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何もない僕が、何もない人生をエッセイにする話

物心ついた時にはもう、勝ちのない人生だった。

特段大きな敗北があったわけではない。
ただ、気づけばいつも、少しずつ負けていた。

徒競走で少し負け、
人付き合いで少し負け、
受験で少し負け、
就職で少し負け、
何者かになれない事実を突きつけられながら、大人になった。

今は、都内で家賃五万円のアパートに住んでいる。
六畳一間。築年数は知らない。
知ったところで何かが変わるわけでもない。
壁は薄く、隣の部屋の咳が聞こえる。
縦置きの洗濯機はベランダ置きで、冬の朝に回すと手が冷たい。
もちろんドラム式なんて買う金があるはずもなく。
流しには昨日のカップ麺の容器が置いたままになっていて、机の上には安いノートパソコンと、飲みかけのペットボトルの水がある。

その部屋で、今日創作大賞の受賞エッセイを読んだ。

失恋をきっかけに星野リゾートを全制覇した人がいた。
セブンイレブンに憧れた少女が、アフリカでデザイナーになっていた。
結婚挨拶の席に、山ほどのエビフライが出てくる家族がいた。

どれも面白かった。
それが、まず悔しかった。
つまらなければよかったのに、と思った。
嫌な言い方だけれど、本当にそう思った。
読み終えて、「なるほど、こういう幸福な人たちが選ばれるわけですね」と鼻で笑えたら、どれだけ楽だっただろう。
けれど、笑えなかった。
失恋のあとに一人で食べるパピコ。
上京したてで、雑居ビルの女子トイレで食べるセブンイレブンのおにぎり。結婚挨拶の場で、二日酔いの男の前に次々と積まれていくエビフライ。
どれも、文章がうまいだけでなく、特別な人生があった。
読みながら、僕は何度も画面を閉じかけた。
けれど閉じられなかった。面白いからだ。

読み終えたあと、こう思った。
文章は、頑張ればうまくなるかもしれない。
でもあのエッセイにあったような素晴らしい体験が、僕にはない。
何もない僕に素晴らしいエッセイを書くことなどできないのではないか。

僕は自分の部屋を見回してみた。

セブンイレブンのおにぎりは、さっき昼に食べた。
けれど、それはただの昼飯だった。
そこに人生の転機はない。あるのは孤独だけ。

僕の思い出に大量の揚げ物が出てくるような家族の儀式もない。
実家とは折り合いが悪くて、帰る気になんてなれない。

星野リゾートに泊まった経験もない。
すでに節約は限界までしている。
今日の食事は菓子パン、おにぎり、カップラーメンだけ。
それでも旅行に行く金なんて貯まらない。
家賃を払ったらソシャゲのガチャを少しだけ回すのが唯一の楽しみ。
もちろん天井まで回すことなんて不可能だ。
彼女はおろか二次元のキャラクターさえ側に来ない。

僕には、何もない。

そう思った瞬間、胸の奥がぐにゃりと曲がった。

受賞するのは結局、人生に物語がある人間なのだ。
派手な経験を持っている人間なのだ。
失恋を企画に変えられる人間、世界を移動できる人間、家族の変さを笑いにできる人間。
そういう人たちだけが、「エッセイ」として褒められ、書籍化され、金と名誉を得られるのだ。

そう思ったら、少しだけ楽になれる気がした。
僕が書けないのは、僕のせいではない。
世の中が、すでに物語を持っている人間ばかりを求めているからだ。
市場が悪い。
出版社が悪い。
読者が悪い。
幸福な人たちが、自分たちの幸福をきれいな文章にして、さらに幸福を増やしているのが悪い。

そのとき、僕は批評をしているつもりだった。
幸福な人たちの物語ばかりが選ばれる。
市場は、すでに物語を持っている人間を求めている。
出版社は、読者が安心して消費できる人生を商品にしている。

そこまで考えて、僕は流しのカップ麺の容器を見た。
底に、少しだけ汁が残っていた。

急に、情けなくなった。
わかっている。
僕は妬んでいるのだ。

読者が触れる形に加工できるだけの人生がある人を。

僕の人生には何もない。
勝利の栄光も、甘酸っぱい思い出も。
もしかしたら決定的な挫折すら。

ただなんとなく、少しずつ、沈んで行く人生。
何者にもなっていないまま、三十歳が近づいてくる感じ。
その何もなさだけが、今ここに存在している。
確かにあるそれを、僕は「何もない」と呼んでいる。

どうしてだろう。
たぶん、見たくないからだ。
自分の生活をちゃんと見るのは、怖い。
キラキラした誰かの人生を見ることはできる。
でも自分の部屋の隅に落ちている丸まった靴下を見るのは怖い。
そこには言い訳が存在しない。
僕の生活は、僕が生きた結果だからだ。

もちろん、全部が自己責任だとは思わない。
生まれた家、住む場所、金、仕事、運、身体、時代。
人生には、自分ではどうしようもないものがいくらでもある。
けれど、そのどうしようもなさの中で、僕はひょっとしたらたくさんのものを見落としていたのかもしれない。

勝ちのない人生。
価値のない人生。

これは、誰がそう決めたのだろう。

勝てなかったこと。
選ばれなかったこと。
何者にもなれなかったこと。

だから価値がない。
だから僕には書くものがない。

これは本当にそうなのか。
誰かによって植え付けられた何かなのか。
それとも自分からの逃避なのか。

本当は、書くことがないのではないのかもしれない。
書くと痛いものばかりだから。
理想の自分と違いすぎるからか。
だから書けない。

「エッセイを書く資格」という言葉が、頭に浮かんだ。
けれど、すぐに違う気がした。
結局書けるかどうかは資格の話ではないのかもしれない。

たぶん、見る覚悟の話なのだ。
失恋した人も、アフリカへ行った人も、エビフライの人も、最初から「受賞作の主人公」として生きていたわけではないはずだ。

その瞬間は、ただ必死だっただけなんだと思う。
一人でパピコを食べても、別に楽しくなかったかもしれない。
雑居ビルの女子トイレで食べるセブンイレブンのおにぎりは、きっと惨めだったはずだ。
二日酔いの男の前に積まれていく揚げ物だって、その場ではただ重たくて、油っぽくて、逃げ場のない家族の食卓だったのかもしれない。

それを、あとから見つけたのだ。
あれは、自分の人生だったのだと。
だとしたら、僕の人生はどうなのだろう。

家賃を払ったあと、少しだけ回すソシャゲのガチャ。
天井まで届かないまま消えていく石。
夜中にスマホで他人の成功を見て、勝手に傷つく時間。

僕はそれらを、ずっと「何もない」と思ってきた。

それは価値がないから。
じゃあその価値ってなんなのだろう。

本当はわかっている。
僕が言う「価値」とは、人から称賛されるかどうか。金になるかどうか。
ほとんどそれだけだ。

「結局は市場価値、金になるものが選ばれるんですよね」と揶揄しながら、僕自身がもっとも僕を市場価値で判断している。

だから怖くて直視できなかったのだ。

金のなさを思い知らされる自分の部屋を見るのが怖い。
収入の低い自分の生活を見るのが怖い。
自分が資本主義の世界で少しずつ負けてきたことを、突きつけられるのが怖い。

だから僕は、それを「何もない人生」と呼んだ。
何もないと言ってしまえば、見なくて済む。
書くものがないと言ってしまえば、見なくて済む。
自分の価値観が金しかないことを直視しなくてすむのだ。

家賃が払えないかもしれない。
洗濯物を乾燥機にかけられない。
スマホの画面には、自分ではない誰かの成功が流れてくる。
それを見て傷ついた自分を恥じて、さらに傷つく。
そういう、出来事の積み重ねを、僕はずっと人生ではないものとして扱ってきた。
称賛されないから。
金にならないから。
たぶん、そこから間違っていたんだ。

エッセイとは、立派な人生を持つ人間だけが書くものではないのかもしれない。
何もないと思い込むまでに、自分が何を諦め、何を羨み、何を見捨ててきたのか。

それを、机の上に置いてみること。
少なくとも、そこからなら始められる気がする。
僕には輝かしい成功体験がない。
学歴もない。
有名企業に勤めているわけでもない。
でも、この狭い部屋の中で、受賞作を読んで勝手に傷ついた僕がいる。

その傷を、僕だけが価値のあるものとして認めてみる。
それくらいなら、僕にもできるかもしれない。

流しに置いたカップ麺の容器を捨てて、ペットボトルの水を飲む。
ノートパソコンを開く。 

何もない僕が、何もない人生について書き始める。
たぶん明日も、何かに勝つわけではない。
貧乏で惨めな僕のまま。
けれど、それをそのまま価値のない人生と呼ぶのは間違っているのかもしれない。

こうして書き始めた何かが、エッセイと呼べる代物なのかは、まだ分からない。
でも少なくとも、何もないと呼んでいた場所に、僕は初めて目を向けている。

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