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雷翼鳥の契約者 第204話           ―天羽悠真と帰還門の異世界譚―

204話 帰れなかった者の声


 封廟の奥から響いた声は、白い石柱の間をゆっくりと渡ってきた。

閉じるな。
また、閉じるな。

 それは、ただの音ではなかった。

 石の奥に染み込み、長い年月をかけて乾ききったはずの叫びが、いま再び空気を得たような声だった。

 悠真は片膝をついたまま、封廟の奥を見ていた。

 赤黒い亀裂が、白い石床を伝って伸びている。

 その先に、閉ざされた奥廟の扉があった。

 扉は白石で造られていた。

 装飾は少ない。

 ただ、中央に閉じた門の紋様があり、その上に翼を畳んだ鳥が刻まれている。

 夢で見た鳥。

 壁画で見た鳥。

 空を閉じる鳥。

 その扉の向こうから、声が聞こえていた。

 悠真の右手が、激しく痛む。

 痛みというより、引かれていた。

 右手の奥に見えない糸が結ばれ、その先が奥廟の扉へ繋がっているようだった。

「悠真さん、動かないでください」

 ローヴェンの声がした。

 だが、遠い。

 白い封廟の中にいるはずなのに、声だけが水の底から聞こえるようだった。

 悠真は右手を押さえた。

 止めようとした。

 だが、指先が勝手に開く。

 奥廟の扉へ向けて、手が伸びる。

「悠真!」

 レオンハルトが叫んだ。

 その声で、悠真は一瞬だけ現実へ戻りかけた。

 だが、次の瞬間、封廟の奥から別の声が重なった。

帰してくれ。

 胸の奥を、強く掴まれた。

 それは自分の願いでもあった。

 帰りたい。

 元の世界へ。

 自分のいた場所へ。

 見慣れた空へ。

 その願いと、封廟の奥から響く声が重なった。

 悠真の右手が、赤黒い亀裂の光に引かれる。

 ローヴェンが駆け寄ろうとした。

「駄目です、悠真さん!」

 しかし間に合わなかった。

 悠真の右手が、床の亀裂から立ち上る薄い光に触れた。

 瞬間。

 世界が白く弾けた。

 音が消えた。

 封廟も、仲間の声も、痛みも、すべてが遠ざかった。

 悠真は、白い石畳の上に立っていた。

 そこは、夢で見た場所だった。

 だが、夢よりも鮮明だった。

 空は白く閉じている。

 雲ではない。

 光でもない。

 何か巨大な布で覆われたように、空そのものが閉ざされていた。

 足元には白い石畳。

 遠くには巨大な門。

 門は開いていた。

 いや、開きかけていた。

 門の向こうには、見覚えのない光が揺れている。

 帰る場所。

 誰かがそう思っている。

 悠真自身の感情ではない。

 だが、胸の奥に流れ込んでくる。

 門の前には、人々がいた。

 何十人。

 いや、もっと多い。

 この世界の長衣を着た者もいれば、王国の服装とは明らかに違う者もいる。

白い石に帰れなかった者たちの影が揺れる

 短い上着を着た若者。

 細い鞄を肩にかけた少女。

 作業服のようなものを着た男。

 見知らぬ文字が印刷された布を身につけた者。

 古い旅人のような姿の者。

 同じ世界から来たとは思えない。

 だが、全員が門を見ていた。

 帰るために。

 悠真はその中の一人と目が合った。

 学生服に似た服を着た少年だった。

 年齢は悠真より少し若いかもしれない。

 顔ははっきり見えない。

 だが、その目にある感情は分かった。

 帰れる。

 ようやく帰れる。

 そう信じている目だった。

 次の瞬間、場面が揺れた。

 門の前に、王国側の兵士たちが並んでいた。

 その奥に、冠を戴いた王がいる。

 王は若く見えた。

 疲れた顔をしていた。

 彼は門の前に立つ人々を見ていた。

 恐怖ではない。

 嫌悪でもない。

 迷いだった。

 帰したい。

 だが、帰せない。

 その葛藤が、残響として悠真へ流れ込んでくる。

 王の背後に、白い衣をまとった者たちがいた。

 顔は見えない。

 白い布で隠されている。

 その中の一人が、王へ何かを告げる。

 声は聞こえない。

 だが、意味だけが流れ込んできた。

 門を閉じよ。

 声を断て。

 空を縛れ。

 国を守るために。

 王は首を振った。

 門の前の人々が騒ぎ始める。

 何かが起きようとしていると気づいたのだ。

 少年が叫ぶ。

 少女が泣く。

 誰かが門へ走ろうとする。

 兵士がそれを止める。

 悠真は動けなかった。

 これは過去だ。

 記憶だ。

 残響だ。

 そう分かっているのに、目の前で起きていることのように苦しかった。

 門の向こうの光が揺れる。

 帰る道が、そこにある。

 あと少し。

 あと数歩。

 それなのに。

 白い衣の者たちが、杖を掲げた。

 地面に刻まれた線が光る。

 白い光が門の周囲を囲む。

 それは美しい光ではなかった。

 白く、冷たく、硬い。

 閉じるための光。

 門の向こう側が遠ざかる。

 人々が叫ぶ。


待ってくれ。
帰してくれ。
まだ向こうに家族がいる。
閉じるな。

 悠真の胸に、無数の感情が流れ込んだ。

 母親の顔を思い出す者。

 子どもを探す者。

ローヴェンが壊れた帰還門の痕跡を調べる

 故郷の駅を思い出す者。

 病室の白い天井を思い出す者。

 学校の廊下。

 夕暮れの道。

 見知らぬ都市。

 雪の降る国。

 青い海。

 それぞれ違う世界。

 違う帰る場所。

 だが、願いは同じだった。

 帰りたい。

 ただ、それだけだった。

 門が閉じ始める。

 王が叫んだ。

 止めようとしている。

 だが、白い衣の者たちは止まらない。

 王の周囲に、別の術式が走る。

 王の命令として封印が記録される。

 王の名で門が閉じられる。

 しかし、命じているのは王ではない。

 白務院。

 その名が、残響の中で冷たく響いた。

 悠真は歯を食いしばった。

 違う。

 これは守るためだけじゃない。

 帰れなかった人たちを、切り捨てている。

 門の前で、人々が白い網に絡め取られていく。

 空を縛る網。

 それは門だけを封じているのではなかった。

 人々の声を、願いを、帰りたいという思いを、石の中へ沈めていく。

 白い網に触れた者が倒れる。

 完全に死んだわけではない。

 だが、何かが抜き取られていく。

 声。

 記憶。

 願い。

 それらが封印の中へ吸い込まれていく。

 悠真は理解してしまった。

 一部は、封印維持のために利用された。

 帰れなかった者たちの残響。

 帰りたいという強い願い。

 それを、門を閉じ続ける力の一部として組み込んだ。

「やめろ……」

 悠真は呟いた。

 だが、過去は止まらない。

 門が閉じる。

 完全に閉じる。

 少年が門へ手を伸ばす。

 あと少しだった。

 指先が光へ届く直前、白い網が彼を引き戻す。

 少年が叫ぶ。


閉じるな!

 その叫びが、悠真の右手を貫いた。

 痛み。

 怒り。

 悲しみ。

 恐怖。

 それらが一気に流れ込んでくる。

 悠真は膝をついた。

 だが、白い石畳の上で倒れることはできなかった。

 声が次々と重なる。


帰してくれ。
門を閉じるな。
どうして。
まだ帰れるはずだった。
俺たちは何もしていない。
置いていかないで。
閉じるな。
また、閉じるな。

 悠真の意識が、声に飲まれていく。

 怒りが自分のものなのか、彼らのものなのか分からなくなる。

 悲しみが自分の胸を満たしていく。

 王国。

 白務院。

禁じられた記録にクラウディアが揺らぐ

 聖務局。

 白封派。

 封印。

 正史。

 聖王。

 それらすべてが、白い布で覆い隠してきたもの。

 帰れなかった人たちの声。

 それが、悠真の中で燃え上がる。

 壊せ。

 閉じたものを壊せ。

 門を開け。

 帰せ。

 すべてを。

 その衝動が、悠真の右手に集まった。

 現実の白き封廟で、悠真の右手が赤黒い光に包まれていた。

「まずい」

 レオンハルトが低く言った。

 悠真は床に片膝をついたまま、虚ろな目で奥廟の扉を見ている。

 右手から伸びる光が、赤黒い亀裂と繋がっていた。

 共鳴羽が激しく震え、淡い青白い光と赤黒い光がぶつかっている。

 ローヴェンが青ざめた顔で叫ぶ。

「悠真さん、聞こえますか! それは残響です! あなた自身の記憶ではありません!」

 返事はない。

 悠真の唇が微かに動く。

「……閉じるな」

 クラウディアが息を呑んだ。

「残響に引き込まれています」

 シオンが共鳴羽へ手を伸ばした。

「共鳴羽を抑えます。ミーナ、悠真さんを支えて」

「はい!」

 ミーナが悠真の肩を支える。

 だが、触れた瞬間に彼女の顔が歪んだ。

「熱い……!」

「手を離すな!」

 レオンハルトが叫ぶ。

「今離せば、そのまま奥へ持っていかれる」

 シオンは腰の袋から漏れる共鳴羽の光に手をかざした。

 直接触れず、封具布越しに制御をかける。

 青白い光が一瞬強まり、赤黒い光を押し返そうとする。

「共鳴が乱れています。雷翼鳥由来の反応と、封廟の残響が混ざっています」

 ローヴェンが必死に状況を読む。

「悠真さんの右手が、封印網の損傷ではなく、残響そのものに接続しています。このままだと、記憶と感情を直接流し込まれる」

「止め方は」

 セイグラムが問う。

「外部から切断するしかありません。ただし無理に切れば、右手に反動が出る可能性があります」

 クラウディアが奥廟の扉を見た。

「聖務局の封印具なら遮断できるかもしれません」

「持っているのか」

 レオンハルトが問う。

 クラウディアは首元の聖印を握った。

「これで一時的に封印線を遮れます。ただし、門に触れた者へ使うのは危険です」

「危険なのは今も同じだ」

 レオンハルトの声は鋭い。

 だが、クラウディアが動く前に、悠真の右手から赤黒い光がさらに強まった。

 悠真の口から、別人のような声が漏れる。

「帰してくれ……」

 ミーナが涙を堪えるように言う。

「悠真さん、戻ってください。そこに行っちゃ駄目です」

 シオンが制御を強める。

「共鳴羽、抑えます。けれど、悠真さん本人の意識が残響側へ引かれています」

 レオンハルトは一歩前に出た。

 彼の周囲に、雷の気配が集まる。

 青白い光が、封廟の赤黒い亀裂を一瞬照らした。

 クラウディアが警戒する。

「ここで雷術を使うつもりですか」

「結界だ」

 レオンハルトは短く答えた。

レオンハルトが悠真の前に立つ

「攻撃ではない」

「封廟内で魔術院式結界を展開すれば、古い封印式と干渉する可能性があります」

「何もしなければ悠真が飲まれる」

 その言葉に、クラウディアは黙った。

 レオンハルトは悠真の前に立つ。

 右手を掲げ、雷を細い輪にして広げた。

 攻撃の雷ではない。

 遮断する雷。

 外から入り込む残響を弾き、悠真の意識をこちら側へ戻すための結界。

「天羽悠真」

 レオンハルトは低く呼んだ。

「聞け」

 悠真の瞳は虚ろだった。

 その奥に、白い石畳と閉じる門が映っているように見えた。

「お前はそこにいない」

 雷の結界が、悠真と赤黒い亀裂の間に薄い膜を張る。

 赤黒い光がそれに触れ、激しく震えた。

 レオンハルトの額に汗が浮かぶ。

「戻れ。お前は帰れなかった者ではない」

 悠真の唇が震える。

「でも……あの人たちは……」

「分かる」

 レオンハルトの声が低くなる。

「だが、飲まれるな。お前が飲まれれば、誰も救えない」

 その言葉は、白い記憶の中にも届いた。

 悠真は、白い石畳の上で顔を上げた。

 周囲には、帰れなかった者たちがいる。

 門は閉じている。

 叫びが満ちている。

 怒りが渦巻いている。

 そして、その怒りは悠真の中へ入り込もうとしていた。

 壊せ。

 開け。

 奪い返せ。

 その衝動に飲まれれば、楽かもしれない。

 自分の怒りも、彼らの怒りも、一つにしてぶつければいい。

 だが、その先に何がある。

 封印を壊せば、帰れるのか。

 帰れなかった者たちは救われるのか。

 それとも、また何かを壊すだけなのか。

 レオンハルトの声が響く。

 ――お前が飲まれれば、誰も救えない。

 ローヴェンの声も聞こえた。

 ――それは残響です。あなた自身の記憶ではありません。

 シオンの声。

 ――共鳴羽を抑えます。

 ミーナの声。

 ――戻ってください。

 悠真は白い石畳の上で、拳を握った。

 違う。

 これは、俺の怒りだけじゃない。

 俺が持っていくものじゃない。

 でも、捨てていいものでもない。

 悠真は、閉じた門の前に立つ人々を見た。

 彼らはまだ叫んでいる。

 まだ、ここにいる。

 長い時間を越えて。

 封印の奥で。

 石の中で。

 白い祈りの下で。

 穢れと呼ばれても、災厄と呼ばれても、声は消えていなかった。

 悠真は震える声で言った。

「俺は……帰りたい」

 残響の中の人々が、こちらを見る。

「でも、俺が帰るだけじゃ終わらない」

 その言葉を口にした瞬間、白い空が揺れた。

 悠真自身の中で、何かが明確に変わった。

閉じた門に淡い残響が満ちる

 ここには、帰れなかった人たちがいる。

 自分だけではない。

 自分が帰る道を探すことは、彼らの声を無視することでは済まない。

 帰りたいという願いが、封印を揺らすなら。

 その願いが、封じられ、利用され、歪められてきたなら。

 自分は、ただ逃げるように帰るだけでは終われない。

「聞く」

 悠真は言った。

「でも、飲まれない」

 その瞬間、青白い雷の光が白い空を裂いた。

 レオンハルトの結界だった。

 悠真の意識が、強く引き戻される。

 白い石畳が遠ざかる。

 閉じた門が遠ざかる。

 叫びが遠ざかる。

 だが、完全には消えない。

 最後に、学生服に似た服を着た少年の影が、悠真を見た。

 顔は見えない。

 けれど、その声だけが届いた。


また、閉じないで。

 悠真は目を開いた。

 現実の封廟だった。

 白い石柱。

 赤黒い亀裂。

 青白い雷の結界。

 ローヴェンの青ざめた顔。

 シオンの伸ばした手。

 ミーナの支える腕。

 レオンハルトの険しい表情。

 クラウディアの震える聖印。

 マルセリオ司祭の祈るような目。

 すべてが戻ってくる。

 悠真は荒く息をした。

 右手はまだ痛む。

 だが、赤黒い光との接続は切れていた。

 共鳴羽の光も弱まり、シオンが慎重に封具布を押さえている。

 レオンハルトは雷の結界を保ったまま言った。

「戻ったか」

 悠真はすぐには答えられなかった。

 喉が乾いている。

 胸が痛い。

 体はここにあるのに、心の一部だけがまだ白い石畳に残っているようだった。

 ミーナが支えながら言う。

「悠真さん、分かりますか。ここは封廟です。私たちがいます」

「……はい」

 声が震えた。

「分かります」

 ローヴェンが近づく。

「何を見ましたか」

 クラウディアが止めようとしたが、言葉は出なかった。

 悠真は奥廟の扉を見た。

 その向こうに、まだ声がある。

 静かになったわけではない。

 遠ざかっただけだ。

 封印の奥で、まだ残っている。

 悠真は震える右手を押さえた。

 そして、ゆっくりと言った。

「あの人たちは……」

 言葉が詰まる。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

 その両方が混ざった重さが、胸の奥に沈んでいた。

 悠真はもう一度息を吸い、震える声で告げた。

「あの人たちは……まだ、ここにいる」

 白き封廟は静まり返った。

 だが、その静けさは、もう祈りの静けさではなかった。

 閉じ込められた声を、全員が聞いてしまった後の沈黙だった。










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