雷翼鳥の契約者 第205話 ―天羽悠真と帰還門の異世界譚―
205話 白封派穏健派
白き封廟から地上へ戻る階段は、降りる時よりも長く感じられた。
悠真はミーナに支えられながら、一段ずつ足を運んでいた。
右手の痛みは、まだ消えていない。
赤黒い亀裂に触れた瞬間、意識の奥へ流れ込んできた記憶。
白い石畳。
閉じられる門。
帰れなかった人々。
声を断たれ、願いを封印に組み込まれた者たち。
それらが、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。
足元は大聖堂の白い石段だ。
だが、悠真にはまだ、あの閉じられた門の前に立っているような感覚が残っていた。
「悠真さん、もう少しです」
ミーナが小さく声をかける。
「はい……大丈夫です」
そう答えたものの、声には力がなかった。
大丈夫ではない。
体は動く。
意識も戻っている。
だが、心のどこかがまだ封廟の奥に引っかかっていた。
あの人たちは、まだここにいる。
自分が口にした言葉が、何度も胸の内側で繰り返される。
地上へ戻ると、応接室の白い光がひどく眩しく感じられた。
封廟の冷気とは違い、窓から入る光は柔らかい。
それでも悠真には、その白さが落ち着かなかった。
マルセリオ司祭が椅子を勧める。
「まずはお休みください。封廟の残響に触れた直後です。無理に話すべきではありません」
悠真は礼を言って腰を下ろした。
右手を膝の上に置く。
震えは少しずつ収まっているが、指先の感覚は鈍い。
シオンが共鳴羽を封具布で包み直していた。
「共鳴羽の反応は落ち着きました。ただ、完全には沈静化していません」
ローヴェンが記録板を握ったまま頷く。
「悠真さんの右手、共鳴羽、雷翼鳥の卵、そして封廟奥廟の残響。四つが同時に反応しました。これは南方外縁封印の時より深い接続です」
レオンハルトが鋭く言った。
「分析は後だ」
ローヴェンは顔を上げる。
レオンハルトは悠真を見ていた。
「これ以上の調査は中止すべきだ」
その言葉に、応接室の空気が止まった。
クラウディアは何も言わなかった。
セイグラムも黙っている。
マルセリオ司祭だけが、静かに目を伏せた。
ローヴェンはゆっくりと口を開く。
「中止、ですか」
「少なくとも今日は終わりだ。封廟への再立ち入りも認められない。悠真は残響に飲まれかけた。次に同じことが起きれば、戻れる保証はない」
「それは分かっています」
「分かっているなら、なぜ反論する顔をしている」
レオンハルトの声は厳しかった。
ローヴェンは記録板を握る手に力を込めた。

「ここで止めれば、真実に届きません」
「真実のために悠真を壊すつもりか」
「違います」
ローヴェンの声が強くなった。
「ですが、封廟の奥にはまだ記録があります。白務院、聖務局、白封派、帰れなかった者たち。すべてが繋がりかけています。ここで引けば、聖務局が記録を再封鎖する可能性があります」
クラウディアの表情がわずかに動いた。
ローヴェンは続ける。
「それに、封廟はすでに反応しました。悠真さんが離れれば問題が消えるわけではありません。奥廟から声が聞こえた。閉じるな、また閉じるな、と」
悠真の右手が微かに疼いた。
その言葉だけで、声が蘇りそうになる。
レオンハルトはローヴェンを睨む。
「だからこそ危険だと言っている」
「危険だから調べる必要があります」
「順序を間違えるな。悠真の安全が先だ」
「安全だけを優先して封じれば、白務院と同じです」
その言葉に、レオンハルトの目が鋭くなった。
室内の空気が一気に張り詰める。
ローヴェンはすぐに言葉を補った。
「すみません。言い方が悪かったです。ただ、見なかったことにはできません」
レオンハルトは黙った。
怒りは残っている。
だが、ローヴェンの言葉が完全に間違っていないことも分かっているのだろう。
セイグラムが低く言った。
「今すぐ再調査はしない。だが、完全撤退もしない。それでどうだ」
レオンハルトは答えなかった。
ローヴェンも黙る。
セイグラムは続ける。
「悠真の回復を優先する。同時に、封廟の外で確認できる情報を集める。記録の写し、聖都内の動き、白封派の状況。地下に戻るかどうかは、その後に判断する」
現実的な妥協だった。
悠真は顔を上げる。
「俺は……」
全員の視線が向いた。
声を出すだけで、胸が重い。
それでも言わなければならないと思った。
「俺は、また封廟に行くべきだと思っています」
ミーナが不安そうに見る。
レオンハルトの眉が寄る。
「今のお前が言うことではない」
「今だから言います」
悠真は右手を押さえた。
「あの人たちの声を聞きました。怒りも、悲しみも、帰りたいっていう思いも。でも、全部を受け止められるわけじゃない。飲まれそうになりました」
「ならば」
「でも、聞かなかったことにはできません」
悠真は奥廟の方角を見た。
壁の向こう、床の下、封印のさらに奥。
そこにまだ誰かがいる。
それを知ってしまった。
「俺が帰るだけでは終わらない。そう思いました」
応接室が静かになる。

レオンハルトはしばらく悠真を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……ならば、次に行く時は準備を整える。無策で残響に触れることは認めない」
「はい」
ローヴェンも頷いた。
「私も対策を考えます。共鳴羽を媒介にして、残響との接続を一方通行にしない方法が必要です」
シオンが静かに言う。
「封具布の強化と、共鳴制御の補助具を用意します。今のままでは危険です」
「お願いします」
悠真は頭を下げた。
その時、マルセリオ司祭が静かに口を開いた。
「皆様に、もう一つお話ししておくべきことがあります」
全員の視線が彼へ向く。
マルセリオの表情は穏やかだった。
だが、その目には覚悟があった。
「白封派についてです」
クラウディアが反応する。
「司祭。その件は聖務局が管理しています」
「だからこそ、ここで話します」
マルセリオは穏やかに返した。
クラウディアは言葉を詰まらせた。
先ほどまでなら即座に遮っていただろう。
だが、封廟で見たものが、彼女の中の確信を揺らしていた。
マルセリオは続ける。
「白封派と一口に言っても、内部は一枚岩ではありません」
レオンハルトが腕を組む。
「穏健派と過激派がいる、という話か」
「はい」
マルセリオは頷いた。
「リーヴェルムには、古い封印を守ることだけを目的とする者たちがいます。彼らは白封派と呼ばれることもありますが、王都地下封印や外縁封印を開こうとはしません。古い祈りを守り、巡礼路を保ち、封印に不用意に触れぬよう戒める。そういう人々です」
「それが穏健派」
ローヴェンが確認する。
「はい。彼らは聖務局に不信感を持っていますが、王国を破壊しようとは考えていません。むしろ、聖務局が隠してきた記録によって封印の意味が失われることを恐れています」
悠真は黙って聞いていた。
白封派という名は、これまで危険な響きしか持っていなかった。
だが、マルセリオの説明では違う。
古い封印を守るだけの者たち。
歪んだ信仰ではあっても、過激派とは違う。
マルセリオの声が少し低くなる。
「一方で、過激派がいます」
クラウディアの表情が硬くなった。
「彼らは、王都地下封印や各地の外縁封印を“開放すべき聖地”と見ています。白き封印は閉じすぎた。門を開き、白き真実を現すべきだと主張する者たちです」
レオンハルトが目を細める。
「封印を守るどころか、開く側か」
「はい」
「それは白封派というより、封印破壊派だな」
マルセリオは頷く。
「本来の白封派穏健派から見ても、彼らは危険な分派です」
ローヴェンが問いかける。
「彼らは、悠真さんをどう見ていますか」

マルセリオは悠真を見た。
その視線には同情があった。
「門に触れた者」
その言葉に、悠真の右手が微かに反応した。
クラウディアも顔を上げる。
マルセリオは続ける。
「彼らは、天羽悠真殿を“門を開く鍵”だと考えています」
室内の空気が冷えた。
レオンハルトの表情が鋭くなる。
セイグラムが低く問う。
「根拠は」
「王都での一連の事件。雷翼鳥の卵との共鳴。王都地下封印への接近。南方外縁封印の一時安定。そして今回、リーヴェルムへ来たこと」
「情報が早すぎる」
セイグラムの声が硬くなった。
「南方外縁封印の件まで、なぜ過激派が知っている」
マルセリオは答えなかった。
代わりに、クラウディアが顔色を変えた。
「まさか……聖務局内部から」
レオンハルトが彼女を見る。
「あり得ない話ではない」
「聖務局は白封派過激派を取り締まる側です」
「表向きはな」
クラウディアは反論しようとして、言葉を止めた。
封廟で見た白務院の名。
聖務局の前身。
白封派と聖務局が同じ根から分かれた可能性。
それらが、彼女の反論を鈍らせていた。
マルセリオが静かに言う。
「聖務局全体が過激派と通じているとは思いません。ですが、聖務局の中に、白封派過激派の情報を意図的に隠している者がいる可能性はあります」
「隠している?」
クラウディアの声が震えた。
「私には、そのような報告はありませんでした」
「監察官であるあなたにも?」
「はい」
クラウディアは唇を噛んだ。
それは悔しさの表情だった。
自分が信じていた組織が、情報を隠していたかもしれない。
しかも、自分は監察官として派遣されながら、重要な情報を与えられていなかった。
セイグラムが短く問う。
「過激派の動きはどこまで分かっている」
マルセリオは少し躊躇した。
だが、すぐに答えた。
「リーヴェルム市内に入り込んでいます」
ミーナが息を呑む。
シオンがすぐに扉と窓へ視線を向ける。
レオンハルトの周囲に、微かな雷の気配が集まる。
「人数は」
セイグラムが問う。
「正確には分かりません。ただ、巡礼者に紛れています。白布を結び、祈りの列に混ざれば、外部者には判別できません」

「聖堂内には」
「完全には否定できません」
レオンハルトが低く言う。
「最悪だな」
クラウディアがマルセリオへ向き直った。
「なぜ先に言わなかったのですか」
「確証がなかったからです」
「今はあるのですか」
「封廟が反応しました」
マルセリオの声は静かだった。
「過激派が求めていたものが、反応したのです。彼らが動かない理由はありません」
悠真は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
門を開く鍵。
それが自分に向けられた言葉だと理解するまで、少し時間がかかった。
過激派は、自分を狙っている。
危険な異物として排除するためではない。
封印を開くために使うためだ。
レオンハルトが悠真の前に立つ。
「悠真を一人にするな」
セイグラムは即座に頷いた。
「警備体制を変える。シオン、ミーナ、聖堂内外の出入口を確認。クラウディア監察官、聖務局側で信頼できる者はいるか」
クラウディアは一瞬迷った。
「……この街では、すぐには断言できません」
「ならば使わない。マルセリオ司祭、穏健派で信用できる者は」
「います。ただし、彼らも表には出たがりません」
「出したくなくても出してもらう。今は隠れている場合ではない」
セイグラムの声には軍務側の硬さが戻っていた。
彼は続ける。
「宿泊場所は聖堂内か」
マルセリオが頷く。
「東棟の客室を用意しています」
「窓、出入口、地下通路、屋根への導線をすべて確認する。悠真の部屋は単独にしない。レオンハルト、君は近くに」
「言われるまでもない」
「ローヴェンは記録整理。ただし一人で動くな」
「分かりました」
「クラウディア監察官」
セイグラムは彼女を見た。
「あなたは聖務局の立場としてではなく、この場で見た記録の証人として動けるか」
クラウディアは沈黙した。
重い問いだった。
聖務局監察官としての忠誠。
封廟で見た真実。
白務院の名。
聖務局が過激派情報を隠していた疑い。
それらが彼女の中で衝突している。
やがて、クラウディアは静かに言った。
「私は、聖務局監察官です」
レオンハルトの目が冷たくなる。
だが、彼女は続けた。

「だからこそ、聖務局が隠しているものも監察します」
その言葉に、マルセリオがわずかに目を細めた。
ローヴェンも息を吐く。
レオンハルトはまだ警戒を解かなかったが、反論はしなかった。
セイグラムは短く頷いた。
「よし。ならば協力してもらう」
悠真はクラウディアを見た。
彼女の視線は冷たいままだ。
だが、以前とは少し違っていた。
悠真を災厄か鍵かと見定める監察官の目だけではない。
自分が信じてきたものを疑い始めた者の目だった。
その時、遠くで鐘が鳴った。
低い鐘の音。
リーヴェルムの街全体に響く、白い鐘。
マルセリオの表情が変わった。
「夕刻の鐘には、まだ早い」
シオンが窓へ近づき、外を確認する。
「広場に巡礼者が集まり始めています」
ミーナも別の窓から外を見る。
「白布を掲げている人が多いです。祈りの集まりにしては、動きが揃いすぎています」
セイグラムの声が低くなる。
「始まったか」
マルセリオは目を閉じた。
そして、静かに言った。
「おそらく、過激派が動きました」
悠真の右手が、また鈍く痛んだ。
封廟の残響とは違う。
外から近づいてくる何かに反応しているような痛みだった。
レオンハルトが即座に悠真の前へ立つ。
「悠真、下がれ」
クラウディアが聖印を握る。
「聖堂内の封印具を確認します。過激派が聖具に細工している可能性があります」
ローヴェンが記録板を抱え直す。
「彼らの目的は、悠真さんを封廟か奥廟へ連れて行くことかもしれません」
マルセリオは悠真へ向き直った。
その顔には、穏やかさよりも切迫があった。
「天羽悠真殿」
「はい」
「今夜、過激派が動きます」
応接室の外で、巡礼者たちの祈りの声が低く重なり始めていた。
白き聖都の静けさが、別のものへ変わっていく。
マルセリオは重い声で告げた。
「彼らはあなたを、門を開く鍵だと信じている」
悠真は右手を握りしめた。
封印を閉じる者。
縫い直す者。
門を開く鍵。
どの名も、自分が望んだものではない。
だが、今夜、その名を信じる者たちが動き出す。
白き聖都リーヴェルムの夜が、静かに歪み始めていた。
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