。

さらに言えば、

  • 選評

  • 編集者のコメント

  • 評論

が載っていれば、なお良い。

そこには、

どういう観点で読まれているのか
何が評価され、何が落とされるのか

が、かなり露骨に現れている。


「なるほど、こう書けばいい」は後から来る

ここで一つ、注意がある。

「なるほど、こう書けばいいんだ」
という理解は、一冊や二冊では決して得られない

差異は、
一つの作品の内部からは見えない

多くの作品を読み続ける中で、

  • これは似ている

  • ここは違う

  • あ、ここはちょっと変だ

  • この書き方は、なぜか印象に残る

そうした「ノイズ」や「ズレ」が、
自然と立ち上がってくる。

それが、
「あ、これは面白い書き方だな」
という感覚につながる。


ゴリラを見る訓練としての読書

読書とは、
パスの回数を数える訓練ではない。

むしろ、

自分が何を数えさせられているのかに気づく訓練

なのだと思う。

そして、ときどき立ち止まって、

  • 今、自分はゴリラを見落としていないか

  • 見ないようにしているものは何か

と問い直すこと。

それができて初めて、
読むことは「書くこと」に接続される。

本を読むとは、
知識を増やすことではない。

注意の向け方を、書き換えることなのだから。

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