見出し画像

日本兵に親を殺された娘の驚くべき行動


今から85年前──
1941年12月7日(アメリカ時間)、真珠湾が大日本帝国海軍に攻撃されました。
アメリカ国民にとって決して忘れられない日であり、この日を境に太平洋戦争が始まり、日米は悲惨な戦争へと突き進んでいきました。想像をはるかに超える、多くの苦しみと悲劇が生まれました。

しかし、そのような過酷な戦争のただ中でありながら、
**今も人々に希望を呼び覚まし続けている「愛と赦しの物語」**があります。

私は、この物語を一人でも多くの日本人に知ってほしいと、心から願っています。
そして語り継いでいくべき物語だと強く思っています。

この出来事については、さまざまな人がさまざまな角度から記録を残しています。今回、ありがたいことに著者の許可をいただき、その中の一つの記事を日本語に翻訳し、note に投稿させていただくことになりました。

あなたにもぜひ、この驚くべき赦しの力に触れてほしい──
そう願いながら、この物語をご紹介します。

グドール ジェラルド

*********
赦しと愛の流れ。
それは、日本という豊かな国をつくった一因。

赦し(Forgiveness)

ジェラルド・R・チェスター博士
1930年代、アメリカの宣教師であるジェームズ・コベルと妻チャーマは、子どもたち(ペギー、アリス、デイビッド)と共に日本にやって来ました。しかし1940年頃には、戦争の気配が濃くなってきました。安全のため、バプテスト宣教団は宣教師たちをフィリピンへ退避させました。その後、1941年12月にアメリカと日本は開戦し、翌1942年1月には日本軍がフィリピンに侵攻しました。

コベル家や仲間の宣教師たちは山へ逃げ、ある小さな谷間に「ホープベール(希望の谷)」と名付けたキャンプをつくりました。彼らは約2年間、日本軍に見つからずに生活していましたが、ついに日本軍に発見されてしまいました。短波ラジオが見つかったことで、彼らはスパイだと濡れ衣を着せられました。臨時の裁判が形式的に行われ、宣教師たちは有罪とされ、死刑を宣告されました。ジェームズ・コベルは聖書を読み祈るために30分だけ時間を求めました。そしてその後、キャンプにいたすべての人──男性も女性も子どもも──が斬首されました。

コベル家の子どもたちは当時アメリカで学校に通っていたため、その場にはいませんでした。しかし殺害の知らせがアメリカに届き、長女のペギーはその悲劇を聞きました。最初の反応は「怒り」と「赦せない」という思いでした。

しかしペギーの牧師が、この出来事をキリスト教的な物の見方で捉えるよう助けました。その中には当然、「日本人を赦さなければならない」という教えも含まれていました。これは彼女にとって極めて困難なことでしたが、ペギーは神に従おうと決心しました。そして赦すということは、言葉だけでなく、行動で示す必要があると感じました。

彼女の家の近くには、日本兵の捕虜収容所がありました。ペギーは許可を得て、そこで奉仕を始めました。服を繕い、病気のときは看病し、食べ物や毛布を分け与えました。日本兵捕虜たちは驚きました。「なぜ、このアメリカ人女性はこんなに親切なのか?」と。

ペギーは彼らにこう話しました。
「日本の兵士は私の両親を殺しました。でも私は彼らを赦しました。だから、こうしてあなたがたに親切にするのです。」
彼女の赦しの力となった聖書の言葉が、ローマ人への手紙12章19〜21節でした。

「愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。
『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主が言われているからです。
それどころか、『もし敵が飢えているなら、食べさせ、渇いているなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになる』
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

1945年、戦争は日本の敗北で終わりました。武士道の考えでは、「敗北は死より恥」とされていました。戦争を生き残った日本兵や捕虜たちは、強い恥を背負って帰国しました。多くは戦前の仕事に戻りましたが、敗北への怒りや屈辱は深く残っていました。

その中に淵田美津雄(ふちだ・みつお)がいました。真珠湾攻撃の総指揮をとった有名な軍人で、戦争中に少なくとも五度死を免れた人物です。敗戦は、軍人として許されない失敗とされ、彼も深い恥を感じていました。戦後は農業に戻っていました。

やがて連合軍は日本で戦争犯罪の裁判を始めました。淵田は怒りました。「捕虜への残虐行為は両国であったはずだ。なぜ日本だけ裁かれるのか」と。

彼は「アメリカ軍も残虐行為をした」という証拠を探すため、帰国した日本人捕虜に話を聞きに行きました。港で捕虜たちを迎え、知り合いの兵士にも会いました。すると彼が聞いた話は予想外のものでした。

捕虜たちは、ペギーという女性がどれほど親切だったかを語り始めたのです。服を繕い、毛布や食べ物を分け、病気の時は看病し、なぜそんなに優しいのかと尋ねると──
「あなたたちは、私の両親を殺した。でも私は赦しました。」
武士道で育った日本兵には理解できませんでした。武士道の考えでは、「傷つけられたら必ず復讐する」のが当然だからです。

ペギーは「キリスト者は赦し、犠牲をもって愛を示すよう命じられている」と説明しました。

淵田は、この話を聞いて深く衝撃を受けました。「戦争という地獄の中にも、赦しと親切が存在した」ということが信じられなかったのです。そして、「次の戦争に耐えられる世界などない。キリストの愛と赦しこそ正しい生き方だ」と感じました。

その数週間後、淵田は東京で「私は日本の捕虜だった」というタイトルの冊子を手渡されました。著者はジェイコブ・デシャーザーという元アメリカ兵で、日本軍の捕虜でした。そこには、彼がどうやってキリストを信じ、日本人看守を赦し、聖書の教えによって彼と収容所全体が変えられていったかが書かれていました。

淵田は冊子を読み、また「赦し」の例に触れました。そしてペギーとデシャーザーの共通点が「聖書」だと気づき、自分も聖書を手に入れようと考えました。

当時、日本の占領統治者となったマッカーサー元帥は「日本に聖書を送ってほしい」とアメリカに依頼していました。淵田も聖書を手に入れ、読み始めました。そこで出会ったのが、イエスが十字架にかかったときの言葉です。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」
(ルカ23:34)

淵田は悟りました。
「日本にも、世界にも、キリストの愛と赦しが必要だ。」

彼はクリスチャンになり、「戦争でも復讐でもなく、イエスこそ答えだ」と確信しました。淵田とデシャーザーはついに出会い、1950年代には日本各地でイエスの福音を共に伝える働きをしました。多くの日本人がキリストを信じるようになりました。

この物語は、「憐れみ(慈しみ)、へりくだり、真理」の力を示しています。ルカ6章27〜49節で、イエスは「圧政の中でも真理に従って生きる方法」を教えています。

また、ルカ6章26節の警告──
「すべての人があなたをほめるとき、あなたは災いだ。」
という言葉は、
「真理を大切にしない人々の称賛を求めてはならない」
という意味です。むしろ、権力者から拒絶されても、憐れみとへりくだり、真理をもって生きるようにという教えです。

ペギー・コベルも、淵田美津雄も、深い悲しみの中で「赦し」という聖書の真理を受け入れました。赦すにはへりくだりが必要であり、それが憐れみの行動を生み出します。ペギーは日本人捕虜に憐れみを示し、淵田は占領軍であるアメリカ人に対して憐れみを示しました。このような赦しと愛の流れは、現在の日本という豊かな国をつくる一因となりました。

私たちは、人が人を赦すためには「憐れみ、へりくだり、真理」の力が必要だと学ばなければなりません。しかしそれを可能にする本当の力は、神から与えられたものであることを忘れてはなりません。

神の御子イエス・キリストこそ、神の計画の中心です。イエスは人となり、生き、死に、復活し、私たちに神の赦しを与えてくださいました。

今月、私たちはイエスのご降誕を祝い、永遠のいのちの贈り物を覚えます。

どうか私たちがいつも、「憐れみを示し、へりくだり、真理を歩む」恵みをいただけますように。

そしてこの季節が、「赦しを示し、私たちを生かす力を与えてくださる神の御子イエスのご降誕を祝う時」であることを、心から感謝して覚えることができますように。


いいなと思ったら応援しよう!