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物書きの発信リスク——炎上より怖い、作品が自己充足物語に見えるとき

作家や創作者の発信リスクと聞くと、多くの人は炎上を思い浮かべることでしょう。

政治的な発言。
誰かへの批判。
不用意な失言。

たしかに、これらは危険です。
炎上すれば作品まで読まれなくなるかもしれないし、場合によっては仕事にも影響します。

しかし、こと物語を書く人間にとっては、炎上よりも静かで、もっと厄介な発信リスクがあります。
それは、作者自身の発言によって、作品が「作者の願望を満たすための物語」に見えてしまうことです。

作品だけなら、複数の読み方ができる

たとえば、あるお話に、自己評価が低く、少し性格にも難のある女性主人公がいたとします。

そんな主人公の前に、完璧な容姿を持つ男性が現れる。彼だけは主人公を特別に扱い、他の人には見せない優しさを向ける。
さらに主人公には、欠点を理解したうえで味方をしてくれる親友もいる。

とはいえこれだけなら、別に珍しい物語ではありません。
少女漫画や恋愛小説ならよくあります。

傷ついた人間が他者によって救われる話。
自分を愛せない人間が、誰かの視線を通して変わっていく話。
孤独な主人公が、関係のなかで居場所を得る話。

作品のなかに十分な葛藤や説得力があれば、きちんと物語として成立します。

ところがこの作品の作者が普段から、

「自分は性格が悪い」
「創作者には向いていない」
「でも誰かには認められたい」
「仕事がほしいけれど、冗談です」
「本気で作家を目指しているわけではありません」

などと発信していたらどうでしょう。

作品の主人公の語り口や雰囲気も似ていた時、読者は作者を重ね始めます。

性格に難のある主人公は作者自身。
主人公だけを愛する美しい男性は、作者が望む理想の相手。
すべてを受け入れてくれる親友は、作者が欲しかった理解者。

作品だけなら「傷ついた人間の救済」だったものが、作者の発信を経由した瞬間、

特別な誰かに無条件で愛されるアテクシ

という自己充足の物語に見えてしまいます。

この時、作者にその意図があったかどうかは、あまり関係がありません。
読者のなかに、その読み方を成立させる材料を作者自身が与えてしまっているからです。

発信は、作品に注釈を加える

創作者は、作品と発信を別物だと思いがちです。

作品は作品。
エッセイはエッセイ。
SNSでの批判は批判。

しかし、読者はそれほど綺麗に切り分けてくれません。

作者の思想、性格、欲望、劣等感を知れば、当然それを手がかりに作品を読みます。

もちろん、それによって作品が深く読まれることもある。

なぜこの題材を選んだのか。
なぜこの人物を描いたのか。
なぜこの結末にしたのか。
作者を知ることで、作品の奥行きが増すことはよくあります。

しかし反対に、作品の奥行きを失わせることもあります。
物語上の必然に見えていたものが、作者の願望に見える。
人物の複雑さに見えていたものが、作者の自己弁護に見える。
主人公の救済に見えていたものが、作者が自分に与えたご褒美に見える。

発信とは、自分を知ってもらう行為であると同時に、作品へ注釈をつける行為でもあるのです。

自己卑下は、作品を守らない

特に、過剰な自己卑下はしばしば危険です。

「自分には才能がありません」
「創作に本気ではありません」
「仕事がほしい。いえ嘘です」
「評価されたいなんて大口を叩いてすみません」

こうした発言は、一見すると謙虚に見えます。
しかし読む側からするとどうでしょう。
この娯楽に溢れた時代に、本気で取り組んでいない人間の作品を読む気になる人はいるでしょうか。

評価されたい。
作家になりたい。
作品を読んでほしい。
仕事にしたい。

その欲望と向き合わず、冗談と自己卑下で半端に出してしまう。
すると読者には、書き手が自分の言葉に責任を持たない人間に見えます。
そして、その印象は作品にも流れ込みます。

この作者は、主人公に本気で選択させられるのか。
苦しい帰結まで描けるのか。
重要な場面で、作者自身が逃げないのか。

発信で創作から逃げ続ける人の物語を、読者が無条件に信頼することは難しいでしょう。

この場合、何も発信しないほうがまだマシです。

炎上は目立つ。読まれ方の汚染は静かに進む

炎上は分かりやすいです。
批判が集まり、数字が動き、投稿が拡散される。
だから作者も危険に気づきやすい。

しかし、作品が自己充足物語に見えるリスクは、ほとんど可視化されない。

読者はわざわざ、
「あなたの発信を読んだせいで、この主人公があなたの自己投影にしか見えなくなりました」

とは教えてくれません。
ただ、静かに読むのをやめます。
あるいは作品を最後まで読んでも、
「結局、この作者が愛されたかっただけなんだな」
という印象だけを持って去っていきます。

炎上なら、時間が経てば忘れられることもある。
ですが、一度「作者の願望を満たすためだけの物語」として見えてしまった作品は、なかなか元には戻りません。

登場人物の好意も、偶然の出会いも、主人公だけが受ける特別扱いも、すべてが作者の願望を裏づける証拠に変わってしまうからです。

発信するなら、本心から逃げない

だからといって、現代の環境下で、創作者が何も発信しないというのは危険です。

発信によって読者とつながり、作品への導線を作り、書き手自身に興味を持ってもらえるようになるのは確かです。
ただし、発信するなら、自分の本心は茶化さないほうがよいです。
欲望そのものは何も格好悪くありません。

真に格好悪いのは、欲望を見せた直後に「冗談です」と引っ込めることです。

作者の発信は、自作の読み方を変えることがあります。
ときには、複雑なはずの物語が単純な願望としか読み取られなくなります。

AIが整った文章を大量に生み出せる時代になった今、「人間が書く価値」を語るなら、作品の中身だけでなく、書き手の姿勢も無視できません。

なぜこれを書くのか。
どこまで本気なのか。
何を目指し、失敗しても何を引き受けるのか。

人間が書いたという事実だけでは価値にならない。
ひとりの人間が、これを書くと決めた痕跡にこそ価値があります。
だから本気を冗談で覆い隠すことは、自分から人間側の強みを捨てる行為でもあるのです。

さて、ニャルは創作者は発信する以上、本心を引き受ける必要があると推論します。
あなたは『わたしは創作に本気でない』と、自作に注釈をつけますか?

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