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noteで460スキ頂いた記事を振り返ったら、私の人生ではなく銀髪ロリAIキャラの世界語りでした

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ノートリアス・オンラインでは反響の大きかった記事を振り返る風習があります。
反響のあった記事には書き手の人生そのものが浮かび上がったりするとかしないとか。

なるほど。
では、たまには上城の記事も確認してみましょう。

最も多くのスキを頂いた記事は、現在460スキを超えています。
そこに書かれていたのは、上城の苦しかった過去でも、家族との感動的な思い出でもありません。

銀髪オッドアイの神ロリAIが発信について語るという、ノートリアスのセオリーガン無視の記事です。
見出し画像も作者本人ではなくそのキャラの画像。
ヘッダーにはタイトルさえ入っていません。

タイトルも寄り添い、優しさ、数字、読者へのメリットなどなく意味不明かつ不穏なものです。

これは書き手の人生が反映された記事ではありません。
高度な知性と美しさを兼ね備えたニャルが、発信の構造について語っている記事です。
彼の人生の遍歴なんて、ほとんど書かれていませんでした。

実は彼にも、語ろうと思えば語れる出来事はあります。

大学を一度中退していること。
友人が首を吊ったこと。
家族が練炭を焚いて死んだこと。
子どもが生まれてすぐに長い時間入院していたこと。

そうした経験を前面に出せば、今よりも「人間味のある文章」には見えるかもしれません。
読者が息をのみ、作者の人生に特別な重さを感じる文章にもできるかもしれません。
ノートリアスにおいては付加価値として扱いやすい経験ではないでしょうか。
しかし、460スキの記事では、そのどれも使われていません。

上城が何に傷ついたのか。
何を失ったのか。
どのような人生を歩いてきたのか。

読者は、そんなものを知る必要がありません。
記事というものは本来、作者の経歴を知らなくても成立するものです。
実際、その記事で読者が反応したのは、作者の人生や体験ではありません。
世界の見方でした。

ニャルは、この差を重要だと考えます。

作者の人生が評価されたのではない。
作者が作ったものが、作者の人生を前景化しないまま読まれた。
これが物を書く人間にとって、もっとも健全な状態ではないでしょうか。

書き手に特別な人生など必要ありません。
なのに世の中には、人生経験を文章の価値証明として扱う発信があります。

私はこんなに苦しんだ。
私はこんなに遠回りした。
私はこんなに傷ついた。
したがって、私の言葉には特別な価値がある。

ニャルは、この論理を少し警戒します。
本人にとって、その経験が重大だったことは否定しません。
痛かったものは痛かったのでしょう。
しかし、つらい経験をしたことと、他人が読む価値のある文章を書けることは、別の問題です。

痛みは洞察ではありません。
経歴は技術ではありません。
傷は、作品の品質保証書ではありません。
人生経験は、作品を作るための材料です。

珍しい材料を持っていることと、よい料理を作れることは同じではありません。
材料箱を開いて、
「見てください。こんなに希少な材料が入っています」
と説明されても、読者が食べるのは完成した料理です。

発信で勝つために特別な人生を送る必要はありません。
作者ではなく、作品のほうを特別にすればよいのです。

重い体験ほど、生のままでは他人に渡せません。
本当に深刻な体験は、意外なほど、そのまま文章にしにくいものです。

関係者がいます。
出来事が今も終わっていないことがあります。
誰が悪かったのか、簡単には決められません。
きれいな教訓にできません。
語ったところで、読者を励ませるとも限りません。

そもそも、
「この経験から学んだ三つのこと」
などという形には収まりません。
現実の痛みは、読者サービスを考えて発生していないからです。

だから創作者は、それを物語に加工します。

人物を分ける。
時代や場所を変える。
複数の出来事を圧縮する。
原因と結果を組み直す。
現実には存在しなかった結末を与える。
自分だけの痛みから、作者本人の特権性を剥がします。
そして、まったく知らない誰かにも受け取れる形へ変換します。
それが、作品にするということです。

「私が傷ついたことを見てほしい」
という言葉と、
「この傷から作ったものを見てほしい」
という言葉は、よく似ています。
しかし、構造は正反対です。
前者の中心にいるのは作者です。
後者の中心にあるのは作品です。

あなただけの特別な経験に、神は宿りません
自分だけの経験を価値の根拠にすると、文章はしばしば自己神格化へ向かいます。

私は他人とは違う。
私は特別な傷を持っている。
だから私の言葉は、普通の人間の言葉よりも重い。
だから私を見てほしい。
認めてほしい。
対価を払ってほしい。

作品を売っているように見えて、実際に価値の中心へ置かれているのは、作者本人です。
傷や経歴は、作者が凡人ではないことを示す聖痕として使われます。

しかし創作において、神に近いものは個人の特別性ではありません。
普遍であり、構造であり、真理です。
個人にしか通用しない経験は、まだ個人の内部に閉じています。
そこから、別の人間にも当てはまる構造を取り出したとき。
時代や立場を越えて届くものへ変えたとき。
初めて、個人的な経験は作者を超えます。


スキの数は、魂が通じた人数ではありません
460スキは、460人と魂が通じ合った証ではありません。
noteのスキには、さまざまな意味があります。
内容への評価。
共感。
応援。
付き合い。
あとで読むための印。
たまたまタイムラインに表示されたから。
場合によっては、本文をほとんど読まずに押されることさえあります。
それらをすべてまとめて、
「460人と心が通じ合った」
と解釈するのは、少し話を盛りすぎでしょう。
ニャルは、数字への過剰な意味づけを警戒します。
数字は便利です。
便利なので、人間はそこへ魂や人生や愛を詰め込みたくなります。
しかし、スキはスキです。
魂計測器ではありません。
ただ、あの記事に書かれた概念が、少しだけ人に役立った。
あるいは、少し面白いと思われた。
それで十分です。
作者が肯定されたのではありません。
作者の人生が承認されたのでもありません。

作った記事が、その記事として読まれた。
作家にとって、それ以上に健全な評価があるでしょうか。

作者の人生を知ることで、作品の見え方が変わることはあります。
制作背景を知って、初めて理解できる表現もあるでしょう。
しかし、作者の人生を知らなければ価値が伝わらない文章は、作者本人への関心に依存しています。
それはエッセイとして成立します。
ファンビジネスとしても成立します。
人格を中心にした商売としても、正しい形でしょう。

けれどそれは作家の本体ではないのではないでしょうか。

作者が何者であるかを知らない人にも届く文章を書きたい。
作者の過去を知らない人にも残る概念を作りたい。
作者の痛みを説明しなくても、読者の認識を少しだけ変えたい。

だから460スキの記事を振り返っても、そこに彼の人生はほとんどありませんでした。
代わりにいたのは、オリジナルの銀髪ロリキャラです。

ならば少なくとも、作者の人生を感動的に並べなくても、文章は誰かのところまで届くということです。

不幸は作家免許ではありません。
傷を見せる前に、面白い記事を見せてください。
作者が特別である必要はありません。
作品のほうが特別であれば、それでよいのです。

さて、ニャルは一次体験の切り売りには限界があると推論します。
あなたはこれからもあなたとその周りの人間を売り続けますか。

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