ろろろのめ第1回 Coachella 2025を振り返って
ろろろのめ①
Coachella 2025を振り返って
今年も世界中の音楽ファンが注目するフェス、Coachella 2025が開催された。私も例年通り、全体を通して観たのだが、正直なところ、過去のCoachellaと比べて心が躍る瞬間が少なかった。もちろん、つまらなかったというわけではない。むしろ興味深く観られるアクトも多かった。しかし「心が踊るかどうか」という点で言えば、これまでで最もテンションが上がらなかった年だったかもしれない。心が踊るような驚きや感動は薄く、全体としての高揚感や「フェス感」はやや物足りなかったというのが率直な感想である。
とはいえ、記憶に残るパフォーマンスがなかったわけではない。

例えば、Travis Scott。彼の2週目のパフォーマンスを観ていて思ったのは、「Travis Scottもやはり人間だったんだな」ということだった。彼はカリスマ的存在として語られることが多く、圧倒的なスター性と話題性で突っ走ってきた印象が強い。しかし、2週目ではパフォーマンスや演出に対して明確な改善の兆しが見られた。そういった意味で、彼は努力と修正力の人なのだと感じさせられた。ただ単に奇抜さや勢いに頼るのではなく、自分の表現を見直し、より良いものにアップデートしようとする意志が垣間見えたのは非常に興味深かった。

Green Dayは、初週・2週目ともに「Green Dayであること」を全うしていた。20年以上にわたるキャリアを持つ彼らは、何をすべきか、どう観客を盛り上げるかを熟知している。そのパフォーマンスには驚きや斬新さはないものの、安心感と熟練の技があった。ある意味、変わらないことの強さ、役割をしっかり理解しているバンドとしての貫禄を感じさせた。

一方、Charli XCXはポップとオルタナティブの間を巧みに渡り歩く独自のポジションを確立していた。純粋なポップスターとも言い切れず、かといって完全なアンダーグラウンドにも属さない、その絶妙な立ち位置が今年のラインナップの中でも異彩を放っていた。パフォーマンス自体もキレがあり、観ていて心地よさと刺激のバランスが良かった。

Lady Gagaの登場も大きな話題になったが、個人的には、あのパフォーマンスをわざわざCoachellaでやった意味について考え込んでしまった。セットリストや演出を観る限り、Chromaticaツアーの方が圧倒的に練られており、祝祭感も高かった。対して今回のステージは、どこか空虚で、“Gagaらしさ”が薄れていたようにも感じた。もちろん完成度は高いが、フェスという場においては期待される「非日常感」や「エネルギーの爆発」がやや控えめだったように思う。むしろ、同じく今年のヘッドライナーだったLana Del Reyのステージの方が、ずっと印象に残っている。静かな迫力、構築された美学、観る者を引き込む力。そのすべてがLanaの世界観と完璧に合致していた。

Clairoを待っていたら、突然ステージに現れたのはバーニー・サンダースだった。誰も予期していなかったその登場に、会場は一瞬ざわついた。Clairoの出演を心待ちにしていた観客の多くが、予想外の政治演説に戸惑いを隠せなかったのは当然だろう。実際、演説が行われたのはClairoのステージの5分前で、時間が重なっていたわけではないのだが、あの場の空気は完全に彼のメッセージに支配されてしまっていた。
しかも、あの空間には富裕層インフルエンサーたちが多く集まっていたことを考えると、サンダースのメッセージが届くとは思えなかったし、中にはトランプに票を入れたような人もいた可能性もある。そうした客層に向けての政治的発言としては、タイミングも内容も効果的だったとは言い難く、想像力に欠けた判断だったと言わざるを得ない。
その直後に始まったClairoのステージは、演奏自体は本当に素晴らしかったのに、頭が切り替わらず、ステージに集中できなかったのが悔しかった。Clairoの繊細で誠実なパフォーマンスは、しっかり向き合えば心を掴まれるものだったはずなのに、その余韻を感じる余裕が失われてしまっていた。
一方で、2週目の配信では思わぬハイライトがあった。「Bags」の間奏中、配信の切り替えミスでエンハイプン(ENHYPEN)のステージが一瞬映り込んだのだが、それがまるでClairoの演奏に合わせて彼らが踊っているように見えた。その偶然のシンクロが妙におかしくて、見ていて笑ってしまった。あの瞬間はミーム化してもっと広まってほしいとすら思った。
Post Maloneのステージを観ながら思ったのは、「今のアメリカが求めるポップスター像って、まさに彼なんだろうな」ということだった。音楽的なジャンルの越境、感情表現の幅広さ、そしてある種の“親しみやすさ”と“無頼さ”の共存。それらすべてを体現していた。彼の存在は、音楽というよりも、アメリカという国の“今”を映し出しているよう

そんな中で、ふと思ったのが、藤井風やDoechiiがCoachellaではなくLollapalooza(ロラパルーザ)を選んだ理由だった。出演者リストを眺めていた時点では、単なるスケジュールや運営側の判断なのかと思っていたが、実際にCoachellaを観終わってみて、彼らがあえてロラを選んだ理由がなんとなく腑に落ちた。Coachellaが“雑多で広がりすぎている”ように感じたのに対し、Lollapaloozaはより個性的なアーティストたちが際立つ構成をしている。よりアーティスティックな表現や明確な世界観を重視する彼らにとって、ロラの方がフィットするという感覚は自然だったのかもしれない。
そして、今年のCoachellaでもうひとつ特筆すべきだったのが、LAフィルハーモニック(Los Angeles Philharmonic)のステージだ。正直なところ、事前のラインナップを見た時点では、ここまで繰り返し観たくなる存在になるとは思っていなかった。だが、実際にその場に足を運び、空間に響く音を体感してみると、自然と足が向いてしまうような吸引力があった。オーケストラというフォーマットが、Coachellaというカジュアルかつ祝祭的な場でこんなにも有機的に作用するとは、いい意味での驚きだった。


Laufeyの登場はその中でも特に印象深い。彼女のヴィンテージ感のあるボーカルと、LAフィルのクラシカルなアレンジが見事に融合して、まるで時代を超えるような美しさがそこにあった。ラグジュアリーでありながらも、決して距離を感じさせない親密さがあり、静かな熱狂に包まれていたのを今でも鮮明に覚えている。

さらに圧巻だったのが、シンシア・エリヴォ(Cynthia Erivo)によるPrinceの「Purple Rain」のカバーだ。誰もが知る名曲をあえて挑戦する難しさがある中で、彼女はそのプレッシャーすら跳ね返すような迫真のボーカルを披露した。ただのカバーにとどまらず、自身の魂を重ねたような演奏で、観客の多くが静まり返って聴き入っていたのが印象的だった。あの瞬間、Coachellaが“音楽の聖域”になっていたと言っても過言ではない。

XGのパフォーマンスについては、初週の「IN THE RAIN」での傘を使った演出が残念だった。正直言って、あのパフォーマンスは不要だったと感じる。Coachellaの強風を甘く見すぎている。まるで、以前PerfumeがCoachellaで同様の失敗をした過去を知らないかのようだった。風で演出が崩れるリスクを考えれば、あの選択は賢明ではなかった。
しかし、2週目ではその「IN THE RAIN」をセットリストからカットし、「MASCARA」へと差し替えたことは非常に良い判断だった。この変更により、XGの高い技術力が際立ち、彼女たちの本来のパフォーマンス力がしっかりと伝わった。ダンスとボーカルの緻密な構成が際立ち、観る者の集中を途切れさせることなく惹き込んでいた。初週の反省を即座に生かすその柔軟性もまた、グローバルで勝負していくグループとしての成熟を感じさせた

BLACKPINKからは、ジェニとリサがソロとして登場。ジェニの1週目にはカリ・ウチスがゲストとしてサプライズ出演したが、それ以外に目立った客演はなく、ソロアーティストとしてのステージに徹していた印象だった。彼女のステージは、楽曲の完成度とテンポ感の良さが相まって、一つのショーとして美しくまとまっていた。ただ、終始ダンスと歌を両立させることに苦しんでいるようにも見えた。動きながらの歌唱は相当な体力を要するのだろう。あのLady Gagaですら息を切らしながら歌っていたことを思えば、ジェニがしんどそうに見えるのも当然かもしれない。
リサのパフォーマンスは、強風の影響を受けながらも、持ち前のエネルギーと表現力でステージをやりきっていた。とはいえ、衣装チェンジの時間が長すぎたのは残念だった。せっかくの高い集中力を維持できない場面があり、全体としてやや間延びした印象が拭えなかった。パフォーマンスそのものの完成度が高かっただけに、構成面での練り込みがもう一段階あれば、より締まったショーになったのではないかと思う。
XGやリサ、ジェニといったアーティストのステージが披露されるたびに、必ずと言っていいほど巻き起こるのが「生歌・生演奏」かどうかを巡る論争だ。しかし、正直なところ、こうした議論にはそろそろ辟易している。いつまでも“生であること”ばかりに価値を置くのは、もはや時代遅れではないかと思う。
確かに、生歌や生演奏が感動を生む瞬間もある。だが、それが常に最善の選択肢であるとは限らない。実際、Post Maloneのように、生演奏を重視するあまり、かつてのエネルギーを感じさせないようなアレンジに終始してしまうと、楽曲本来の魅力やポップとしての推進力が失われてしまうこともある。彼の歌声や楽曲には独特の叙情性があるが、それが過剰に“しみじみ”とした方向へ引っ張られすぎると、観客との距離感が生まれてしまう。
一方で、XGやリサ、ジェニのようなパフォーマンス型アーティストは、映像演出や振付、そしてトラックの緻密な構成といった要素を駆使して“いまのポップ”を体現している。その総合的なエンターテインメント性こそが、現代のステージにおいて求められているものだと思う。
総じて言えば、今年のCoachellaは方向性がやや散漫だったように感じる。ラインナップの多様性は確かに魅力ではあるものの、「このフェスが見せたいものは何なのか」という軸が不明瞭だった。ジャンルや世代を超えたクロスオーバーは歓迎すべきことだが、それが単なる寄せ集めに感じられてしまっては本末転倒だ。その点、同時期に発表されたサマーソニック(サマソニ)のラインナップは、より明確なテーマと構成を持っていたように思う。サマソニが「こういう音楽が今面白いんだ」と提示する力強さがある一方で、今年のCoachellaは「何でもあり」の裏にある“迷い”のようなものが透けて見えた。
来年以降、Coachellaが再び音楽フェスとしての軸を取り戻すことを期待したい。もちろん、今後も多様性や革新性は大切にされるべきだが、その中で観る側が“心を動かされる”瞬間がもっと生まれるような、そんなフェスであってほしいと思う。今のままでは、ただの“豪華な音楽の集合体”に過ぎない。そこに魂を吹き込むのは、運営のセンスと意志、そしてアーティストの情熱に他ならない。
