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『おい障害者』が教室で生まれる理由【教育シリーズ④】

新年度が始まり、
学校では1学期がスタートしています。

どこかまだ落ち着かない足取りで
校門をくぐる子どもたち。

4月の時間は他の月よりも
何だか少し早く流れているようで、
休み時間さえも急かされているように
感じます。

人混みと慌ただしさでどこか息苦しさを
感じる通常級。

それに対して
特別支援学級では。

見慣れない場所の教室、
聞き慣れない学級の名前。

もしかすると、
初めてその教室に入る日は、
胸の奥で細い糸がぴんと
張りつめたかもしれません。

でも、
数日過ごしてみると

通常級にはなかった様々な
絵カードや

決まった順番で進む活動が
少しずつ安心感となって、

その子の中に根を下ろし
はじめていきます。

そのような、
皆が少しでも安心して
生活できる場であるはずの
特別支援学級に対して。

残念ながら、
私のいる地域ではたびたび
耳に入ってくる言葉があります。

通常級で悪ふざけをして目立つお子さんに対し
学校から呼び出されて迎えに来た親の

「そんなに悪い事ばっかりしていると
特別支援学級に入れるからね」

という言葉。

あるいは
廊下ですれ違った時に通常級に通う子から
ふざけて投げかけられた

「おい障害者」

という言葉。

スクールカウンセラーとして
特定の学校にいる時だけではなく、
病院で地域の方のお話をお聞きしている時も。

残念ながら耳に届いてくる言葉たちです。

未だに特別支援教育は
「障害者が受けるもの」
という価値観が地域に、
あるいは通常級側に。

冷たく横たわっている

この現実。

どれほどの想いで
ご本人さんや保護者さんが、
特別支援教育を現実的な選択肢として
考え、悩まれてきたことか。

どれほどの想いで
私たち支援者が、
ご家庭と共に特別支援教育を
現実的な選択肢として考え、
悩んできたことか。

この問題は、

悪ふざけする子どもたちや
排除を含んだ価値観を無意識に
手渡してしまう大人たちを

その場で注意して収まる問題では
ないと感じています。

それは、
言葉の問題というよりも、
もうひとつ深いところにある
言葉を生み出す前提の問題だと
思うからです。


たとえば

集団の中で
「同じであること」
が強く求められると、

少し違う特徴を持つ子は、
無意識のうちに外側へ
押し出されやすくなります。

その結果、
特定の子が繰り返しからかわれたり、
揶揄されたりする。

そして、
複数人でその対象を共有することで、
今度は「加害者側の一体感」が強まっていく。

こうした流れは、
どこかで見たことが
あるものではないでしょうか?

言葉は突然生まれるのではなく、
集団の中での「見方」や
「距離の取り方」の中から、
少しずつ形づくられていきます。

だからこそ。

共生社会に向けた教育や道徳的な学びを
進めていくことと同時に、

まずはこうした日常の中にある
「排除の動き」そのものに、
目を向けていく必要があるのだと考えています。

そして、
「排除の動き」の背景には、
ひとりひとりの無理解というよりも、
“そのように意味づけてしまう空気”が、
地域の中に横たわっているように感じているのです。

私は、
そのような地域の空気感を変えていきたい。

スクールカウンセラーとして学校の内側から。
精神科の医療者として地域の内側から。

粘り強く取り組んでいきたいと思います。


やや難しく重い記事ですが、
後半に【振り子】の理念について
書かれている記事です↓


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