グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学へ』で、正しく間違う方法を学ぶ -帰謬法、アブダクション、試行錯誤-
荒川 それ[二分の図式をまだらにする]をやろうとした人がグレゴリー・ベイトソンですね。ベイトソンはあなたが言われたことを現実にやったけれど、自分ではまとめませんでしたね。晩年の彼に会いましたが、宗教家の様でした。自分では決してここからどこまでやりましたとは言わなかった。そこがあの人のえらいところですね。彼の時代に完結するものではないということが分かったから、決して自己主張しなかった。最後は自分の娘まで使って、自分のことを分かっていないということを知りながら一緒に本を出した。誤解して下さいという本ですね。思想に行為を持たせるということは、言語をあの様に使うということのいい例です。
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人工知能学者マーヴィン・ミンスキーはその教育エッセイ『創造する心』(2020)で、親のように愛着を感じる知的啓発をする人を「インプリマ」と呼んだ。ミンスキーはさらに指導者としてのメンター、考えや生き方の見本であるロール・モデルの3者が、子供が学びつづけるには必要だという。(3者が同一人物でもよい。)
メンターやロール・モデルはだいぶ馴染み深い言葉になったが、「インプリマ」というのはそれほどでもない。Imprimerというのは印刷する,刻印する,方向づけるという意味だという。
ミンスキーにとってインプリマは、フロイトだった。心は一つのものであるというそれまでの考えを破って、新たな仮説を立てた点が、『心の社会』の著者ミンスキーがフロイトに深い愛着を感じる理由だという。
ミンスキーの本を読んで、グレゴリー・ベイトソンが自分のインプリマのような感覚が、コロナ禍の時期にだいぶ遅ればせに湧き上がったことがある。
大学時代、鳥が卵から出て初めて見る者を親とみなすような感じで、彼の本に出会い、ひたすら読んだ。ファンのような熱心さはなかったが、わからないけれど面白いという感覚を味わうことが新鮮で読み返すことが習慣になった。読むとなぜか元気になった。閉塞感が解放される感じがしたのである。
大学で借りて出会った2分冊は、のちに一冊に合本されて700ページを超える厚さになり、娘メアリー=キャサリンの序文がついた第2版も出てさらに厚さを増した。
そんな中、荒川修作と出会い、個人的に話を聞けるようにもなっていた。
初めてアポを取って千鳥ヶ淵のフェアモント・ホテルに伺った際、私はベイトソンの話をしてみた。荒川さんはベイトソンに会った話で返してくれた(ジョン・ケージの話もしてくれた)。ベイトソンに会った印象について荒川さんは「あんなに大きな体で、お坊さんみたいな静かな人だった」と笑っていた。ベイトソンが195cmくらいの長身だったということをその時知った。
(冒頭のエピグラフに挙げた鼎談は、私が会いに行った時期の前後に行われたようだ。引用にも「宗教家」のようなベイトソンの印象が語られていた。)
その後、出版元の新思索社がなくなって『精神の生態学』も絶版になり、コロナが覆う世界になった。
家にいる時間が多くなったのを機に、『精神の生態学』全文をPCに打ち込むことにした。この際だから、自分の土台を作ったと思うこの本の一字一句を辿りなおそうと考えた。
1年以上かけて打ち込み終わった頃、岩波文庫で『精神と自然』と『精神の生態学』が復刊するという情報をネットで見つける。
岩波文庫になった『精神と自然』が書店に並ぶ日、駅前の本屋に立ち寄った。青帯になって平積みされた一冊を手に取ってレジに向かう。
すると、店員が「大丈夫ですか?」と怪訝な顔で声をかけてきた。気づけば本を持つ手が震えていた。
「生きているうちにこの本が復刊されるなんて、思ってなかったんで」そう言って照れ笑いで誤魔化すと、店員はリボンをかけて本を渡してくれた。
リュックに詰めながら、ふとその店員に申し訳なく思い、一礼した。
『精神の生態学』が復刊されたら今度はAmazonで買わなきゃ、と思った。どういうわけか、今度レジに並んだら泣き出すような気がした。
今思うと、そんな感傷的な思いが不意に襲ったのは、会えなかった親に会えたような、そんな子どものような感覚が体の内側から湧き上がったからかもしれない。
2ヶ月後、書店員には申し訳なかったが、Amazonで『精神の生態学へ 上』と改題された文庫版をカートに入れた。
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ベイトソンの魅力は、伝統的なロジックを用いながらそこに閉塞することなく、ロジック自身の限界を超えてその外側へ自ら踏み出そうとする開放的な明晰さにある、と思う。
例えば、情報をある程度数集めれば真理に近づける、と考える推論がある。
1 身の回りを見ても白鳥は白い種類しかない。
2 だから、世界中全ての白鳥の色は白いのだろう。
アリストテレスが考えたこの推論は、少ないデータで世界中のデータのおおよその傾向を知るやり方として、現在の統計学でもとても重宝されている。
1 袋にたくさんの球が入っている。
2 一つ一つ取り出すと、白い球ばかりだ。
3 よって、袋の中にある球は全て白いだろう。
例外はあるが「だいたい合ってる」という傾向性を弾き出すこの帰納推論という論理が、ビッグデータで強化されれば、現代の私たちの生活の方向も決めていることもわかる。スマホのアプリをクリックすれば、私たちもこの論理で計算されるデータの一つになるのだ。
一方、帰納推論が弾き出すこの傾向性は常に例外によって破られる脆弱さ(フラジリティ)を抱え持つ。たとえこの推論を膨大なデータと強力な計算機械で頑健にしようとしても、それは避けられない。
確率論の側から帰納推論を強化する統計学に溺れる現代のIT社会を批判したのは、投資家で著述家のナシーム・ニコラス・タレブ『ブラック・スワン』である。この本で不意にベイトソンの名前が出てくる。
タレブは、統計値を吹っ飛ばすほどのアノマリーとして現れる事象(ブラック・スワン)について、ベストセラーを生み出す「作家」という不可思議な職業タイプを例に出した。
イェフゲニアという架空の作家の作品が、どういうわけか大ヒットして世の中にもてはやされてしまうというエピソードだ。その最後に、タレブはベイトソンという名をわざわざ入れてくる。
ある高名な学者は、どの頁にもグレゴリー・ベイトソンの影響が見えることを説明した。ベイトソンは学術的な研究論文に自伝的な場面を入れ込んだ人だ(イェフゲニアはベイトソンなんて聞いたこともなかった)。
この一節を読んで、思わず口元がゆるんだ。
「学術的な研究論文に自伝的な場面を入れ込んだ人」とは、ベイトソンに託したタレブ自身と彼の著書『ブラック・スワン』に思えたのだ。
それだけではない。ベイトソンが徹底して帰納推論を回避する論の運び方をすることを、この本はさりげなく仄めかしているように見えたのである。
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『精神の生態学へ』は6篇からなる1930年代から70年代初めまでの40年弱にわたるベイトソンの堂々たるトライアル・アンド・エラーの軌跡だ。
ケンブリッジ大学で生物学を修めたベイトソンは人類学、精神医学、動物行動学、生態学を横断しながら思考のパターンを実験にかけ、思考を試し続けた。
この本の冒頭には、父と娘の対話からなる「メタローグ」が置かれている。
「メタローグ」という聞きなれない言葉の定義は以下のようになっている。
定義
メタローグとは、問題となっていることを単に論じるだけでなく、議論の構造がその内容を映しだすようなかたちで進行していく会話をいう。ただしここに収められた会話のうち、そのような二重のつくりをしているのは一部だけである。
進化理論の歴史を見ると、それが人間と自然との間で交わされ続けているメタローグになっていることに気づく。進化についての観念の生成と、観念同士の相互作用は、必然的に、進化プロセスを例示しているのである。
娘(メアリー=キャサリン)が「なぜ?」と問い、父(ベイトソン)が「そうだな」と受けるかたちで進む会話は、複数の層を成して進む。それゆえメタレベルにわたるダイアローグになっているのである。
そしてこの多重構造は、「人間と自然の間で交わされ続けている」進化に似ている、とベイトソンはいう。
進化は平坦の時空を単線的に進むのではない。
ジグザグに試行錯誤(trial and error)しながら多層的な世界を進むというのである。
理系思考の明晰さを持ったベイトソンにとって、考えることは多層的な複雑な世界にみずから身体を浸しながら、確率的に把握しようとするところから始まる。
確率過程は、単線的で目的志向の「思考パターン」では「偶然」という出来事でしか出てこない。「ものはなぜゴチャマゼになるのか」というメタローグのテーマでは、子供にエントロピーの第二法則を教えながら、この過程を実感させようと奮闘する父親の姿が描かれている。
その際、娘が学ぶかどうかも確率の中の一つの事象として扱われるのだ(父親の言うことを、娘が「ちゃんと」理解したかどうかは不明だ。むしろこの「メタローグ」では、娘は娘なりに確率過程を「解釈」しようとする姿が描かれる)。
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私たちの「思考のパターン」は長い時間を経て学習されたものだ。
文字を書く、ドアを開ける、椅子に座る・・・それらは見てすぐにできるものではない。時間をかけて習得され、パターン化されて繰り返しが可能になる。
この繰り返しに慣れると、人は自分とモノ(対象)を区別してから自己と対象の関係を考えるようになる。
手には「5本の指がある」というが、「4つの隙間がある」とは考えなくなる。これも習慣だ。
見えるものとそれ以外のものを区別するという習性は、平坦な時空を作り出して拡張するという性質もある。見えるモノ(対象)に言葉のレッテルを与えると、レッテルだったはずの言葉を元にして見えないモノを想像しようとする。
目の前でワンワン吠える生き物に「犬」というレッテルを貼れば、一般的な「犬」という哺乳類のカテゴリーに拡張するのにそう時間はかからない。そこにはイメージの力が強く働き始めている。
この平坦な時空を意識に敷き詰めながら時空化してしまう推論が、帰納推論なのである。
こうして自分とモノ、自分と他人、自分と社会、というふうにどんどん大文字になって自分の身の丈から離れていく。
にもかかわらずそれが自分の身の回りを取り囲んでいると信じ込んでしまうのは、ヒトという種の哺乳動物が、言葉とイメージで世界を作り出してしまうからだ。
文化単位のものもあれば、社会単位のものもあり、個人単位のものもある。どこから手をつけていいかわからないほど、世界は複雑になる。自分を囲んでいるものは個人では変えられないように見える。
が、こう思っていることが自分に埋め込まれた言葉で世界を作るヒト-生命体の思考パターン(帰納推論)が弾き出した計算結果にすぎないとしたら?
「そう思ったなら、そこが出発点だ。そんな計算の規則から出たいのなら、まず規則に沿って間違ってみるというのはどうだい? 」
ベイトソンならそんなふうに言うかもしれない。
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『精神の生態学へ』のあちこちで、ベイトソンは帰謬法(または背理法)と呼ばれる論理を使う。この論法は以下のような論の運びをする。(最近はフェイク・ニュースを見分ける方法としても用いられる。)
1 まず、ある仮説をひとまず信じることにする。
2 その仮説が成り立つ条件(必要条件)を考える。
3 その条件が仮説の中で十分に成り立つかどうか(十分条件)を確かめる。
4 成り立っていないなら、その仮説は間違っていると判断する。
この運びの最後の4の部分をベイトソンは変更して使う。
「成り立っていないなら、その仮説は間違っていると判断する」という最後の部分を変えて、この仮説を使うと論理に合わない何かが出てくる、という例外の方に目を向けるのである。
論理を仮説として使っては捨てながら進むと、ネットワークされ、複雑さを増して、世界が多様で生き生きした動きそのものになる。
そしてベイトソンは変更したこの最後の部分に、「アブダクション」(仮説推量=あて推量)という記号論の創設者チャールズ・サンダース・パースの唱えた「発見の論理」をセットする。
この論理は、今見えている事象を結果と捉え、そこから見えない原因に遡るので「レトロダクション」とも呼ばれる。
1 道端で土に埋もれた石を見つけたら化石だった。(結果)
↓(遡る)
2 この辺りは大昔は海だったんだろう、と推測する。(原因)
もちろん、この推論は確実とは言えない。
昔、誰かが持っていた化石を、そこに捨てたか落としただけかもしれない。
しかも、結果から原因を推測するのは結果論でしかなく、原因から結果を導こうとする論理そのものの王道に逆行するので、いかがわしく見られがちだ。
が、従来の論理は自己と対象、見えるモノを名指して流動する世界から取り出し、言葉とモノの関係を固定してから作動する、ということを忘れないようにしよう。
モノを名指すことも元々の行為はdigitalのラテン語語源digitus 「指さす」の意にある。つまり、デジタル化することである。
デジタル社会は動的な世界を固定されたものとして「指さす」ことから始まる。動いていると考えるにしても、静止状態をデフォにしてから動かしていく。
一方、大学で生物学を修めたベイトソンは、世界は動いている、否、生きている(カオティックでランダム)と考えた。生きた世界を捉えるには、自らと世界を固定する論理は役に立たないが、人間はそれを使うしか術がない。
ならば、人間の方が生きた世界の動きを捉えようとする態度を変えて、世界の動きに沿ってこちらも動いてみる。
そうしてベイトソンは、生物学から人類学へ、精神医学へ、さらに生態学へシフト(試行錯誤)していく。
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『精神の生態学へ』でベイトソンは、当時の新しい考えを取り入れながら、その限界に常に目を向ける。
A 動物の学習について、彼はホワイトヘッド/ラッセルの論理階型理論を使ってみせる。
と同時に、論理に階型を儲けるという考え方自体の限界を学習4で予想したり、自然数をベースとした階型を作る集合論の考え方の外に、「学習の学習」という階型0(整数)の不可知性を見出して、動的世界での人間の知の限界を見据える。
B 生物の自己保存についても、「本能」という言葉(説明するための空疎な言葉)を避けて、サイバネティックスの正負のフィードバック概念を使って説明する。
と同時に、ライフルによる命中の精度の修正を負のフィードバックに喩え、散弾銃である範囲を狙う喩えとセットにするような、確率的な直観の存在も考慮に入れる。(具体的な説明はその後『精神と自然』にある。)
C 家族関係から生じる精神病については、ゲーム理論の協力ゲームをシミュレートしながら、「どうなるとうまくいかないのか?」という点に注目する。
と同時に、ゲーム理論では5.6人のゲームになると破綻が見えるのに、人間は3人になると破綻が見えるのはどうしてか?という点から精神病の構造的な問題に迫ろうとする。
おもしろいと思うのは、この運び方だ。
こうしてベイトソンは、「どうなるとうまくいかないのか?」という観点から理論の欠点を指摘することより、「どうしてうまくいくのか?」という理論の性質そのものを問い直す方向に向かう。というのも理論にうまく当てはめられるなら、理論の中でしか世界を見れていない、という確信がベイトソンにあるからだ。
世界は理論で把握できるほど単純ではなく、人間は世界を把握するほど知的でもないのである。
多種多様な世界ではジグザグに進んでいく必要があるのだ。
論理階型論、サイバネティクス、ゲーム理論が成り立たないところから、ベイトソンは人間という固定された考えによって外に置かれることになった人と環境との関係の複雑さに注意を向けるのである。
そして、意識に固定された人間と脳に固定された心を、環境とかかわり身体と共に生きる「生態」として全体的かつ動的なものに変えていこうとする。
言葉はラベルであり、理論はラベルが剥がれるまでは有効な仮説に過ぎない。
ベイトソンはラベルを張り、張り直し、剥がしながら進んでいく。仮止めの思考はいつも動いている。
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理論がどんなに数学化されて強化されても、その限界は人間の知の外側を示している。
「想定内/想定外」という統計化された帰納推論の脆さを口に出しそうになると、ベイトソンの考えを起動させて、帰謬法とアブダンションの手順で再検討するようにする。
「ものはなぜゴチャマゼになるのか」というメタローグで、ベイトソンはディズニーアニメの冒頭シーンの不可思議さについて、娘に質問を投げかける。
このアニメのシーンで、ゴチャマゼのアルファベットが「DONALD」の文字に並ぶのは「ふつうの世界」ではありえない、と娘にいう。
メイシー会議でフォン・ノイマンやウィーナーと討議し、コンピュータのデジタル性が統計学を採用する以前から、その根底にある帰納主義がテクノロジーによって強化されることに対して、批判を加える場面である。
父 よし、じゃあ別な例で行こう。映画が始まるときに、スクリーンにいろんなアルファベットがゴチャゴチャになって出てくるの、見たことあるね? あっちを向いたりこっちを向いたり、逆さまになってるのもあるんだが、テーブルが揺れだすと字が動きだして、しまいに全部の字がスーッと映画のタイトルに収まっていくんだ。
娘 知ってる、それ。ドナルドの映画 ! 「DONALD」っていうつづりになるの。
父 どんなつづりになるかは問題じゃない。要するに、揺すったりかきまわしたりしたときに、だんだんゴチャマゼになっていくんじゃなくて、キチンとした順番に並んでいく。向きもちゃんとそろって。そして言葉のつづりになる。それを見てる人が、読むことができて、意味もとれる、そういう並び方になっていく—--
娘 あ、それ、ほんとは—--
父 ----待ちなさい。パパが言ってるのは、あれは絶対、ふつうの世界じゃ起こらんということなんだ。映画でなきゃ—--
娘 それ、パパ—--
父 そうさ、映画じゃなきゃ、ああはいかん。ものをかきまぜていくと、次第に秩序と意味ができていくなんて。
娘 パパ !
父 待ってなさい。まだ終わってないんだから。いいね。映画を撮ってる最中は、あれは逆向きに進んでいるんだ。最初テーブルの上にちゃんと「DONALD」って並べておいて、カメラを回し始めたらテーブルを揺する。
娘 もう ! パパったら、あたしが言いたかったことをぜんぶ言ってしまうんだもの。それで映画館では逆回しでかけるのよね? ほんとうは逆向きに起こっていることなのに、そのまんま起こってるみたいにして。でもほんとうは、あれ、揺れ方も反対だったんでしょ? それと、上下も反対に撮らないといけないのよね。・・・・・・でも、それどうしてかしら。ねえ、パパ、どうしてなの?
「ゴチャマゼ」な自然にルールを見たり、自然を動かして「片づいてる」と考えるのは片づける側の勝手に過ぎない。
ベイトソンはゴチャマゼ世界の中に生きて、ゴチャマゼに沿って考える。それゆえ、ゴチャマゼを「片づける」側から「片づいてない」状態として貶めることもしない。
「片づいている」ことと「片づいていない」ことをセットで考えると、安定したり整然としたりしている(「片付いている」)ダイナミックで多層的な世界が見えてくる。
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『精神の生態学』(原題はSteps to an Ecology of Mind)を2冊本のハードカバーで読み始めた学部時代、自分は「メタローグ」でいうと、「娘」の立場だったように思う。が、文庫版を読む今は「父」の側にまわっている、と思うことが時折ある。
そんな考えも、昔から時間を直線に見立てて、長期的なエピソード記憶に整理する「心」という計算機械の演算結果なのだろう。
一方、ベイトソンの「ふつうの世界」から見れば、そんな日々を過ごすうちに、体も世界もゴチャマゼの方に近づいているのは確かだ。
自分の思考のプロンプト画面を見せながら、失敗から成功へ向けて修正する道より、試行錯誤する道を進んでいく。そんな論文集を読むと、自分も世界も動いていると感じられる。
電車を待つ混雑したホームで、文庫版になった『精神の生態学へ』のページを閉じてポケットに入れながら、春の風を頬に感じる。
すると、大気の匂いが、人が、日差しが、足が・・・そんな複雑でダイナミックな世界に息をして動いて降り立っているそれは、「私」と名指す以前の動き続ける身体である。
それは静止しているように見えるときでも、動き続ける環境とともに「激しく止まっている」。
(マインドフルネスをする習慣ができてから、この感覚が少しずつ育っているのが感じられるようになった。)

左下に『精神の生態学へ』の原題をもじってsteps to an ecology of mindfulnessと添えていた
※このエッセイは、以前入会していた際にアップしたベイトソンに関する記事を現状に合わせて編集し、ツギハギして羅列した落書きである。
