ウォーキングする音楽 -一休さんに導かれてジョン・ケージの「静けさ」を聴く-
心とはなんでしょうか?
すでに忘れてしまった絵のなかの
松の木、そよ風、声
(心とはいかなるものを言ふならん 墨絵に書きし松風の音 一休宗純)
凸凹道や坂道を歩くと「音楽だ」と思うことがある。
歩行には一定のリズムがある。リズムは道の傾斜や凹凸によって速度を変える。すると、歩き方にバリエーション(変奏曲)が奏でられ始める。
が、その元を辿ると体なのだ。ひと息、ひと息の呼吸が、心臓の鼓動が、血液の循環がリズムを作り出している。
「音楽」は、この体の内側に様々なバリエーションを生み出すものなのだ。
お腹が空いて腹が鳴る。
不意に咳が出る。
それもバリエーションを作る要素になる。
まるでジョン・ケージの音楽だな、と思う。
今回は、冒頭に引用した一休禅師の和歌(道歌)に導かれて、ウォーキングしながら瞑想すること(修験道でいう「歩行禅」)について落書きしてみる。
(※見出し画像は、ジョン・ケージの楽譜をふと思い起こさせた、雨上がりに撮った水たまりの写真。)
◆
意識のフラットな世界は、起きている最中しつこくまとわりついている。
(バウハウスのアドルフ・マイヤー著『バウハウスの実験住宅』を読むと、この平坦な意識の時空が、規格化された四角張った近代建築の環境を受け入れた所産であることがわかる、私たちの意識も大量生産された規格品だということも。)
確かに、意識を変形すること(変性意識を作る)は、有史以前からあった。
太古の昔からフラットな世界のマイナス面から脱しようとする人たちはいた。クスリを用いたり性的な儀式によって一気に垂直空間へ飛翔しようとした人たちだけではない。静かに座って瞑想に耽る人たちも出てくる。
その中に、山谷を歩き回ってフラットな意識を変形する人たちもいた。
「歩くこと」は、体を通して野放図な意識に圧を加える、ちょっとしたエクササイズになる。それを「音楽」だとイメージすれば、持続するためのモチベーションになるかもしれない。
「歩くこと」を「音楽」をイメージすると、演者があちこち置かれた楽器を歩きながら音を鳴らすジョン・ケージ「Water Walk」を思い出す。
◆
様々なデバイスで聴く音楽のジャンルは、ある時期からメロディーや歌詞のある音楽を遠ざけ、現代音楽や民族音楽へと向かって行った。移動の際のデバイスもウォークマンからiPodを経て、スマホアプリに変わる。スマートイヤホンも試した。
が、あるきっかけでイヤホンを外すようになった。
ジョン・ケージのPiano Worksを聴きながら、街を歩いていた。
「Seven Haiku」から「Winter Music」あたりを聴いていたところまでは覚えている。
ふと何かに気を取られたのだろう。
曲が全て終わっているのに気づかなかった。
ようやく気づいて、イヤホンを外す。
すると、街の音がまだ曲の続きのように耳に馴染んでいることに驚いた。
街の音が騒音やノイズではなく、音楽になっていた。
「音楽」という言葉の意味が、そのとき変わった。それからは、イヤホンをしなくなった。
◆
ジョン・ケージの音楽が、音符で表される組み合わせ以外の「音」を含むことは、有名な「4分33秒」(1952)を「聴く」とわかる。
一般的な「音」の意味からすれば、この曲が「聴けなかった」時に初めて実感できるのである。
コンサートホールの舞台にピアノが一台と椅子がある。ピアニストが舞台の裾から出てきて、椅子に座り、鍵盤のフタを開け、閉めるのを2、3回繰り返す。4分33秒座ったまま不動の姿勢を保ったピアニストは、時間が来ると舞台の裾に歩いて戻る。
単なるパフォーマンスとしか見えない作品だ。メロディのパターンを思って聴こうとしていると、この曲は「無音」にしか「聴こえない」。
◆
ジョン・ケージはこの「聴こえない」静寂をそのまま「サイレンス」と呼ぶ。
この前衛音楽家は、「4分33秒」を思いつくきっかけとなった実験をしている。音のない世界を体験するために無響室に入って、自分の体内の音に気づく。
私は数年前、ハーヴァード大学の無響室に入って、一つは高く、もう一つは低い、二つの音を聴いた。そのことを担当のエンジニアに言うと、高い方は私の神経系統が働いている音で、低い方は血液が循環している音だ、と教えてくれた。私が死ぬまで音は鳴っている。そして、死んでからも音は鳴り続けるだろう。
体内の音から自然全体の微細な音にこの考えを拡大したケージは、絶対的な沈黙や無音状態はないと考えたのだろう。
「サイレンス」は静寂だが、そこに「音がない」ことはない。「静寂」は無音ではなく、「意図されない音」(体内音)に満ちているとケージは考える。
私がこういうことを言うのは、人間が置かれている状況があきらかに客観的(音-沈黙)ではなく、むしろ主観的(音のみ)であり、意図されたものとその他の意図されないもの(いわゆる沈黙)とがあるからなのだ。このことが分かるのは、1951年のテクノロジーで可能なかぎり静かな無響室に入り、自分自身が意図せずに出している2つの音(神経系統の作用、血液の循環)を発見する時である。
「意図と非意図を区別しない」と音楽が宣言すればどうなる?と思うとおもしろそうだ。
イヤホンを外した時、私はそんな「音楽」が「聴こえた」のだろう。
◆
この音楽家は、「音」と「無音」に関する一件矛盾したような考えを、禅者の鈴木大拙に教わったという。
コロンビア大学で大拙の禅のレクチャーをケージは3年間聴講したという。ケージはその様子を、「クエーカー教徒の集会でも経験できないような美しい静けさ」と評したという(ケネス・シルヴァーマン『ジョン・ケージ伝』より)。
大拙のレクチャーする教室はとても静かだった。ニューヨークの空港を発着する飛行機の音が聞こえた。(1950年前後なら、ラガーディア空港を発着するプロペラ音だろうか。)
なにより、大拙その人が講義中に10分近く沈黙することもあった。そんな「美しい静けさ」の探求が、音楽家の実験を促したのかもしれない。
これまでの音楽は「音」と「無音」を、「音がある/音がない」の否定関係で捉えていた。ケージは「音」と「無音」を、「意図された音/意図されない音」でできたひと組のものと捉える。
つまり、どちらか一つでも欠けてはいけないユニット(単位)だ。例えば、ビット単位(0/1)のように。
ケージは情報として「音」/「無音」ユニットを捉えたのだろう。
おもしろいのは、そんな考え方が禅に触発されているということだ。
◆
この考えの姿勢は生態心理学者J・J・ギブソンが提唱したアフォーダンスのコップの話を思い起こさせる。自己と対象という区別は曖昧ゆえに、両者をユニットとみなすという基本設計が見られるからだ。
ケージとギブソンの姿勢には、自己と対象の間には身体を置いて、その運動や力に注目するという共通点もある。
(ちなみに冒頭の一休の和歌は、ギブソンの生態心理学を社会学に導入したルーベン・M・バロンとアラカワ+ギンズの往復書簡の中に出てくる。)
ギブソンの説では、誰かと話しながらコップを取ろうとする手は、すでにコップの形がアフォードされている(与えられている)。
アフォードされて手のひらの形になるまで、人は無意識のうちに身体は試行錯誤している。それは言葉にならない。
人と話す時にも、そんな試行錯誤が行為の端々に見えるという。
マイクロスリップという現象がある。
タバコを吸う人ならライターをつけずにカチカチしたり、コーヒーを飲む時、コーヒーカップの取っ手に触れるだけで飲まない時は、相手との関係を測ろうとする試行錯誤の最中なのだという。
ライターを手に取るのはタバコを吸うため、コーヒーカップに触れるのはコーヒーを飲むため、という目的に従っているのではない。
人間の行為は、変化する他者や環境との関係に結びついていることを示す場面もあるというのだ。意識は、そんな試行錯誤の場面を忘れて、安定した時点から記憶してしまうようだ。
このセットアップ過程の記憶は、世界の捉え方をガラリと変えるキッカケを含んでいるように思う。
安定して存在していると考えられるまでのちょっとしたタイムラグは、世界が「存在」していると思い込む意識の安定志向を揺るがそうとしているからである。
◆
引越しして新しい部屋で環境と対話しながら試行錯誤する場面を考えてみる。
引っ越しして数日は以前の部屋の記憶で動いて、小さな齟齬があちこちで起こる。夜、目覚めて部屋灯のスイッチの場所に戸惑ったり、ドアノブの回し方が違ったり、段差に気づかなかったり、となかなかスムースにいかない。
おそらく人は、目の前に実在するモノを知覚して行動しているのではない。以前の環境との関係を新しい環境に持ち込んで判断しているのだ。
認知科学者のアンディ・クラークは、私たちが「ある」(存在する)と思い込んでいる世界は「解釈」された結果なのだ、と言う。<脳-身体-環境>のネットワークとして捉えたクラークは、環境とは脳の処理の負担を減らすためにすでに「構造化」されたものだと主張する。
私たちの日常に広がる「世界」は、脳が情報処理の負担を減らして、安定化した後の世界なのだ。
身体と一体化した環境は、身体の動くたびに不安定要素を生み出している。一方、脳はそんな不安定要素を身体の動きを安定化させて減らそうとする。
それが、引越しして環境が変わると安定性が崩れ、再びそれを取り戻そうとして部屋灯のスイッチの位置の指先の試行錯誤や軌道修正として現れるのだろう。
脳の処理コストを減らすという考えのベースはアンディー・クラークの言語観にある。
言語を他者との知の共有ツールと捉える彼は、他者との関係を安定させるために言語はロバスト性(強健さ)が求められるという。
クラークによれば、言語は話者自身の身体と環境との関係、つまりは主観的な感覚や感情より、共有可能な意味情報の伝達を優先する傾向があるという。
ハイ・コンテクストの日常言語を交わすフィジカルスペースより、ロー・コンテクストの形式言語が作るサイバースペースに時間を費やす現代にふさわしい言語観だろう。
逆にいうと、この傾向は手のひらがカップの形になっていく環境との関係の不安定さを切り捨てる。すると、安定した世界という「解釈」を実在と見なして、ちょっとした不安定さに不寛容になるギスギスした関係を作り出す。
環境と身体の関係での「解釈」の試行錯誤から「存在」が「現れる」というクラークの考えは、身体と環境の関係を「心」と捉えることで、脳=心という伝統的な西洋の心身二元論に異を唱える。
クラークの「環境」に関する考えは、脳であれ心臓であれ、見えないはずの心が身体の内部にあると信じ込んできた人間の常識の基盤を揺るがすきっかけを与えてくれるように思える。
◆
ここでちょっと昔々の、ある短いエピソードを挟んでみる。
3人の男が、ある人物に会うために旅をしていた。
道すがら、1人の男が地面に円を描いた。
円を指して、他の2人に「何か言ってみろ」と促す。
1人が円の中に座った。
もう1人が座った男に向かって、腰をかがめて拝んだ。
円を描いた男は、2人を見て言った。
「会いに行くのはやめにしよう」
座っていた男は、「どうして?」と言った。
ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男』のようなユーモラスな紀行小説風に翻案すると、円を描いた男の気まぐれで旅を途中放棄したんだろう、と解釈したくなる。
が、この話は「因縁にとらわれない」自由を表した話なのだ。
『碧巌録』という禅語録の第69則にある。
3人の男というのは、禅の開祖馬祖道一の兄弟弟子である南泉、帰宗、麻谷であり、旅の目的は光宅寺に慧忠国師を訪問することである。
兄弟子である南泉が、道に円相を描くと、帰宗がその中に座って、麻谷がその姿を拝んだ。
すると、「国師のところに行くのはやめよう」と南泉が言い、座っていた帰宗が「どういうことですか?」と問う。
これで終わりだ。
こんな短いエピソードでも、素人目におもしろいと思う点がある。
・「言え」という南泉の問いに対して、帰宗も麻谷も行いで応えていること。
・その行いが、円相の中に座ることと、それに対して礼拝することであること。
・そこから、「行くのはやめよう」という南泉の判断が出てくること。
この3点だ。
問いを拒否したり、行為で示すというパターンは、禅の考案を読むとよく見かける。
一見、問いを拒否したりはぐらかしたりしているようだが、言葉にできないことを問われれば、答えは自然に言葉でないものになる。洒脱なユーモアの中に、問う側と応じる側の真剣勝負の緊張が伝わってくる。
問題は、その次の2点のつながりにある。
1人が地面に円相を描き、2人目が描かれた円相の中に座ると、3人目が礼拝するという一連の行為から、どうやって訪問をやめる判断が出てくるのか、という点だ。
どうも禅画によく出てくる「円相」がポイントのようだ。
◆
そこで、「円相」に関する哲学者井筒俊彦の見解を重ねてみる。この哲学者は、マンダラをテーマとするエラノス会議と言う国際的な会議で講演し、禅の円相に言及している。
中心がまったく欠如した円を示すために、禅者はよく(特に絵画や詩文で)円の中心を幾何学的に正しい位置からずらし、いびつなところに置きます。こうしてたとえば、点が円の中心として占めるべき位置から幾分ずれた妙な場所に置かれるのです。このように脱中心化された点は、万物が欠如していることを強調する役割を果たしており、それがあることで、その周りを取り囲む空虚、すなわち否定的に充溢した空間があることを人に気づかせるのです。この点は、全てのものがそこから流れ戻ってくるような原点を示すわけではありません。
確かに、『碧眼録』で南泉が描いた円は、幾何学的なきっちりした円じゃないというイメージはあった。禅画にあるちょっと「いびつ」な円だった。

一般的には、描くことは空間を区切ることだ。
さらに人には描いた線の中に注意を向けるという習性がある。
縄張りを作ってその内側を自分のものだと主張した先史以来の習慣が透けて見える。
が、禅者は、描かれた円の外側(「空虚」)に注意を向けるために区切るのだ、と井筒はいう。もしそうなら、帰宗は円の中心に座ることで、円の外にある麻谷や南泉の空間を示唆したのだろう。
『碧眼録』の3人に戻ろう。
円の中心を占めようとする目的から解放する帰宗の行為に、麻谷はお辞儀をした。
それを見た南泉は、慧忠国師を尋ねるまでもない、と判断した。
(このエピソード(「本則」)の後に続く「頌」の部分にも、そんな解釈がある)。
目的を達成しようという束縛から解放されると、体を包むこの世界全体が開けてくる。
以前、龍安寺の石庭で、15個あるという石を数えることに疲れて立ち上がったときの体験に似ている。石を数え切ろうという目的を「あきらめ」たとき、石庭全体の世界が「あきらか」になったことが確かにあった。
座った姿勢から立つ姿勢に移行することで、「あきらむ」という古語の二重の意味が体感できた。
あのときも、問題を解決しようという「因縁」から解放されていたのだろう。
◆
ジョン・ケージは「音楽」を体(体内音)に向けた。
ここからはケージの考えを、自分なりにもう少し進めてみる。
「歩くこと」が「音楽」になるとすれば、ケージのいう「意図されない音」も含めた「音楽」が必要だ。
イヤホンから流れる「音楽」ではなく、体から聴こえる「音楽」だ。
ウォーキングすると、他とかに体から聴こえる「音楽」に満たされている。
外界の音は気にならなくなっている。心音や呼吸音が響くだけになる。
その合間に耳鳴りのような音がかすかにしている。耳の近くの血管に血液が流れる音がする。心臓の鼓動がそれを作り出している。その鼓動に合わせて、呼吸がリズムを刻む。
「サイレンス」だ、沈黙の音だ。
さらに足が大地を踏む音がそのリズムに重なる。どちらが先でどちらが後ということはない。「沈黙」と「音」は互い作用にながら互いに「音楽」を作り出している。
◆
鈴木大拙は禅体験を、言葉を用いて説明する際、「即非の論理」を引き合いに出した。
論理学によって禅の実践を無理やり言葉にしようとするとこうなる。
AはAだというのは、
AはAでない、
故に、AはAである。
これは肯定が否定で、否定が肯定だということである。
なんだか目が回る。命題文として読もうとするからおかしくなる。
無理やり、翻訳すると、「川は川でない。故に川は川である」となる。
ここでの否定/肯定関係は、互いに排除したり対立したりする関係ではないようだ。
大拙は、「否定を媒介として初めて肯定に入る」という(前掲書)。
この言葉を、ケージが否定と肯定が互いに合わさってユニットを作ると捉えたとしたら、以下のように表現できそうだ。
Aが「Aである」ことは、Aが「Aでない」こととユニットをなす。
故に、AはAである。
否定は区別であって排除ではない。両者は相互に関わり合っている。
禅に対するケージの解釈が、「意図された音」/「意図されない音」で満たされた音楽ビジョンを触発したのだろう。
ここでの「である」(繋辞)は、同一という意味ではない、差異である。
音は音だというのは、
音は音でない、
故に、音は音「である」(という差異である)。
沈黙は沈黙だというのは、
沈黙は沈黙でない、
故に、沈黙は沈黙「である」(という差異である)。
故に、音は沈黙「である」(という差異である) Q.E.D
◆
さて、雨続きだったが、週末はいい天気の午後になった。
ここらで、モニターから離れて外に出よう。
ウォーキングしながら、「沈黙」の音に満たされよう。
ウォーキングは、体内音や呼吸音や足音と相互作用して、「である」で一直線に進もうとするフ目的意識と合理性に満ちたな意識の表層を、身体の「サイレンス」がざわめく深層まで降ろしてくれる。
ウォーキングが身体と環境とともに奏でる音楽は、凸凹世界に作り替える。
「あわてない、あわてない。一休み、一休み。」
(TV放映されたアニメ「一休さん」(1975-82)での、子供時代の一休さんの決めゼリフ)
冒頭の一休宗純の和歌(道歌)を詠むと、上のセリフの「一休み、一休み」にもケージの「サイレンス」が満ちているように「聴こえる」。
※このエッセイは、以前入会していた際にアップしたエッセイを現状に合わせて編集、修正、加筆し、羅列したツギハギ的な落書きである。
