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修理屋は喫茶店の片隅で。

【あらすじ】

古びた喫茶店の店長として店を切り盛りする優。その隣では、元恋人の裕樹が名もなき修理屋を営んでいた。修理屋に持ち込まれるのは、壊れたモノだけではない。そこには、恋人と過ごした日常の匂い、故人に対する葛藤や家族へのメッセージ、諦めきれなかった夢までもが詰まっていた。依頼品に宿る思いに触れるたび、衝突しながらも互いに補い合っていく二人。常連客や従業員を巻き込みながら、なおせるものとなおせないもののあわいに向き合っていく。
働くこと、生きることの意味を見つめながら、修理屋と喫茶店の日々を通じて、誰かの居場所を育てていく物語。


第1章「トースターと朝の匂い」

「もう朝だよ!」

私は事務所のテーブルを片付けながら言った。目の前のソファーには裕樹が転がっている。相変わらず大きないびきだ。
喫茶店に少し早く出勤してきた、バイトのチヨちゃんが裕樹の肩をゆすりながら言った。

「裕樹さん起きてください。私の朝ごはんが遅くなります。」

「また勝手なことを。どうせ金欠でとか言うんだろ。ところで優、今日の朝食はなんだ?」

「いい加減にしてよ。私はあなたたちのお母さんじゃないんだから!」

そう言いながら三人分の朝食を用意していた。
このぐうたら店主のやっている修理屋が喫茶店と隣り合っていなかったら、さすがにここまではやらないと思う。
朝食を食べ終えると、私は喫茶店のシャッターを開けた。
ドアにぶら下がっている鈴が鳴るのを確認して、営業中の札をかけた。

* * *

若い女性客はスマホの画面で古びたトースターの写真を見せていた。

「だいぶ年季が入っていますね。多分このタイプのトースターなら、最近はこれより安くていいのが買えますよ。」

裕樹はテーブル越しに前のめりになって話していた。

「これじゃなきゃダメなの。他のは、あのいつもの匂いがないのよ。」

匂い? いったい何のことだろう。

裕樹はいつにも増して熱心に話していた。彼女も話すほどに声のトーンが上がっていくのがわかった。
一通り話し終えると、彼女はソファーから立ち上がった。裕樹も合わせて立ち上がった。

彼女は事務所の外に出ると、表の駐車場に停めてある車からトースターを重たそうに抱えて出てきた。
裕樹がドアを大きく開けてエスコートする。
私の両手が塞がっていても、ドアなんか開けてくれたことないのに。
女性客はテーブルにトースターを置いた。裕樹はトースターの煤けたガラス窓をじっと見つめながら、顎に手を当てて頷いた。

「なるほど」

私は裕樹の横顔をじっと見つめていた。

「はい?!」

素っ頓狂な声を出してしまった。

「だから預かり証!」

「えっ、あ、はい。すぐに準備します。」

慌てて机の引き出しを漁った。

「お客様、ではこちらに記入をお願いします。」

書類と一緒にボールペンを渡す。
彼女は書き終えると、書類をテーブルに残したまま、ペンだけをあえて私に手渡してきた。

「ここの店主さん、素敵よね。」

耳元で囁かれた。彼女は子供っぽいイタズラな笑みを浮かべている。
不意打ちを食らって、私は何も言い返せずお辞儀だけして見送った。

「優、顔が赤いぞ。具合でも悪いのか?」

呑気な男だ。私の耳は熱を帯びていた。

修理の接客を終わらせて、喫茶店に戻った。そのドアは、喫茶店のカウンターの内側につながっている。
今日もチヨちゃんがお客様の相手をしてくれていた。
茶髪のショートヘアがよく似合っている。お客様に呼ばれる度に、短い髪を小刻みに揺らしながら小走りする姿は、まるで人懐っこい犬のように見える。

常連さんの中にもチヨちゃんのファンは多い。

「店長、子守りは終わりました?」

「チヨちゃん、いつも言ってるけど、その言い方はやめてよ。お母さんじゃあるまいし。」

「だけど毎朝、裕樹さんを起こしに行ってますよね。しかも朝ごはんまで作ってるし。」

「そうだけど、今のはお客様の接客よ。っていうか朝ごはんは、あなたもしょっちゅう食べてるでしょうが。」

「ありがとうございます。おかあさん。」

「もう! やめてよ。そんな歳じゃないもん!」

つい我を忘れて怒鳴ってしまう。
カウンターでコーヒーを飲んでいるお客様に思いっきり笑われた。よく見ると奥のテーブルのお客様も肩を震わせている。
恥ずかしくてひたすら洗い物に専念した。しばらくして裕樹がカウンターに座った。

「優、やっぱり今日熱っぽくないか?」

食器を洗っていた手に力が入る。マグカップを投げつけるところだった。

裕樹はコーヒーを飲み終えると、すぐに事務所に戻っていった。
まあ、どうせいつもの通り昼寝でもするのだろう。
いまだに裕樹の生活スタイルには納得がいかない。
私は昼寝どころか、日中は休む暇もないのに。
そんなことを考えながら、絶えず手を動かしていた。

外が薄暗くなり始めた。
同時に室内がやや冷え込んできた気がする。慌てて部屋と看板の明かりをつけた後、店内の暖房を入れた。
日中はだいぶ暖かくなってきたが、まだ夜は寒い。
最後のお客様が帰った後で、看板の明かりを消した。

チヨちゃんも帰り、喫茶店の閉店処理をしながら少し遅い晩御飯を食べる。自分で作ると、つい得意のナポリタンばかりになってしまう。
やっと片付け終わり、いつものように隣の修理屋を覗きに行った。事務所には誰もいない。
シャッターは下ろしてあるが鍵はかかっていなかった。軽くため息をつきながら鍵をかける。
事務所を抜けてそのまま作業場へ向かった。

作業場はとにかくものが多くて圧迫感があった。壁一面に、大小様々な部品と工具が並んでいた。
明るいはずの部屋なのに、この壁のせいで視界はいつも暗く感じた。

そんな部品や工具に見つめられながら、裕樹がちょうど修理を始めていた。
裕樹は、ただ目の前の「モノ」に集中している。
当然のように私のことは視界に入っていない。
黙々と修理対象を観察していた。
思考が、そのまま独り言としてだだ漏れになっていた。

「匂いか。やはり間違いなさそうだな。」

裕樹がつぶやく。

「かなり煤けている。パン屑か。」

裕樹がトースターを少し傾けると、炭になったパン屑が砂のようにこぼれ落ちた。

「長年こびりついたこのパン屑が絶妙に香りを足していたわけか。このくたびれたヒーターの温度も絶妙な関係で……」

なるほど、そういうことだったのか。

「スイッチの接触不良や配線の断線ならそのまま修理しても問題なさそうだ。ヒーターの断線となると色々厄介だな。テスターで調べよう。食べ物が触れる部分だから、分解する時は気を付けないと……」

何を言っているのか、さっぱりわからない。だけど、裕樹の声は私の脳の奥まで入り込んでくる。

「よかった。スイッチの接触不良だ。これなら庫内に触らず修理できるぞ。スイッチの見た目は変わるがそこは問題ないか。」

裕樹は在庫の棚からスイッチを物色し始めた。ここからはあっという間だった。
スイッチをハンダで取り付け、ボタンのサイズを器用に調整してはめ込んでいた。
そして動作チェックをする。
しばらくして、この場に似合わない少し焦げたようなトーストの匂いが立ち込めた。

「修理完了だ。」

静かにそう言うと、裕樹は大きく伸びをして、椅子に深く座り込んだ。
遠目に電源の切れたトースターの中を覗くと、薄汚れたガラス越しにヒーターがまだうっすら赤みを帯びているのが見えた。
今日は声をかけずに帰ろう。
背を向けるといびきが聞こえてきた。
裕樹に毛布を掛けて、そのまま音を立てないようにゆっくりとドアを閉めた。

* * *

修理を終えてから三日が経っていた。
今朝も喫茶店を開ける前に、裕樹を起こしに行く。事務所の二階が部屋のはずだが、そこに裕樹がいることはほぼなかった。
事務所のテーブルにはビールの缶が転がっていた。昨日のコンビニ弁当の容器もそのままだった。
片付けながらソファーの前に立つと、いつも通りいびきをかいて裕樹が寝ていた。
裕樹の寝顔を見た。昔の記憶が蘇ってくる。無意識に顔を近づけていた。さらに唇を近づけたところで、我に返る。慌てて離れた。

「朝だよ。いい加減起きなよ。今日はお客様がトースターを取りに来るんだから。早くシャワーでも浴びてシャキッとしてきて!」

裕樹の肩を大きくゆする。

「母親みたいだな。」

私だって、こんなのは嫌だ。

裕樹を事務所から追い出すと、窓を全開にして空気を入れ替えた。一緒に今の私の気持ちも入れ替える。少しスッキリした。

* * *

彼女は昼過ぎにトースターの引き取りにやってきた。
裕樹は普段よりも、浮かれているように見えた。

彼女は私を見るなりニヤリと笑った。
その笑顔は一体どういう意味なの?

私は一旦、喫茶店に戻った。
状況が分かるようにドアは開けたままにしておいた。

事務所で、二人はだいぶ長く話している。ほとんど裕樹が喋っていた。時々大きな笑い声も聞こえてきた。
少し経って、裕樹がやっと作業場からトースターを持ってきた。私も事務所に入る。
コンセントを挿すと、裕樹はおもむろにスイッチを入れた。しばらくして部屋にトーストの香りが広がった。

「ありがとうございます。」

ただそれだけだった。

あとは支払いのやりとりが済めば完了だ。
裕樹はいつも自分からお金の話をしない。
事務員の私がその役だった。

喫茶店が軌道に乗る前、裕樹は私を事務員として雇ってくれた。
今はもう生活の心配はないが、まだその延長線上で修理屋の事務全般をやっている。

私は修理費用を請求するのに抵抗があった。
持ち主の思い出にも値段を付けているようで、気が引けるからだ。
壊れても新しい物が簡単に手に入る時代。
修理しようと思うのには、たいていそれなりの理由がある。
まあ、今回は重たい依頼ではなさそうなので、やりやすいけど。

話を切り出すタイミングを窺っていると、彼女が先に聞いてくれた。

「おいくらですか?」

「諸経費など込みで15,000円です。」

事前に裕樹から聞いていた値段を伝える。
確かに新品が買える値段で、直すには高い気もした。
匂いのためだけに修理するだろうか?

「思ったよりは安くてよかったわ。」

支払いをしながら彼女は聞いてきた。

「そちらのカフェでコーヒーをいただいてもよいかしら。あなた、そこでも働いているんでしょ?」

彼女は私のエプロン姿を見て言った。

「コーヒー、ぜひ飲んでいってください。サービスでお出ししますよ。一応私のお店なんです。修理品はそのままでいいですよ。」

「オーナーさんだったのね。失礼しました。」

「お客様、こちらへどうぞ。裕樹さんはお仕事に戻っていただいて大丈夫ですよ。」

「優、なんだよその言い方。お客さん、よければ喫茶店で無料のトースターお手入れ講座を開きますよ! しかも飲み放題です!」

本当にバカだと思う。私のお店を何だと思っているのか。

「魅力的なお話だけど、カフェでは気が引けるし、お仕事がお忙しそうだからまたの機会にお願いします。優さん、行きましょう。」

彼女は私の手を取ってくれた。
彼女をカウンターに案内して、自慢のブレンドを出した。
コーヒーを飲み終えると、彼女は満足そうに「ありがとう」と言ってすぐに帰っていった。
私がトースターのことに気づいた時には、すでに車は走り去っていた。

そんなにあっさりと忘れるものかな。
少し釈然としなかったが、直ったトースターを見た時の彼女の態度を思い出して納得することにした。

裕樹がソワソワしながら待っているのを想像すると笑ってしまう。
ちょっとかわいそうだから、いつもより少し早めに事務所に行こうかな。

* * *

それから数日後のある日。
喫茶店のドアが開いた。吊るしてある鈴が来客を知らせる。
私はこのドアにかけてある鈴が好きだ。
電気的なチャイムと違って、人によって鳴り方が変わる。ドアの開け方ひとつで、その人の個性が滲み出るのが面白い。常連さんだと鈴の音だけで誰だかわかることも多かった。

この鈴は昔の喫茶店時代からあるが、留め具が外れかけていて、最初はうまく鳴らなかった。
それを裕樹がいつのまにかなおしてくれていた。
まだ不安でいっぱいだった頃の話だ。当時、会話は少なかったけど、裕樹が喫茶店を見守ってくれているようで心強かった。

鈴を鳴らしたのは、先日のトースターのお客様だった。
あの後、数日中には取りに行くので、預かっておいて欲しいと頼まれていた。

「トースター、ごめんね。預かっていてくれてありがとう。」

「こちらこそ、この前はありがとうございました。」

「お隣の店主さんはお元気?」

「相変わらずです。それにしても人のお店でお手入れ講座って、あいつ、ほんとバカですよね。思い出して腹が立ってきました。」

「ふふっ。」

お客様は声に出して笑っていた。何がそんなにおかしいのだろう。

私は注文を受けて、カウンター越しにコーヒーとトーストを出した。

「どうぞごゆっくり。あなたのトーストとは違うかもしれないけど、これはうちの自信作なんですよ。」

厚切りのトーストはうちの看板商品だ。
外はパリパリ、中はモチモチ。焼き色にもこだわっている。そして季節のジャムを添える。今はいちごジャムだ。ゴロゴロした具沢山の自家製ジャムは他ではなかなか食べられないと思う。

「トースターは帰りに取りに行けばいいですよ。今度は忘れないでくださいね。」

「ありがとう。そうするわ。ここはカフェというより喫茶店って感じね。お料理も美味しいし、この雰囲気、好きよ。」

思わず口元が緩む。

「元々は親の店だったんですけど、長く営業していなくて。二年前に新しいお店として始めました。あまりお金がなくて中身は当時のままなんです。」

「逆にそれがいいのよ。もっと立地がよければ相当人気が出ると思うわ。」

「人気になるなんて想像できませんよ。素敵なお店は他にたくさんありますから。それに今でも手一杯です。」

「そうかしら。相当流行ると思うけど。」

言われて想像してみたが、イメージが全く湧かなかった。

「で、彼とはどうなの?!」

むせて咳き込んでしまった。

「どうって何がですか?!」

「わかってるくせに。」

「今は、そんなんじゃないです。」

「本当にウソが下手ね。彼を見てた時のあなたの顔、写真に撮っておけばよかった。」

「ウソなんか言ってません!」

ムキになったのは逆効果だった。

「じゃあ、まずは私があなたの知りたそうなこと、話してあげる。そしたらあなたのこと、もっと教えてね。」

彼女は私の返事を待たずに続けた。

「トースターを直そうと思った理由。この前、聞きたそうだったでしょ?」

確かにずっと気になっていた。事実、トースターの匂いというだけでもかなり興味が湧いていた。

「じゃあ、教えてください。」

無意識に身を乗り出してしまう。

「少し前に男と同棲してたの。途中から私、あいつのお母さんみたいになってた。ダメ男ってなんか、つい面倒見ちゃうのよね。」

私は大きく頷いて同意していた。
彼女はコーヒーを口に運んでから続けた。

「同棲してから毎朝トーストを焼いて食べるようになったの。いつも朝は一緒に食べてた。」

彼女はトーストの上にのせたジャムのイチゴをスプーンの背で潰していた。

「しばらくして彼が突然死んだ。仕事中に倒れたって。正直、別れようと思ってたから平気だった。」

彼女はジャムをトーストに塗り伸ばしながら続けた。

「実際、何の感情も湧かなかったの。」

「彼が死んでからはトーストも食べなくなった。
生活も自分のペースに戻った。何もなかったかのように元通り。それが怖かった。」

私はずっと無言で聞いていた。

「だから前みたいにトーストを食べたら何か感じると思って、あのトースターで焼いて食べた。だけど何も感じなかった。」

「たぶん私、壊れてるんだ。」

まだ何も言えず、彼女の顔をじっと見つめることしかできなかった。

「それでも時々焼いて食べてた。そしたらしばらくして、トースターが壊れちゃった。たまたま別のもあったから、その日は違うやつでトーストしたの。」

彼女はコーヒーを口に含んだ。喉を流れる音が聞こえた。

「そしたらね、匂いが違ったの。全く違う。それでなぜか涙が出てきた。また別の日に同じトースターで焼いたけど今度は涙、出なかった。」

「だから、あの匂いをもう一度嗅ぎたいと思ったの。」

私は小さく頷いた。

「ここで最初に新しいのを買った方がいいって言われた時、そのまま帰るつもりだった。だけど私、匂いのこと、無意識に話してた。余計なこと言っちゃった。」

彼女はコーヒーを飲んでペースを整えた。

「たぶん本当は、私をなおしてほしかったんだよね。トースターは怖くて持ち帰れなかっただけ。勝手なことしてごめんなさい。」

私は思わず彼女の両手を握りしめた。

「あなたは壊れてなんかいないです。だからなおすなんて言わないでください。」

「よしよし、泣かないで。ありがとう。」

言われて視界が滲んでいることに気づいた。なぜか私が慰められていた。

「今度はトースター、持って帰るよ。」

彼女の声は柔らかかった。
きっと大丈夫、そんな気がした。


第2章「洗濯機とボタンのお守り」

日が沈んでしばらくした頃だった。
ドアの鈴が鳴ると、お客様が入ってきた。
スーツを着た眼鏡の若い女性だ。彼女は常連さんで、いつも晩御飯を目当てにやってくる。
この時間は裕樹も晩御飯を食べることが多いので、よく居合わせていた。
彼女の口数は少なく、注文以外の会話はほとんどなかった。代わりに、遅い時間なのにスマホの呼び出しに対応しているのを何度も見かけた。
先ほども上司と思われる人と話しているようだった。しきりに謝っている。いつも猫背気味だったが、電話中はさらに丸くなっていた。
彼女は電話を切った直後に、声を出して愚痴を言っていた。

「わかってるわよ。一日くらい休みがなきゃ洗濯機の修理すら頼めないじゃない。コインランドリーだって馬鹿にならないんだから。」

どうやら洗濯機が壊れているらしい。ちょうど修理屋が目の前にいる。彼女に修理を勧めようと思ったけど、本人が忙しいなら、さすがに無理だと思った。裕樹も聞き流すだろうと思っていたので意外だった。

「あの、すみません。」

裕樹は、彼女の座っているテーブルに近づくと、申し訳なさそうに声をかけていた。

「実は、私、隣で修理屋をやっておりまして、出張修理も対応しています。洗濯機の修理も可能なのですが、ご興味があればと思いまして。ご迷惑でしたらすみません。」

そう言って修理屋の名刺を渡していた。

「ありがとうございます。すごくありがたいお話なのですが、私自身が日中に休みが取れなくて。」

「お忙しそうですよね。なんとなく聞こえてしまいました。もしよろしければ、遅い時間でもご指定いただければ伺います。ご迷惑でなければですが。」

「本当ですか?」

彼女の目が一瞬輝いたが、次の瞬間には表情が曇っていた。

「あ、でも、やっぱり、ご迷惑ですよね……」

裕樹が察して補足する。

「費用は概算ですが事前に見積します。あと男ひとりで伺うのは心配でしょうから、彼女に同行してもらうことも可能です。いいよな、優?」

裕樹は私の方を見ながら言った。
私は笑顔で答えた。

「もちろん。お店を閉めた後であれば、時間も大丈夫です。」

裕樹にしては、かなり気が利いた提案だ。正直、私はそこまで考えつかなかった。

「それでしたらぜひお願いしたいです。」

彼女の目がまた輝いた。不安は払拭されたようだ。

次の日に早速、修理に行くことになった。
お店を閉めてすぐに、裕樹の運転でレンタカーでお客様のもとへ向かった。少し距離があるが、事情があるだけに仕方ないだろう。

裕樹は車内では口数が少なかった。
そういえば今朝、気になることがあった。

「朝、うなされてなかった?」

起こしに行った時にその場で聞いたけど、その時ははぐらかされた。

「前の仕事の夢を見た。」

「どんな?」

「別にいいだろ。」

車のエンジン音と、タイヤが発するロードノイズだけが車内に鳴り響いていた。

「彼女、仕事大変そうだよね。」

当たり障りのないことを言ってみた。

「そうだな。」

会話が面倒くさいというより、何かを考えているようだった。

「何か、気になることでもあるの?」

「ああ。彼女、喫茶店で見かけるといつも疲れてそうだろ。電話してる内容もあまりいい感じではないし。聞くつもりはなかったけど。」

驚いた。てっきり洗濯機の修理手順でも考えているのかと思っていた。裕樹が他人のことで考えにふけるなんて。

「事情、聞いてみる?」

「バカ、やめとけ。」

確かにその通りだと思った。

彼女の家の前に着いた。狭い路地に面したアパートだった。駐車場がないので、引き返してコインパーキングに車を停める。
少しでも役に立ちたいと思って、トランクから工具ケースを出そうとするが、重たくて全く動かせなかった。

「危ないぞ。」

そう言うと、裕樹は片手で軽々と工具ケースを持ち上げた。

「早く行こう。」

5階建てのアパートにはエレベーターがなかった。4階まで階段で上がる。さすがに疲れた。裕樹も同じようだ。

「これは、きつい、な。」

「そう、だね。」

近頃、運動不足だった自分を恨む。
この階段は、仕事帰りの疲れた体には堪えるだろうと思った。
玄関先に着いたが、呼吸が整わないので、なかなかインターホンを押せない。

「いい?押すよ。」

「ああ。」

チャイムが鳴ると室内からガタガタ音がした。
しばらくしてインターホンから声が聞こえた。

「どちら様ですか?」

「洗濯機の修理で伺いました。」

ドアが開く。
そこには、もこもこのルームウェアを着た気の弱そうな女性が立っていた。喫茶店にいる時とはまるで別人だ。緊張しているのか、眼鏡の奥の大きな瞳はせわしなく動いていた。

「どうぞ。狭いので気を付けてください。」

確かにお世辞にも広いとは言えなかった。本当に洗濯機は中にあるのだろうか?
長居しない方がいいと思って、すぐに用件を切り出した。

「洗濯機はどちらに?」

「こっちです。」

狭い脱衣所の隙間に、ぴったりはまった縦型の洗濯機があった。

「水がいつまでも溜まらなくて、次に進まないんです。」

「確認します。作業する間、あちらでお待ちいただけますか?」

少し間を置いてから、彼女はあえて私の方を見て言った。

「わかりました。」

お客様と一緒に私も脱衣所から出た。

「お仕事、お忙しいんですね。」

間をつなぐために言ってみた。

「はい、あの、今日はありがとうございます。普段はこんな時間にやってませんよね?」

「そうですが、個人のお店なのであまり気にしないでください。」

「すみません……」

変な気を遣わせたかもしれない。あまり余計なことを言うのはやめた。長い沈黙が続いた。
すると突然、思い出したように彼女が話し出した。

「洗濯機、上京する時に両親が買ってくれたものなんです。だから買い替えるのも、ちょっと迷っていたんです。お金がないのもありますけど。」

「そうだったんですね。」

さっきの長い沈黙は、彼女なりに気を遣って会話のネタを考えていてくれたのかもしれない。

「修理完了。」

裕樹の声がした。手際が良くて助かる。

「服のボタンと糸くずが排水バルブに挟まっていました。バルブが閉じきらなくて、いつまでも水が溜まらなかったようです。部品交換はないので、作業費のみで大丈夫です。」

そう言ってボタンを手渡していた。渡したのはボタンだけで、糸くずは取り除かれていたようだった。
最後に洗濯機を動作させて、水が溜まるのを確認してもらった。裕樹が目で私に合図をしてくる。私はそれに応えて頷いてから言った。

「金額は見積書の通りです。あと、こちらの書類にサインをお願いします。」

支払いを終えた後、帰り際に玄関先で言われた。

「ありがとうございました。洗濯の不安がなくなって少し気持ちが楽になりました。まだまだ頑張れそうです。」

私は素直にうれしかったが、裕樹は少し不満そうな表情をしていた。

「頑張りすぎるのも考えものですよ。今度はあなたが壊れてしまう。」

本心だろう。少しも笑っていなかった。

「まあ、命の洗濯もしてください。なんちゃって!」

私には裕樹が慌てて取り繕ったようにしか見えなかった。彼女は笑っていたが、私は笑うことができなかった。
彼女が最後まで、洗濯機から出てきたボタンを握りしめていたのが印象的だった。

帰りの車内でも、裕樹は無口だった。

「洗濯機まで直せて、やっぱり裕樹はすごいね。」

また当たり障りのないことを喋ってしまう。

「ああ。」

まったく関心のない返事だった。

「今月も修理、あってよかったね。」

「なくてもいいんだけど。」

「なんで?」

「たまに会社相手に技術相談なんかもやってるから。」

知らなかった。道理で余裕なわけだ。
それにしても今日の裕樹は上の空な気がする。
普段なら、はぐらかされていたに違いない。
すると今度は裕樹から話し出した。

「喫茶店で電話してた時の彼女、なんだか放っておけなかったんだ。」

「確かに裕樹からあんな提案するなんて意外だった。」

「昔の後輩に似てたんだ。後輩は男だったけど。」

昔の仕事の話を、直接聞いたことがなかったから、さらに意外だった。大手の会社で装置を開発していたのは、かろうじて聞いたことがあった。

「どのあたりが似てるの?」

「ひたすら頑張るんだよ。不器用なのに。俺の期待にも応えようとしてさ。まあ彼女みたいに裏で俺のことはボロクソ言ってたんだろうけど。」

「後輩のこと、何も考えずにいたわけじゃないでしょ。今頃は感謝してるんじゃない?」

「それはない。体調を崩して、休職して、俺より先に辞めた。」

軽いノリで言ってしまったのは軽率だった。

「今朝見たのはその後輩の夢だよ。俺みたいな奴が人を壊すんだ。」

少し間を置いて、今度は言葉を選んで伝えた。

「裕樹が前の会社で、どんなふうに仕事をしていたかは私には分からない。でも今は、裕樹の気持ちは彼女に届いていると思うよ。裕樹は初めから彼女のことを考えてあげられてたじゃない。」

「そうかな。」

「うん。」

「だといいな。」

またしばらく無言になる。
さっきまでと違って静かな車内も気にならなくなった。無理に話さなくてもいいと思った。

* * *

洗濯機の修理から一か月ほどが経っていた。
彼女はあれ以来、まだ一度も喫茶店に来ていない。
ずっと気になっていた。

「最近、洗濯機のお姉さん来ないね。」

晩御飯を食べている裕樹と話していた。

「たまたまだろう。」

「そうなのかな。」

裕樹は晩御飯を食べ終えると事務所へ戻って行った。

その直後だった。洗濯機の彼女が喫茶店に入ってきた。服装がスーツからオフィスカジュアルに変わっていた。そしていつも通り、注文以外の会話はなかった。
いてもたってもいられなくなり、自分から聞きに行った。

「洗濯機の調子はどうですか?」

「はい、特に問題ありません。」

「お久しぶりですよね。だいぶ雰囲気変わりましたね。」

彼女はあたりを見回すと小さな声で答えた。

「前の仕事を辞めて就活してました。最近、次の会社が決まったんです。」

「そうだったんですね。」

ふと彼女が肩掛けしているスマホホルダーに目がいった。ストラップに、先日の修理で出てきたボタンがぶら下げてあった。

「そのボタンって、この前のですか?」

「記憶力がいいんですね。これ、お守りにしてるんです。」

「お守り?」

「このボタンが付いていたシャツ、お気に入りなんです。両親が、社会人ならシャツもいいものを何枚か持っとけって、それで買ってくれたんです。」

「優しいご両親ですね。」

「洗濯機もシャツも、社会人になる時に両親が買ってくれたものなんです。だからこのボタンが洗濯機から出てきたのは、私へのメッセージのような気がして。」

そう言ってボタンを指でつまんでいた。

「しばらくお見えにならなかったので、少し心配だったんですけど、安心しました。」

「すみませんでした。また時々は来れると思います。」

「ぜひ、これからもいらしてください。お待ちしております。」

それ以上の会話はなかった。
いつも猫背だった彼女の背中が、少し伸びていたのが印象的だった。


第3章「たからもの入れの中身」

「チヨちゃん、最近、寝不足だったりしない?」

ぱっと見は元気そうだが、最近は目の下のくまが気になっていた。

「実は少しだけ。最近イラストの勉強を再開したんですよ。」

「チヨちゃんなら勉強しなくても十分うまいんじゃないの?」

お店のあちこちに貼ってあるポップは、全てチヨちゃんが描いてくれたものだ。かわいい動物たちがメニューを紹介していた。

「私なんてまだまだです。実際、芸大には受からなかったし。プロを目指すには全然足りないんです。」

「厳しいのね。だけど無理しちゃダメよ。倒れたら、元も子もないんだから。」

「確かにそうですね。ありがとうございます。」

チヨちゃんは別の大学には行かず、フリーターとして生計を立てていた。イラストレーターの夢も追いかけながら、自立して何年もやれているのは、立派だと思う。私が喫茶店を始めた頃は、裕樹の助けがないと、まともに生活すらできなかったのだから。

そんなチヨちゃんのファンである鈴音ちゃんが、今日も喫茶店に来ていた。

鈴音ちゃんは近所の高校に自転車で通っていた。
少し前にその自転車が壊れて、修理で来店したのがきっかけだった。
修理の待ち時間に喫茶店で見た店内のポップに一目ぼれしたらしい。
それをチヨちゃんが描いたと知って、その場で弟子入りを志願していたほどだった。

それ以来、鈴音ちゃんは学校の帰りに時々寄ってくれるようになっていた。

チヨちゃんも鈴音ちゃんのことを気に入っていて、喫茶店の外でもよく会っているらしい。
鈴音ちゃんが美術部ということもあって、画材屋さんで会うのが二人の定番だそうだ。

「チヨさん、今日も絵の描き方を教えてください!」

「見ればわかるでしょ。今仕事中。」

「ちょっとくらいいいじゃないですか。」

毎回こんなやりとりをしていた。
店内にいる人たちは、このやりとりをみんなニコニコして聞いていた。私も癒されていた。

「ふたりとも癒しをありがとう!」

私は心の中で毎回言っていた。

鈴音ちゃんがいつものセットを注文する。

「店長さん、ココアとトーストお願いします。」

「はい。ありがとうございます。」

「あ、新作のポップだ! かわいい!」

鈴音ちゃんが私の背後にある新しいポップを見つけた。

「いいでしょ。最近本気で勉強しなおしてるから、結構自信あるんだ。」

チヨちゃんが自慢げに言っていた。

私はココアとトーストの準備ができると、鈴音ちゃんのいるテーブルへ向かった。

「お待たせしました。」

鈴音ちゃんはさっそくトーストを美味しそうに頬張っていた。
食べるのに夢中になっている姿がポップのキャラクターによく似ていると思った。

「もしかして?」

そう言ってチヨちゃんのほうを見た。チヨちゃんは満面の笑みを浮かべていた。
鈴音ちゃんは私たちのやりとりには気づいていないようだった。

* * *

「優、気づいてるか?」

修理屋の事務所を掃除している時だった。裕樹が唐突に聞いてきた。

「なんのこと?」

「さっきからスキンヘッドの男が、遠くからお前の店の中を覗いてるぞ。」

「うそでしょ。うちの店なんか覗いてどうするのよ。」

その時だった。スキンヘッドの男が真っ直ぐに喫茶店へ向かってきた。手には段ボール箱を抱えている。

「店に来るぞ。」

慌てて喫茶店に戻る。裕樹にもついてきてもらった。まもなく喫茶店のドアが開いた。

「いらっしゃいませ!」

チヨちゃんの元気な声が店内に響き渡った。

「あ、鈴音ちゃんのお父さん!」

「えっ!」

裕樹と声が被った。鈴音ちゃんのお父さん? チヨちゃんの知り合い?

「店長、鈴音ちゃんのお父さんですよ。……お父さん、で間違いないですよね?」

「はい。でも何で私のことを? あ、もしかしてチヨさんですか?」

「そうです。」

「娘が大変お世話になっております。」

「一体どういうこと?」

チヨちゃんが事情を教えてくれた。
チヨちゃんは鈴音ちゃんからお父さんの写真を何度も見せられていたから、すぐにわかったらしい。

「その段ボール箱は?」

裕樹が鈴音ちゃんのお父さんに聞いた。

「これは、その、鈴音から喫茶店で修理をやっていると聞いたんですが、本当にこちらで合っていますか?」

「それは隣の修理屋のことだと思います。」

私は裕樹の方を見て言った。裕樹が頷く。

「お隣ですか? 失礼しました。鈴音は相変わらずいい加減だな。」

そう言ってスキンヘッドを撫でていた。
修理の話とわかったので、場所を事務所に移した。

「娘がいつもお世話になっております。皆さまに、とてもよくしてもらっていると聞いております。」

「いえいえ、こちらこそ。」

私は思わずそう言った。お父さんは少し不思議そうな表情を浮かべていた。

「今日はどのようなご依頼ですか?」

裕樹が聞いた。

「すみません。お忙しいのに失礼しました。お願いしたいのはこれです。」

そう言って、段ボールから緩衝材に包まれたお弁当箱くらいの小さな箱を取り出した。
包みを開けると、キラキラしたガラスビーズが散りばめられた木製の小箱が現れた。鍵付きの箱のようだ。箱自体にも細かな彫刻が施されていて、いかにも高級そうだった。

「これは鈴音と母親がよく遊んでいたオルゴールです。」

「どこが壊れているんですか?」

裕樹が聞いた。

「この鍵が壊れていて、開かないんです。」

「鍵か……」

裕樹の表情が少し険しくなった。

「鈴音はよく美鈴とこのオルゴールを聞いていました。『たからもの入れ』って言いながら、これで一緒に遊んでいたんです。」

お母さんは美鈴さんというらしい。私は気になったことを聞いてみた。

「なんでこのオルゴールを直したいんですか?」

鈴音ちゃんのお父さんは少し間を置いてから答えてくれた。

「実は美鈴はもうこの世にいません。鈴音が小さい時に病気で亡くなりました。美鈴のいる病院に通っている時に、美鈴と鈴音は二人でよくこのオルゴール箱で遊んでいたんです。」

少し間を開けて、鈴音ちゃんのお父さんが続けた。

「美鈴が亡くなってから、これを見るのが辛くて。私が勝手にしまい込んでいたんです。鍵はその時に間違って壊してしまったようで。」

鈴音ちゃんのお父さんは切ない表情をしていた。

「最近、鈴音がオルゴール箱はどこにあるかって聞いてきたんです。忘れているものだとばっかり思っていました。
正直に鍵を壊してしまったと言えばいいのですが、それができなくて。なんとか元通りの状態で渡したいんです。」

私も裕樹もしばらく黙り込んでしまった。

「分かりました。優、預かり証を。」

裕樹が言った。

「はい。」

書類を準備した。

「正直、このような工芸品を扱うのは非常に難しいです。時間を要する作業になるでしょう。修理できない場合もあります。箱や中身を傷つけてしまう可能性もゼロではありません。何が入っているかは、わかりませんが、修理をすれば先に私が見ることにもなります。」

裕樹がいつになく丁寧に説明していた。

「中身は見ていただいて構いません。時間もお金もかかるのは承知しています。」

依頼品を裕樹に託すと、鈴音ちゃんのお父さんは満足そうに帰っていった。

「修理、大変そうだね。」

「そうだな。」

空気が少し重たかった。私は話題を明るい方向に振ってみた。

「鈴音ちゃん親子、本当に仲が良さそうだったね。」

「そうだな。それにしても全く違うな。」

「そうかな。根が真面目そうな感じはそっくりだと思うけど。」

「違うよ。あの父親の見た目からどうしてあんなにかわいい子が生まれるんだ?」

「それは失礼よ。確かに似てないけど。」

「目元だけはそっくりだったぜ。」

失礼と分かっていながら二人で笑ってしまった。

* * *

裕樹はこのところずっと作業場にこもっていた。それだけ修理は難航しているのだろう。
裕樹はほぼ一日中、休みなく作業していた。
私の差し入れはかろうじて食べていたけど、放っておけば何も口にしない状態だった。

オルゴール箱を預かってちょうど一週間が経った。

「傷付けずに、もとの状態を保ったまま修理するのは無理かもしれない。」

まさかの敗北宣言だった。

電化製品の修理と工芸品の修理は性質が違うようだった。
工芸品は、傷を付けたり、形を少しでも変えてしまえばそれは修理ではなくなる。
裕樹が前に言っていたセリフを思い出した。

でも、私は諦めてくれて安心した。そのまま作業を続けていたら、本当に倒れるまでやめないだろうと思った。

次の日、鈴音ちゃんのお父さんへ私が電話で状況を説明した。そして引き取りをお願いした。

裕樹はいつになく落ち着きがなかった。部屋をずっとうろうろしている。まだ箱の開け方を考えているようだった。

「引き取りに来ました。」

鈴音ちゃんのお父さんがやってきた。

「お電話で内容は理解しました。壊してまで開けるものでもないですし、鈴音には鍵を壊してしまったことは正直に伝えて謝ります。ありがとうございました。」

「ご期待に添えず、申し訳ありませんでした。」

裕樹が深々と頭を下げた。

「そんな、こちらこそ無理な依頼ですみませんでした。」

裕樹よりさらに深く頭を下げていた。
その時だった。

「あ、やっぱりお父さんだ!」

自転車で通りがかった鈴音ちゃんが、外から声をかけてきた。

「お父さん、何してるの?」

鈴音ちゃんのお父さんはバツが悪そうだ。

「修理の話で来てたんだよ。」

「修理?」

「これだよ。鈴音が言っていたオルゴール箱。実はお父さん、鍵を壊してしまったみたいなんだ。申し訳ない。」

なおせなかったオルゴールの箱を持ち上げて見せていた。

「これこれ! なつかしいなあ。」

鈴音ちゃんはオルゴール箱を受け取ると、手に取って色々な角度から眺めていた。

「たぶん、鍵は最初から壊れてたよ。それでなおせたの?」

「そうなのか?」

鈴音ちゃんのお父さんは驚いているようだった。
修理の結果については、裕樹に気を遣って答え方に迷っているようだった。

「残念ながら今回は修理できなかったんだ。」

横から裕樹が言った。嘘や言い訳をしないのは裕樹のいいところだと思う。

「鈴音、本当に最初から壊れてたのか?」

鈴音ちゃんのお父さんが心配そうに確認した。

「うん。だって、この壊れた鍵で遊んでたんだから。」

鈴音ちゃん以外の全員がキョトンとした顔をしていた。

「鈴音、それはどういうことだ?」

「どういうことか、今見せるね。」

鈴音ちゃんは前髪を留めていたヘアピンを外した。
そしてオルゴールの箱を両手で持つと、少し力を入れて蓋を斜めに引っ張りはじめた。

「あ、たぶんここ。」

ヘアピンを箱にできた小さな隙間に押し込んだ。

カチャン。金属音がした。

「開いた! やっぱりなつかしいなあ。」

蓋が開くと「未来へ」という曲が流れてきた。
ただ、箱の中には何も入っていなかった。

こんなに簡単に開くなんて。裕樹は驚きを隠せないようだ。
お父さんは口が半開きになっていた。

「中身は?」

鈴音ちゃんのお父さんが聞いた。

「入ってなさそう。でもそれでいいんだ。」

鈴音ちゃんが続けた。

「お父さん、私、このオルゴール箱よく覚えてるよ。この開け方、私とお母さんの秘密だったんだ。鍵で開かないから秘密っぽいでしょ。お母さんは本当に内緒にしてたんだね。」

「つまり、しまう時に鍵を壊したと思ったのは勘違いだったんだな。」

「そうだと思うよ。」

鈴音ちゃんのお父さんは何とも言えない表情をしていた。
そして立て続けに鈴音ちゃんに聞いていた。

「なんで今更オルゴール箱を探してたんだ? それに、中身が入ってなくていいって言うのはどういう意味なんだ?」

鈴音ちゃんは言った。

「オルゴール箱に『たからもの』を入れたくなったの。」

鈴音ちゃんの言っていることが誰も理解できなかった。

「鈴音ちゃん、どういうことなの?」

私は思わず聞いた。

「お母さんのことはあまり覚えていないんですが、この『たからもの入れ』のことだけは、よく覚えているんです。」

そう言って説明してくれた。

「お母さんが病院にいた時も、会いに行くたびにこの箱で遊んでいました。鍵では開かないのが楽しくて、いつも内緒のお手紙を入れてました。私はほとんど文字が書けない頃だったので、絵が多くて、たまに頑張って「すき」とか書いて入れてたと思います。」

鈴音ちゃんはオルゴール箱を見ながら言った。

「帰りにお母さんも絵とか、手紙とか、飴玉とか色々入れてくれたのですが、面会の途中でたぶん具合が悪くなって、箱を空で持って帰った日があったんです。」

「次に会いに行った時、箱が空の時は、あなたのたからものを入れて大切にしてね、とかそんな感じのことを言われたと思います。うろ覚えですけどね。」

「素敵な話ね。」

裕樹を見た。心なしか目元が光って見えた。裕樹はずっと俯いたままだった。
鈴音ちゃんのお父さんが静かに言った。

「じゃあオルゴール箱のこと、ずっと覚えてたのか?」

「うん。お父さんが辛そうだから言わないでいた。だけど、そろそろいいかなって。私、箱に入れたいものができたから。」

「鈴音、ずっと気を遣わせてすまなかった。」

そう言うと鈴音ちゃんのお父さんは涙を流していた。

「気にしてないよ、お父さん。泣かないで。」

鈴音ちゃんが言った。

「そうだな。美鈴も楽しいのが好きだったもんな。」

隣では裕樹がしきりに目をこすっていた。

「裕樹、大丈夫?」

「大丈夫だ。気にしないでくれ。」

そう言うと大きな音を立てて鼻をかんでいた。

鈴音ちゃんはオルゴールのメロディに合わせて鼻歌を歌い出していた。その時だった。喫茶店のドアの鈴が静かに鳴った。

「そろそろ喫茶店に戻らないと。」

鈴音ちゃんの鼻歌にあわせて鈴が鳴ったような気がした。

* * *

その日の夜、裕樹は事務所でひとり晩酌をしていた。
普段はビールなのにウイスキーを飲んでいた。

「今日はいつもと違うのね。そういえば裕樹のお父さんがウイスキー好きだったっけ。」

「ああ。そうだな。」

裕樹は少し険しい表情をしていた。

「ねえ、裕樹のお父さんはどんな人だったの?」

「お前も知ってるだろ。」

確かに何度も会っているが、挨拶程度の会話しかしてこなかった。それに、お葬式に行ったのですらだいぶ前だ。

「そうだけど、裕樹から見てどうかって話。」

「頑固で、人の話をあまり聞かない、典型的な仕事人間だな。」

「今の裕樹にそっくり。」

「やめてくれよ。」

裕樹の表情が少し緩んだ。

「ほどほどにね。」

喫茶店の戸締まりを確認してから、もう一度事務所を覗くと、裕樹はソファーで寝落ちしているようだった。

「まったく。」

ゴミだけでも片付けようと中に入ると、裕樹が話し出した。

「親父ならどうやって修理したんだよ?」

寝言だったようだ。かなりはっきりしゃべっていた。

「気持ちが宿るなんて、そんなオカルト信じるかよ!」

どうやら夢の中で父親と喧嘩しているようだった。
今の話し方は高校生の頃の裕樹を思い出す。

「俺には修理できないだと!」

眉間のシワがすごかったので、思わず指で伸ばした。

「大丈夫。裕樹ならなおせるよ。」

寝言はおさまった。
しばらくの間、裕樹の寝顔から目が離せなかった。

* * *

数日が経ったある日。鈴音ちゃんがいつものようにチヨちゃんに会いに来ていた。
画材を買いに行った帰りらしい。

鈴音ちゃんは喫茶店のテーブル席で何かを一生懸命に描いていた。

「何を描いてるの?」

「あ、店長さん。今、お母さんに手紙を書いてます。まあ、ただのデザインですけど。そうそう、コレ、見てください。バイト代で買ったロットリングです!」

ロットリングとはデザイン用のペンらしい。チヨちゃんに自慢するために寄ったようだ。

「どんな手紙なの?」

「コレです。ちょうどできました。」

そう言って真っ白な紙に描かれたデザイン文字を見せてくれた。

「ありがとう。お母さん。」

大きな文字でそう書かれていた。
丸みがあって柔らかいけど安定感がある書体。
鈴音ちゃんらしさたっぷりだ。

「素敵。」

「ありがとうございます。チヨさんも見て、アドバイスください!」

チヨちゃんが覗きこむ。

「いいと思うよ。」

「ちゃんとアドバイスしてくださいよ。てきとうなんだから。」

「その作品があるべき場所を思い浮かべて、って前に教えたじゃん。」

チヨちゃんのポップのイラストが、この喫茶店のイメージにぴったりなのはそういうことなのだろう。

「だからあるべき場所もちゃんと持ってきました。」

「綺麗な箱だね。」

チヨちゃんはオルゴール箱を真剣な表情で見ていた。
装飾の細かな部分まで気にして見ている。

チヨちゃんはあらためて鈴音ちゃんのデザインを見てから言った。

「文字のデザイン、いいと思う。」

「ありがとうございます!」

鈴音ちゃんがオルゴール箱を開けると、「未来へ」のメロディが流れてきた。
手紙を丁寧に畳んでしまうと、そっと箱を閉じた。僅かに金属音がして鍵がかかる。

今、喫茶店には私たちしかいなかった。
オルゴールが鳴り止んだ後の静けさも心地よかった。


第4章「コンピューターはなおせたのか?」

カウンターには裕樹がいた。仕事の合間のランチタイムだ。
今は仕事の依頼がないから合間も何もなさそうだけど。

「優ちゃん、今日はナポリタンお願い。」

あずささんは今日も入口近くのテーブル席に座っていた。喫茶店の常連だ。年齢は今年で七十歳らしいけど、かなり元気だ。「あずさ」って名前の響きも若々しくて素敵だと思う。

「分かりました。お待ちくださいね。」

あずささんと話すと自然と笑顔になる。

「お待たせー。熱いから気をつけて。」

つい口調も軽くなってしまう。
あずささんはあっという間にたいらげていた。
あの食欲も元気の秘訣だろう。
それにしても美味しそうに食べていた。

「俺もナポリタンがよかったな。」

隣で裕樹がつぶやいた。
軽くデコピンしてやった。

「サンドイッチは不味かったかしら?」

「おー怖っ。暴力反対!」

「サンドイッチも美味しいでしょうが?」

頬を指でグイグイ押す。

「美味しいです。」

「よろしい。」

「いつも仲がいいわね。旦那がいた頃を思い出すわ。」

「そんなことないです!」

裕樹と声がそろってしまった。
あずささんは大声で笑っていた。

「そういえば、修理ってコンピューターもできるの? 旦那が昔使ってたやつが家にあるのよ。」

コンピューターって単語、久しぶりに聞いた気がする。

「はい、もちろんです。」

裕樹が答えた。

「じゃあ今度取りに来てもらってもいいかしら。引き取りのお代もちゃんと払うわ。あと優ちゃんも一緒においでなさいな。美味しいクッキーとかいろいろあるわよ。」

「はい、喜んで!」

「この店はいつから居酒屋になったんだ?」

そう言ってから、裕樹が遠くを見て何かを考えていた。
何だか餌付けされそうな気配がした。

* * *

パソコンの引き取り日を、裕樹は私のお店の定休日に合わせてくれた。
仕事として同行してもよかったが、お菓子で釣られた私は、ずっと後ろめたさを感じてしまうだろう。
留守にしている間の喫茶店のことも気になってしまう。だけど休日なら思う存分に楽しめる。本当に私の性格をよく知っていると思った。

「優、行くぞ。」

ぶっきらぼうに裕樹が言った。

「待って。私、変じゃない?」

「変じゃないと思う。今日はズボンじゃなくてスカートなんだな。」

「思うって何よ。それにズボンはスラックスって言って。」

思わず声が弾む。
そういえば最近は忙しくて、私服で出かけること自体が久しぶりだった。

「行くぞ。」

裕樹は借りてきたレンタカーのエンジンをかけた。

「しゅっぱーつ! 何だかデートみたい。昔を思い出すね。」

裕樹は黙ってしまった。急に居心地が悪くなる。
あずささんの家が近くてよかった。

「もう着いちゃった。」

「まあ、歩ける距離だからな。」

「豪邸だな。」

「だね……」

二人で圧倒されていた。
インターホンを鳴らすと、自動で門が開いた。
中に車を停めて、あずささんのもとへ向かう。

「優ちゃんいらっしゃい。裕樹さんもどうぞ。」

今日はわざわざ和服姿で出迎えてくれた。いつものカジュアルな服装も上品で素敵だが、和服はさらに似合っていた。

「とても素敵な和服ですね。お似合いです。」

「優ちゃんの私服もすごくいいわ。まあ中身がいいからなんでも似合うわね。」

私がにやけたのを見て、裕樹がいつもの軽口をたたく。

「馬子にも衣装だな。」

拳を強く握りしめた。振りかざすのだけは、なんとか耐えた。
広いリビングに案内されると、早速、お菓子パーティーが始まった。見慣れない海外のお菓子がたくさん並んでいた。最高に幸せだ。

「ところで、修理の件は?」

裕樹が痺れをきらして、あずささんに聞いた。

「ああ、楽しくて忘れてたわ。」

私も忘れてた。

「では見てもらおうかしら。」

私たちは書斎に通された。
煙草のヤニでそこらじゅうが黄ばんでいた。独特の匂いも鼻につく。机の中央には、ブラウン管タイプのかなり古いパソコンが鎮座していた。白いはずのキーボードもヤニで黄色くなっていた。

「これがパソコン?」

「そうよ。私も詳しくないけど最新のやつだって自慢話をよく聞かされてたわ。」

「どこが壊れてるんですか?」

裕樹が聞く。

「動かないのよ。どこが壊れてるかわかってたら頼まないわ。」

確かにその通りだ。

「一応お伝えしますが、修理の際にデータを見たり、場合によっては消えてしまうこともありますが大丈夫ですか?」

「問題ないわ。」

「電源を入れてみても?」

「ええ。」

裕樹が起動ボタンを押す。一瞬、画面に文字が映ったが、すぐに消えた。ビープ音が鳴り響く。

「なるほど」

裕樹は顎に手を当てた。

裕樹の真剣な表情、やっぱりいいな。
あれ? なんか頭がぼーっとする。
足元が少しふらついた。

「もしかして優ちゃん、ウイスキーボンボンで酔ったの?」

そうだ、一人で一箱近く食べてしまっていたかも。
美味しくて、お酒が入っていることを忘れていた。

「すみません。ほら、優しっかりしろ!」

気づいたら裕樹に支えられて、パソコンと一緒に車に積み込まれていた。

「重いな。」

裕樹が失礼なことを言ったが、体がだるくて反応できない。

「頼むわね。優ちゃんもコンピューターも。」

まだ何か話しているみたいだが、声がどんどん遠くなっていく。
車の振動が心地よかった。
私はそのまま眠ってしまったようだ。
気づくと事務所のソファーに崩れるように座っていた。意識が遠のいて目が開けられなかった。

裕樹の独り言が聞こえた気がした。
夢かな?

「まずはケースを開けて、埃の掃除だな。一瞬だけど電源が入ったから、ファンが回らなくて熱暴走していた可能性がある。メモリは相当古い。ダメならジャンク屋で探すか。最悪、データだけでも抜けば何とかなるかな?」

裕樹の言っている内容はどこか遠い国の話のようだった。つまり、私にはちんぷんかんぷんだ。
それが子守歌にはちょうどいい。
また深い眠りについていた。

「修理完了だ。」

その言葉で急に目が覚めた。修理は、夢ではなかったようだ。

「修理、終わったの?」

「ああ、これから動作チェックする。」

そう言って裕樹は電源を入れた。
白い文字が映し出された後で、今度は起動中のカラフルな画面が表示された。

「やっぱり埃でファンが回らずに熱暴走してたんだな。」

「すごいカラカラ鳴ってるけど大丈夫なの? ずっとこの画面だし。」

「大丈夫。昔のハードディスクはこんな音がするんだ。それに遅いのも当たり前だったんだよ。」

「こんなに遅いと使えないじゃん。あずささん、なんで直そうとしたんだろう?」

「旦那がよくこれの前でニヤニヤしてたんだとさ。何を見てたのか知りたくなったらしい。」

帰り際にあずささんが言っていたようだが、私はそのあたりの記憶が曖昧だった。

パソコンはまだ起動中だった。

「あ、動いた!」

デスクトップ画面が表示される。

「えっ、ウソでしょ……」

声が漏れていた。

「これはまずいな。」

「だね……やばいかも。」

デスクトップの背景はかなり親しげな男女の写真だった。女性のほうはどう見てもあずささんではない。
これを見てニヤニヤしていたのかと思うと気持ちが悪かった。よりによって何でこんな写真を壁紙にしたのだろう。

「なおせなかったことにしてよ。」

ふいに口から出た。

「それはできない。」

「なんでよ!こんなの見てあずささんが喜ぶわけないじゃない!」

「そうだが、あくまで修理の依頼だ。」

「じゃあこれをそのまま見せるっていうの?」

「そうするしかない。」

「修理できなかったって言えば済むことじゃない! そんなになおせることが偉いの? こんなのなおせてない!」

「言っていいことと悪いことがあるだろ! お前に何がわかるんだ! 仕事を全うするだけだ! もう帰ってくれ!」

私の何かの糸が切れた。

「分かった。ごめんなさい。だけどこれは絶対に引き渡しさせない。」

ブラウン管とキーボードを残して、パソコンの本体だけを抱えて部屋を出た。どうやって運び出したのかもあまり覚えていない。
ただの先送りかもしれない。だけどあずささんが悲しまない方法がこれしか思いつかなかった。

裕樹は何も言ってこなかった。
微動だにせず、ただ深い呼吸をするだけで、壊れた機械のようだった。

* * *

次の日の朝。
裕樹は珍しく自分の部屋で寝ていた。

私は事務所に入って部屋を片付けた。
あんなことがあった後でも、いつも通り動いてしまう。

片付け終わって最後に、テーブルに「修理代」と書いたメモと二万円の現金を置いた。
裕樹は一度受けた依頼は、よほどの理由がない限り最後までやりきるだろう。
裕樹のプライドは手強い。だから依頼を強制的に終わらせたかった。
あずささんにどう説明するかは、まだ何も思いついていなかった。

事務所を出てすぐに喫茶店のカウンターに入った。

「店長、大丈夫ですか?」

「何が?」

口調がキツめになってしまったことを後悔した。

「顔色悪いですよ。私ひとりでも大丈夫ですから、具合悪いなら休んでてください。」

「大丈夫。チヨちゃんひとりじゃ心配だし。」

「ひどいなー。冗談言う時は笑ってください!」

笑って見せたつもりだった。
チヨちゃんが私をまっすぐに見ながら言った。

「店長に倒れられたら、私も、このお店のお客さんもみんな困るんです。私、店長と働きたいからここにいるんですよ!」

こんなに真剣に話すチヨちゃんは初めて見たかもしれない。

「ありがとう。チヨちゃん。」

心なしか体が軽くなった気がした。

少しして入口のドアが開いた。鈴が鳴った。

「優ちゃん、おはよう!」

あずささんだ。どうしよう。
どんな顔をしたらいいか、わからなくて、思わず修理屋の事務所に逃げ込んでしまった。幸い事務所に裕樹はいなかった。

「裕樹、一体何が間違ってるの?」

思わずつぶやいた。
もう昼時だ。この時間は一日で一番忙しい。さすがにチヨちゃんひとりでは回らないだろう。
エプロンを整えて、深呼吸をしてから喫茶店へ戻った。

「優ちゃん大丈夫?」

あずささんの優しさが矢のように刺さる。

「大丈夫です。」

さっきよりは落ち着いていた。

「ところでコンピューターの修理は順調?」

「少し苦戦してるみたいで。」

思わず嘘をついてしまう。

「そうなの? 意外だわ。」

私は何も言えなかった。

「もう一杯コーヒーをいただこうかしら。」

あずささんはなぜか注文を追加した。
時間がだいぶたっても、あずささんはお店に残っていた。

「おなかがすいたから、ナポリタンをいただける?」

すでに夕飯時になっていた。
チヨちゃんがさすがに気にし出して、小声で聞いてきた。

「店長、何かあるんですか、あずささん、今日はずっといらっしゃいますよね?」

「閉店後に約束したの。それだけよ。だから気にせず上がって。」

「そうだったんですね。ではお先に失礼します。」

私はまた嘘をついた。
ついに閉店時刻になった。

「あずささん、閉店です。」

「優ちゃん、私と約束してるんでしょ。あなたをウソつきにはしたくないわ。」

チヨちゃんとのやりとりが聞こえていたのかもしれない。
私は単刀直入に聞いた。

「何で旦那さんのパソコンをなおそうと思ったんですか?」

「ただの気まぐれよ。ところで優ちゃん、裕樹さんとケンカしたでしょ? しかも私が原因じゃない?」

「違います。あずささんのせいじゃないです!」

しまった。そこまで言うつもりはなかったのに。

「やっぱりそうだったのね。」

「何でもお見通しなんですね。」

「伊達に長生きしてないわよ。まあ、優ちゃんがわかりやす過ぎるってのもあるわね。」

そう言うと、あずささんは手招きして言った。

「優ちゃん、ちょっとこっちに来てもらえないかしら。」

私はあずささんの隣に座った。次の瞬間に両手で引き寄せられた。あずささんの心音が伝わってくる。

「本当に悪かったわね。どうせコンピューターに変な写真でも入ってたんでしょ。見ちゃったのね。」

私は何も言えなかった。

「当たりね。コンピューターに何が入ってるか、大体予想がついてたのよ。あの浮気野郎がどんなものを隠してたか覗いてやろうって。文句言いながらデータを片っ端から消してやるの。最後はコンピューターも捨ててやるわ。生きてたら絶対できなかった復讐よ。」

「復讐、のため?」

「そう。だけど、あなたが見ることは想像できていなかった。本当にごめんなさい。」

嘘はないと思った。だけど何かが引っかかっていた。
違和感の正体を確認せずにはいられなかった。

「リビングに飾ってあったたくさんの写真、近くの公園で撮ったものですよね。あずささん、とても楽しそうに写っていました。」

あずささんの鼓動が少し早くなった気がした。

「ええ、だけどどうして?」

私はあずささんから離れて続けた。

「あの壁一面に飾られた写真、同じ公園で撮られたものがたくさんありました。しかも桜の時期に合わせて撮り足している。時間の積み重ねが感じられて、とても素敵だと思ったんです。写真は旦那さんが撮られたんですよね?」

あずささんは何も言わない。

「本当は、あなたへの思いが残されていないか確認したかったんじゃないですか?」

「優ちゃんはどこまでも真っ直ぐなのね。それもあるかもしれないわ。だけど、このまま曖昧なのはイヤだったのよ。」

あずささんは笑顔で言った。

「知ってる? 相手が生きてないとケンカにもならないのよ。だから今更だけど、ケンカになってもいいと思った。今なら、許すかどうかも全て私が決められる。」

そこにいたのは、私の知らないあずささんだった。
その力強さに惹かれつつ、圧倒される自分がいた。
負けてはいられない。勢いをもらった気がした。

「お伝えしたいことがあります。」

そう言うと、私は喫茶店の倉庫からパソコンを運び出してきた。
こんなに重かっただろうか。

「これです。」

「修理はできています。確かに私は勝手に中身を見ました。本当にすみません。だけどこれはお返ししたくありません。」

自分の気持ちを隠さずにそのまま伝えた。

あずささんの落胆する顔は見たくない。
それ以上に、裕樹の修理で人が傷付くのを見るのは絶対に嫌だった。

「話してくれてありがとう。だけど、これは引き取る必要があるわ。」

いつになく強い口調だった。少し恐怖すら覚える。

「イヤです。」

私はムキになっていた。
しばらく無意味な会話を続けていた。
すると不意にカウンターの奥のドアが開いた。

「やっぱりあずささんか。」

「もしかして盗み聞きしてたの?!」

「そんなわけあるか。お前らがうるさいんだよ。」

「準備するから。」

いきなりそう言うと、パソコンを軽々と持って事務所に戻っていった。あっけに取られていると、なぜかあずささんは笑っていた。
裕樹は半ば強引だった。ただ従うしかなかった。

手持ち無沙汰となった私はコーヒーを淹れることにした。
棚には、私の好きなコーヒー豆が並べてある。
ラベルには、感じたことをそのまま書いてある。
「ほろ苦」、「マイルド」、「甘い」
なんて普通のから、
「優しい」、「強い」
とか
「クール」、「やんちゃ」、「大人気取り」
ほかに
「ピエロ」、「ムーディー」
なんてのもある。
豆たちが人間のように私に主張してくるのだから、こんなラベルになっても仕方ない。
私はこれらを組み合わせて、一つの味にする。
この作業が好きだ。喫茶店を始めた理由のひとつでもある。
電動ミルで豆を挽くと香りが店内に立ち込めた。
私はあずささんのことを忘れて作業に没頭していた。

「どうぞ。」

「ありがとう。」

「なかなかいい味。私には苦くて強めの味だけど。」

コーヒーのことではない気がした。

「準備できたぞ。」

裕樹が事務所から声をかけてきた。
私はあずささんの代わりに言った。

「コーヒー飲み終わるまで待ってよ。」

* * *

あずささんと隣の事務所に行くと、
パソコンにブラウン管のモニターとキーボードが繋がれていた。電源はまだ入っていない。

あの画像を三人で見るのだろうか。そう思うと憂鬱になった。
今ならうっかりコーヒーでもこぼせば、また壊れるだろうか?

裕樹が電源を入れた。
モニターはあずささんの方向を向いていた。
パソコンはカラカラ大きな音を立てていた。このまま起動画面が永遠に終わらなければいいと思った。

「映ったわね。」

思わず目を背けてしまった。
だけど見ないわけにはいかない。

「……あっ」

すぐに言葉を飲み込んだ。
そこには昨日の画像は表示されていなかった。
真っ青で無機質な単色の背景。

「どうですか? 埃が原因みたいでした。」

よく見ると、いつのまにか新しいマウスがつないであった。

「データフォルダはそのままです。確認してもらっていいですか。」

「ええ。」

マウスを渡した。ゆっくりした操作だったが、あずささんは迷わずデスクトップにあった「桜」と書かれたフォルダを開く。続いて一枚の画像を開いた。

「これは……」

公園で桜を嬉しそうに見つめる若いあずささんがいた。ほかの何枚かも同じだった。あずささんの写真でフォルダはいっぱいだった。

「裕樹、私、私、ごめんなさい、あずささんごめんなさい!」

「泣かないでいいのよ。私が泣けないじゃない。」

裕樹の背中で涙を拭いた。鼻水もたくさんつけてやった。

「そういえば修理の時、壁紙の設定は初期状態に戻しました。それ以外は、見たり変更したりしていません。壁紙の画像データはゴミ箱に残しています。空にしなければいつでも戻せます。要らなければ、ゴミ箱からも消せますよ。」

「わかったわ。裕樹さん、本当にありがとう。」

あずささんは裕樹が言った意図を理解したようだった。

「なおせてよかったです。」

裕樹のそっけない返事が印象的だった。

「裕樹さんは本当に優ちゃん思いなのね。」

すぐに否定しようと思ったけど言葉が出なかった。

その後、費用をいただいて、そのままレンタカーであずささんとパソコンを送り届けた。レンタカーは昨日返し損ねたらしい。裕樹は延長料金のことをずっと言っていたが、結果的によかったと思う。お金に執着があるのか、ないのか、いまいちわからない。
あずささんからは帰りにシュークリームをもらった。

「裕樹って本当にムカつくやつよね。」

「お前、食べるかしゃべるか、どっちかにしろよ。
こぼしたらクリーニング代、取られるぞ。」

「大丈夫よ。気をつけてるから。おっと。」

危なくクリームをこぼしそうになった。

「だけど修理になると何であんなに気が効くのよ。初めから教えてくれれば、こんな嫌な思いしなくて済んだのに。」

「お前に言われたからだ。なおせてないって。どうしたらいいか自分なりに考えた。」

「そうだったんだ。」

「お前の子供っぽい態度には毎回腹が立つ。でも今回は感謝してる。ありがとう。」

車が事務所に着いた。

「あっ!そういえば2万円のこと忘れてた。あとでちゃんと返してよね。」

裕樹が急に真面目な顔で私を見つめてきた。
心臓の鼓動がうるさくなっていく。

「クリーム、ついてるぞ。」

私の口元から指でクリームを取り去った。
このバカ男!

「2万円返しなさいよ!!」

「あれは修理代だろ!」

そう言って笑いながら車から飛び出していった。


第5章「ぬいぐるみとイラスト」

「これです。なおせますか?」

チヨちゃんが、かわいい柄の付いたビニール袋からぬいぐるみを取り出した。

あちこち汚れて、顔は目と鼻のボタンが取れて、どんな表情だったのかもわからなくなっている。手の部分は今にももげそうだ。

「これは私に絵を教えてくれた、おばあちゃんからもらったものです。」

ぬいぐるみを裕樹の前に突き出す。

「私の気持ち、見透かしたようなことを言うんだから、なんでもなおせるところを見せてください!」

チヨちゃんが裕樹を挑発していた。
これはチヨちゃんからの挑戦状だった。

* * *

数日前。

もう喫茶店の営業は終了していた。チヨちゃんは片付けが終わっても、一向に帰る気配がなかった。
何か話したいことがあるのは間違いない。

「チヨちゃん、何か困ってることとかある?」

「いえ、大丈夫です。」

沈黙に耐えられなくなって、私はコーヒーを淹れることにした。黙って棚から豆を選ぶ。そしてブレンド作業に集中した。
作業中、コーヒーの香りで店内が満たされた。安心できる匂いだった。
淹れたコーヒーをチヨちゃんに差し出す。

「おごり。」

「ありがとうございます。」

チヨちゃんは時間をたっぷりかけて飲んでいた。
最後のほうは冷めていたに違いない。

チヨちゃんはコーヒーを飲みながら、持っていた小さなクマのキーホルダーをしきりに触っていた。まるで何かを相談しているようだった。そういえば、お店のポップに出てくるキャラクターもクマが多かった気がする。

チヨちゃんはコーヒーの最後の一口を飲み終えると、静かに言った。

「実は、私が描いたクマのイラストを使いたいって仕事の話がきたんです。」

「よかったじゃない。おめでとう。」

「でも、ほぼタダみたいな値段で。名前が売れるんだから、最初はそんなもんだって言われたんですけど。店長はどう思いますか?」

私は返答に困っていた。

「ごめん。そういうのあまりよくわからなくて、ちゃんと答えられないかも。」

「そうですよね。変な相談してすみません。」

「私こそ役に立たなくてごめんね。」

チヨちゃんはまだ話し足りない様子だった。

「世の中には、私と同じくらい描ける人はたくさんいるんです。だから依頼が来たこと自体がラッキーなのかもしれません。だけど、この仕事を受けたら、ただの安売りになることくらい自分でもわかってるんです。」

チヨちゃんは大きく息を吸って続けた。

「自分を安く売るようなことはしたくないんです。だから、ちゃんとお金を払ってでも使いたくなる絵を描いてやろうって思いました。だけどそう思ったら、今度は逆に絵が描けなくなってしまったんです。私、なんでこんなことになっているんでしょうね。」

そう言うとチヨちゃんはうつむいて顔を手で覆った。
私は思わずチヨちゃんを背中から抱きしめた。

「話してくれてありがとう。」

「店長。」

チヨちゃんは静かに泣いていた。私はチヨちゃんが泣き止むまでずっと抱きしめ続けた。

* * *

次の日、チヨちゃんはいつも通りに出勤してきた。
目が少し赤いのが気になったけど、元気そうで安心した。

その日、チヨちゃんは裕樹と話していた。

「私、やっぱりイラストレーターには向いてないと思うんです。」

「裕樹さんは得意なことを仕事にできていいですよね。私は得意なことと、仕事は別にするタイプなんです。きっと。」

どうやらこのセリフが裕樹の気に障ったようだ。

「まだ仕事としてやってもいないのに、だいぶ分かったようなこと言うやつだな。」

「分かってますよ。仕事にできないからそう言ってるんです。」

「ちょっと、二人ともお店で喧嘩はしないでね。」

「優は黙っててくれ。」「店長には関係ないです。」

カチンときた。

「あなたたち何なのよ! 二人とも私よりいろいろできるくせに好き勝手なことばかり言って!」

「優。」「店長。」

二人がほぼ同時に言った。

「何よ!」

「悪かった」「ごめんなさい」

また同時だった。
私は自分が興奮して大きな声を出していたのに気づいた。

「とにかくお店では静かにして。」

チヨちゃんがぬいぐるみを持ち出したのはこの後のことだった。

* * *

「このぬいぐるみ、うまくなおせるところを私に見せてください。」

修理の依頼なので曖昧にはできなかった。

「わかった。ぬいぐるみは修理依頼として預かる。優、預かり証を。」

「うん。」

「一応、決まり文句だから言うが、なおせないこともある。その場合にはそのまま返すことになる。」

「分かりました。」

裕樹はそのまま作業場に向かった。
私もついていく。
裕樹はいつもならすぐに修理を始める。
ところが、今日はいつまでもぬいぐるみを机の上に置いたまま固まっていた。
一向に修理する気配がない。
耐えきれず私は作業場を後にした。

* * *

その後、一週間が過ぎた。
裕樹から、チヨちゃんに引き取りに来るよう伝えてほしいと頼まれた。
それくらい自分で言えばいいのにと思う。
チヨちゃんからは、私にも同席してほしいと頼まれた。

「二人とも好き勝手ばかり言うんだから。」

引き渡しは予定通り、喫茶店の営業終了後に行われた。裕樹は事務所で静かに待っていた。

「引き取りに来ました。」

チヨちゃんと一緒に事務所に入った。

裕樹は無言でぬいぐるみをテーブルに置いた。

「え?」

思わず声が出てしまった。
引き取った時とほとんど変わらない。
黒ずんだ汚れは取り除かれて、腕の破れは元通りになっていたけど、肝心の顔の部分が全くの手付かずだった。

「どういうことですか?」

チヨちゃんが裕樹に言った。

「見ての通りだ。汚れを落として、手の部分はなおした。でも顔はなおせなかった。」

「なんでなおせないんですか? ボタンをつけるだけじゃないですか。」

「俺は、このぬいぐるみの元の顔を知らない。汚れや破れはなおせるが、勝手に顔を作ったらもはや修理ではないと思う。」

裕樹は頭を下げていた。本当に申し訳なさそうな表情だった。

「だったら初めから、なおすなんて言わないでくださいよ。そうやって私をからかうんですか!」

チヨちゃんは納得がいかないようだった。

「違う。なおすつもりだった。市販品だと思っていたから、元の顔を調べてなおそうとした。だけど違った。世界に一つの手作りだった。それを俺が勝手になおすわけにはいかない。」

そう言って裕樹は続けた。

「お前の言う通りだ。あとはボタンをつけるだけ。そのぬいぐるみの顔をよく知ってるお前が、自分でなおせばいい。」

私はやりとりを黙って聞くしかなかった。
チヨちゃんが続けた。

「そんなのずるいです。」

チヨちゃんの視線は裕樹に向けられたまま動かなかった。

「私、勝手に勝負していたんです。今回は私が勝つと思っていました。」

「だろうな。その通りになった。」

「それはウソです。裕樹さんは負けてないじゃないですか!」

「修理できなかったんだから俺の負けだ。」

チヨちゃんは両手を強く握りしめていた。

「私、裕樹さんがうまくなおせなかったら、文句を言ってやろうと思ってたんです。逆に完璧になおってたら、それは私の負けだと思うことにしました。だけど、これじゃあ勝負にならないです!」

裕樹がぬいぐるみを見ながら言った。

「挑発だと分かっていたから、本当は断るつもりだった。だけど、このぬいぐるみを見た瞬間から、なおしてほしいってずっと言ってる気がしたんだ。俺はその声に応えたかった。お前だって無意味にこの子を連れてきたわけじゃないだろう。」

チヨちゃんは唇を噛み締めていた。目からは、一粒の大きな涙が流れ落ちていた。頬をつたったその涙が、私にはぬいぐるみの目のように見えた。

「お前のイラストで、元の状態を俺に教えてほしい。」

しばらく沈黙が続いた後、
チヨちゃんが深いため息をついてから言った。

「わかりました。」

チヨちゃんは黙ってコピー用紙にボールペンでぬいぐるみのイラストを描き始めた。

「やっぱりうまいね。」

プロがどう見るかは分からないが、私には到底真似できない仕上がりだった。

「これでなおせますか?」

「ああ。十分だ。」

そこにはまるで白黒写真のようなぬいぐるみのイラストがあった。

「この子は私のイラストの原点です。よろしくお願いします。」

* * *

今日はぬいぐるみを引き渡す日。事前に見せてもらったが、そこにはイラストのままのぬいぐるみがあった。チヨちゃんも裕樹もやっぱりすごい。ただ、裕樹の手には、絆創膏が貼られていた。裁縫は苦手なのかもしれない。

今度はすでにぬいぐるみがテーブルに置かれていた。

「ベッキー!」

チヨちゃんはぬいぐるみに抱きついて嬉しそうな表情を浮かべた。

「引き渡し完了だな。」

「ありがとうございます。この子、本当はもっと早くなおしてあげたかったんです。だけど、うまくなおらなかったら、ベッキーじゃなくなってしまう気がして、ずっと迷っていたんです。」

チヨちゃんはベッキーを抱きしめながら言った。

「裕樹さんになら、任せてもいいかなって思っていました。仮に違う顔になっても、自分でなおすよりは納得できると思ったから。」

「そんなふうには思えない依頼のしかただったけどな。」

「あれは、依頼ついでの八つ当たりです。ただ依頼するのは、なんか悔しかったし。すみませんでした。」

「本当に素直じゃないよな。」

「まあ、チヨちゃんらしいってことで。」

「それと、実はベッキーを描いてからイラストの感覚も戻ったんですよ。だから感謝してます。本当ですよ。」

「よかったじゃない!」

私はチヨちゃんの手を取って喜んでいた。

「だけど私、やっぱりイラストレーターには向いてないと思うんですよね。」

意外なセリフだった。

「私は裕樹さんや店長みたいに、好きなことを仕事にできるほど、まだイラストに自信が持てないんです。」

チヨちゃんは、裕樹の手に貼られていた絆創膏を見つめていた。

私はゆっくりと、言葉を選びながら話した。

「この喫茶店はね、右も左もわからない状態から始めて、最初は全然うまくいかなかったの。」

「そうなんですか?」

「初めは喫茶店の仕事だけでは生活すらできなかった。修理屋の事務員を掛け持ちでやっているのは、その頃に裕樹に助けてもらったから。」

「てっきり、店長がダメな裕樹さんの面倒をみているのかと思ってました。」

「そんなことはないよ。逆。辛い時もあったけど、いろんな人に助けてもらったから続けられた。運が良かったのかも。」

「店長を見てると、きっと運だけじゃないと思います。」

「そうなのかな。まあ喫茶店のおかげでチヨちゃんにも会えたし、裕樹とまた、こんなふうに話せるようになった。やっててよかったと思うよ。」

「私も店長に会えてよかったです。ところで最後のはのろけですか?」

「えっ? あ、そんなことないよ!」

「店長、顔真っ赤ですよ。それに裕樹さんまで照れるのやめてください!」

三人で笑っていた。

「なんか腹が減ったな。」

「そういえば私も。」

裕樹とチヨちゃんが言った。

「二人とも本当に自由よね。特別に今日はご馳走するわ。」

二人は子供のように喜んでいた。
私は急いでナポリタンを作った。

三人で喫茶店のカウンターに並んで食べていた。
二人は食べるのに夢中で無言だった。

二人を見ながら、私はつぶやいていた。

「みんながこうして安心していられる場所をつくりたいな。」

裕樹が言った。

「もうできてるだろ?」

「そうですよ。私、喫茶店に住みたいくらい。」

「だからって毎日、朝ごはん食べに来なくてもいいのよ。」

また笑い合った。
食後にはコーヒーを淹れた。

「コーヒーをうまく淹れるのって才能ですよね。」

「ああ。俺もそう思う。」

「ところで店長、」

チヨちゃんがこちらを見た。

「何?」

「私は店長のことが好きです。だけど裕樹さんのことは嫌いです。店長は裕樹さんのどこがいいんですか?」

「お前、本当に嫌な奴だな。」

私はむせて、手に持っていたマグカップからコーヒーを少しこぼしていた。

「店長のそういう、あざといのは好きじゃないです。」

「本当に遠慮のない子ね。」

「私は、裕樹の不器用だけど誠実なところが好きなの。」

今度は裕樹がむせていた。

「はいはい。邪魔者はそろそろおいとましますね。ご馳走様でした。」

チヨちゃんはベッキーを抱えて出ていこうとしていた。

「チヨちゃん、私もチヨちゃんのこと、大好きよ。」

振り返ったチヨちゃんは笑顔だった。

「店長は私の憧れですから。あと裕樹さんのことも、嫌いなのは少しだけです。」

そう言って走り去っていった。
ドアの鈴がいつまでも鳴っていた。

「二人とも、古い青春ドラマみたいだったぞ。」

「青春かあ。」

私はそう言って裕樹を見た。

「俺も事務所に戻るよ。」

裕樹はなぜか喫茶店のドアから出ていった。
ドアを開けながら、何か小声で喋っていたが、鈴の音にかき消されてよく聞こえなかった。

「何か言った?」

裕樹は答えずにそのまま出ていってしまった。


第6章「インフルエンサーの誘い」

「店長さん、最近お客さん増えましたね。」

今日も鈴音ちゃんが来ていた。

「確かにそうね。だけど、いまいち理由がわからないのよ。なんか急な感じがして。」

「あ! そういえばこの前、有名なインフルエンサーがここのお店を話題にしてましたよ。」

「そうなの?!」

大きな声を出してしまった。

「なんでそんな有名人が、うちのお店を知ってるのかしら?」

「たぶんチヨさんですよ。チヨさんのSNSは、ここの話題が多いんです。それにたくさんフォロワーもいるんですよ。」

「全然知らなかった。繁盛してるのはチヨちゃんのおかげってことね。」

まだチヨちゃんは出勤前だった。来たら聞いてみよう。

「この感じだと二店目、三店目と増えていって、あの大手のカフェみたいになるんですか?」

「え、そうね。」

曖昧な返事をした。

「二店目を出すときには私を店長で雇ってくださいね。ふふっ。」

鈴音ちゃんはイタズラっぽく笑った。
いったいどんな想像をしているのだろう。

自分のお店を増やすなんて、今まで考えたことがなかった。
今でも、このお店を回すだけで手一杯だ。
お店がにぎわうのはうれしいけど、
一方で修理屋をその片隅に追いやっているようで、気が引ける部分もあった。

チヨちゃんが出勤してきた。
私はさっそくインフルエンサーの話を聞いてみた。

「彼女、私と同じでクマが大好きなんですよ!」

チヨちゃんはかなり興奮しながら、彼女のことを教えてくれた。
インフルエンサーがうちのお店を知ったのはチヨちゃんのSNSで間違いなさそうだった。

その後もお店の客足は順調だった。満席になることも増えたので、人が多く入れるようにレイアウトを変更した。閉店時間も一時間だけ遅くした。
さらに鈴音ちゃんがアルバイトで入ってくれることになった。
裕樹には、しばらくは喫茶店に集中したいので、事務員の仕事を減らしてもらえないか相談してみた。
文句を言われると覚悟していたが、何も言われなかった。

「こっちは特に忙しくないから、気にしなくていい。」

少し突き放すような言い方だった。他にも言いたそうな感じがしたけど、あえて触れなかった。

そんなある日、例のインフルエンサーが実際にお店を訪れてくれた。その日の店内は、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。

有名人が来ると誰もが興奮してしまう。
私も調子に乗ってサインをお願いしようと、慌てて色紙を用意した。

裕樹も見に来ていたが、あまり興味がないのか、つまらなそうな表情をしていた。
私とばかり目が合う。興味がないなら無理に来なくてもよかったのに。

一方でインフルエンサーは終始笑顔だった。
最後のお会計の時だった。

「本当に素敵なお店ですね。もっと大々的に紹介してもいいですか?」

とてもありがたい話だった。
だけど、ふと店内を見回すと、これ以上お客様が増えても対応しきれそうにない。

「ありがたいお話なのですが、ご覧の通りで。これ以上お客様が増えても対応できなさそうです。すみませんが、しばらくはそのまま、そっとしておいてもらえませんか。」

「そんな心配は忙しくなってからでも遅くないですよ。むしろ行列ができたらさらに話題になると思いますよ。」

「それはそうかもしれないですけど。」

「じゃあ、改めて取材に来てもいいですか?」

「うれしい提案なんですが、取材はちょっと。仮に本当に行列にでもなったら、それは私の望んでいる姿ではない気がするんです。」

「そうですか。とても残念だけど、あなたのそのこだわりはとても大事だと思うわ。」

「ありがとうございます。」

外へ出て見送った。本当にいい人だ。

「優ちゃん、せっかくのチャンスを断って大丈夫だったの?」

常連のあずささんがすぐに声をかけてくれた。

「そうですよ、店長。もったいなくないですか?」

チヨちゃんも言った。

「大丈夫ですよ。今背伸びしても、後で困るのは自分ですから。それよりチヨちゃんこそ、ほとんど話さなかったけどよかったの?」

「話すなんて、恐れ多いです。」

「そういうもんなの? 鈴音ちゃんなんか、すっかり気に入られて、どういう流れか知らないけど頭をなでられてたわよ。」

接客中の鈴音ちゃんを指さした。

「私、後で鈴音の頭、なでてきます!」

みんな大笑いしていた。

「あ、サインもらうのは忘れちゃった。色紙が無駄になっちゃったな。」

そう言って色紙をひらひらさせた。

「じゃあ私が書いてあげようかしら。お習字みたいなもんでしょ。」

店内には、さらに笑い声が響き渡った。

「やっぱり落ち着くな。」

裕樹が今更笑っていた。
インフルエンサーがいた時も愛想笑いくらいしてほしいと思った。

その後、喫茶店の客足は落ち着いたようだった。やはりブームは長続きしない。店内のレイアウトは元に戻した。それでも前より少しお客様が増えたのは、ありがたいことだった。

「店長さん、やっぱり取材受けたほうがよかったんじゃないですか?」

鈴音ちゃんが退屈そうに言った。

「そうかもね。だけど私は今のままでも満足よ。」

私は新しく壁に飾ったイラストを見てにやけていた。
これはチヨちゃんからお店への贈り物だ。

そこには私とチヨちゃんがカウンターに並んでいて、背中を向けたお客様が椅子に座っている様子が描かれていた。たぶん座っているモデルは裕樹だと思う。遠くには鈴音ちゃんに似た店員さんも描かれていた。

「チヨちゃん、ありがとう。」

「どういたしまして、店長。それにしても何回目ですか? 毎日お礼言われてる気がしますけど。」

「まだ足りないくらいだわ。」

「私のほうこそ、もっとお礼したいのに。」

チヨちゃんは例のインフルエンサーからクマのイラストの仕事依頼を受けていた。
店内のポップが決めてだったようだ。イラストを納得のいく価格で提供できたと相当喜んでいた。

このイラストはもらった瞬間から私の宝物になっていた。
毎日、この絵を見るたびに笑顔になれる。

この喫茶店に、大切な思い出がどんどん増えていく。この仕事、やってて本当によかった。


第7章「喫茶店の決断」

喫茶店はすっかり元の状態に戻っていた。
だが、ブームの余韻はまだ残っていた。

窓際の席に座り、コーヒーとトーストを注文したお客様がいた。ビジネススーツで身を固めた背の高い男性客だった。高級そうな鞄を、向かいの椅子に置いていた。
食事を終えた後も、外をじっと眺めていた。
通りを歩く人を眺めているようだった。

少し不思議なお客様だと思った。
他のお客様とは何かが違う。違和感を覚えずにはいられなかった。

お会計の時に、そのお客様が話しかけてきた。

「実は私、こういうものでして。」

名刺を差し出してきた。そこには大手デパートの名前があった。

「この喫茶店はあなたのお店ですか?」

「そうですが、何かありましたか?」

「このお店はいつから?」

「二年前から私のお店ですが、元々は親が昔にやっていたお店です。」

「そうなんですね。どうりで深みがあって雰囲気がいいわけだ。」

「ありがとうございます。」

「単刀直入に言います。うちのデパートに出店しませんか?」

「はい?」

「うちのデパートに来てほしいのです。」

あまりに急な話で頭に入ってこなかった。
ひとまず場所を変えるために、裕樹の事務所を借りることにした。

「突然の申し出ですみません。先日、SNSでこちらのお店を見かけまして。」

「今、私はデパートのテナントを探しています。そこで本日は確認も兼ねて伺いました。」

「喫茶店の雰囲気、コーヒーの味、食事の内容、どれも素敵でした。ただ、立地で損をしていると思いました。あなたのお店ならもっと繁盛するはずです。だからデパートにお店を移転しませんか?」

喫茶店を認めてもらえてすごく嬉しかった。だけど移転という言葉が引っかかる。

「移転というのは、ここを閉めるということですか?」

「そうですね。さすがに二店舗を同時に回すのは難しいでしょう?」

「ええ、そうだと思います。」

デパートに出店できるなんて、お店としては大成功だ。もう二度とないチャンスかもしれない。だけど話が急すぎて混乱していた。

「すみません。急なことなので少しお時間をいただけないでしょうか。」

「もちろんです。よいお返事を期待していますよ。」

修理屋の事務所から彼を見送った。
喫茶店に戻っても、色々考え過ぎて仕事が手につかなくなっていた。
相談したくて閉店後に、すぐに裕樹を呼んだ。

「さっきの客は何しに来たんだ? もしかして借金の取り立てとか。」

「バカ言わないでよ。デパートの人だった。」

「それで?」

「デパートに移転しないかって誘われた。」

「そうか。」

「それだけ?」

「応援するよ。」

「待ってよ。まだ何も決めてないから。裕樹は本当にそれでいいの? 事務員の仕事もできなくなるよ。」

「本業が忙しくなるなら事務員は仕方ないだろ。前にも言ったけど困ってないし。それにいい話じゃないか。断る理由がない。」

「それはそうだけど……」

思わず口ごもってしまう。裕樹の言っていることは何一つ間違っていない。

「わかった。ありがとう。でもお店をどうするかはもう少し考えてから決める。」

「一体何を迷ってるんだ?」

「それ、本当に言ってる?」

「悪い話じゃないだろうに。」

「だって、時間をかけて、裕樹にもいろいろ助けてもらってここまできたのに、それを簡単に移転するなんて。あと常連さんたちやチヨちゃんと鈴音ちゃんはどうするの? それに……」

言いかけて止めた。

「色々あるんだから相談に乗ってほしかったの!」

「そうか。でも優が心配することじゃないだろ。自分のやりたいことをやればいい。」

「そうだけどさ。でもそんなに簡単じゃないよ。」

「優の言ってることはよくわからないよ。」

「私もよくわからない。だけど話せたから、少し冷静になれた気がする。もう一度ちゃんと考えてみる。」

「それがいいと思う。」

「ところでさ、裕樹はなんで修理屋を始めたの?」

参考にしたくて聞いてみた。
裕樹は天井をぼんやり眺めながら話し出した。

「親父は人の気持ちがわからないやつだった。高校生くらいの時は毎日反発してたよ。親父みたいにはならないと心に誓ってた。だけど結局、自分も人の気持ちが分かってなかった。」

前にウイスキーで酔っていた日の裕樹を思い出す。

「それで?」

「前にも言ったけど、そんな自分が許せなくて仕事を辞めた。しばらくは何もせずに修理屋の事務所にいたんだけど、親父がよく、『モノには人の気持ちが宿る』と言っていたのを思い出したんだ。」

「初めて聞いた。」

「そうか。じゃあ俺だけに言ってたのかもな。修理してればわかるんだとさ。そのうちに親父の言葉が本当なのか自分で確かめたくなった。だから修理屋を始めた。」

「修理屋は、ただの現実逃避くらいなのかと思ってた。」

「間違ってないさ。耐えられなくて逃げてきたんだからな。」

裕樹は軽くため息をついた。

「つまらない話だろ。まったく親父のやつ、死ぬ前にもっとちゃんと説明しとけって話だよ。」

思わず笑ってしまった。

「すごく参考になったよ。ありがとう。」

* * *

私は食器を洗いながら考えていた。
『モノには人の気持ちが宿る』か。この喫茶店にも気持ちってあるのかな。

「デパートかあ。」

声に出ていた。

「店長、デパートってこの前の話ですか?」

チヨちゃんが言った。

「そう。裕樹は賛成してくれた。」

「私も賛成ですよ。」

「そうなの? でもここを閉めることになるよ。」

「その時はしょうがないですよ。別のバイトを探します。まあイラストレーターとして人気が出て、バイトどころじゃなくなってるかもしれないですしね。」

そう言って笑っていた。

「私も店長さんがデパートでやりたいなら応援しますよ。この場所がなくなるのは残念ですけど。」

鈴音ちゃんも賛成してくれた。

* * *

私はひとり、閉店後の喫茶店で悩んでいた。

みんなが応援してくれている。
だけど、本当にこの場所が無くなってもいいのかな。

「どうなの?」

私は喫茶店のカウンターを撫でながらチヨちゃんのイラストに話しかけていた。

デパートでお店をやれば、きっと今より売り上げは伸びる。
だけどこの場所でお店は続けられなくなる。
常連のお客様たちはどうなるだろう?
それにチヨちゃん、鈴音ちゃんとは仕事ができなくなる。
そのふたりは逆に応援してくれている。

頭を抱えていた。

ふとカウンターの内側のドアを見た。
あのドアを開けるとそこには修理屋がある。

「そうか。ここじゃなきゃだめなんだ。」

私は喫茶店の店長であり、修理屋の事務員だった。
今の私に、修理屋の事務員を辞めるという選択がないことに気づいていなかった。

私は裕樹の修理が好きなんだ。
裕樹の言っていた、依頼品に宿る思いを私も感じたい。
私は直接修理ができないけど、やれることはあると思う。
そのために喫茶店という場所が必要だと思った。

それに、この喫茶店は私の人生そのものだ。
修理屋の隣で始めたからこそ、なんとか今の形になった。
ここはすでにみんなの居場所になりつつある。だからこの場所を手放すなんて簡単にできるわけがなかった。

* * *

デパートの返事をする期限が来た。彼がまた喫茶店に来てくれることになった。今日がその日で、喫茶店の定休日だ。喫茶店が休みなら、あわてずにじっくりと話せる、そう思った。

裕樹にも同席してもらえないか頼んだけど断られた。
どうやら外出してしまったようだった。
せめて隣の事務所にくらい居てほしかった。

約束の時間ぴったりに彼は現れた。

「今日はお越しいただいて、ありがとうございます。お返事、お待たせしてすみませんでした。」

そう言ってコーヒーを出した。

「いいんですよ。いい内容だと思って期待していますからね。」

さらっとプレッシャーをかけてくるのが彼のやり方なのだろう。
私はなかなか話し出せないでいた。

「やはりここのコーヒーはうまいですね。」

「ありがとうございます。」

どんどん話しづらくなっていた。

「それでお返事は?」

「その、なんというか、申し訳ありませんが今回は辞退させてください。」

「そうなんですか? 何が問題です? 急すぎましたか、それとも提示の条件が悪い?」

「いえ、そうではないんです。」

「ではなぜ?」

「ご提案に何も問題はありません。ただ、私が喫茶店で本当にやりたいことをやるには、この場所じゃないとダメだと思ったんです。」

途端に彼の表情が曇った。

「お話をいただいた後、色々考えたんです。本当にありがたい内容で、直前まで揺れていました。
私のお店がデパートに出店できたら夢のようだし、親もきっと喜びます。私自身も鼻が高いです。」

「では何で?」

「だけど、この場所や今のお客様、それに従業員のこと、あと修理屋のこととか、色々考えてしまうんです。」

「修理屋? ああ、隣の古い看板のやつですね。今はやってないんでしょ?」

「修理屋は今もやっています。これからも。」

話を戻す。

「私は、流行りの喫茶店をやりたいわけじゃないんだと思うんです。なんというか、ここを手放したら、積み上げてきたことまで無くなってしまうような気がして。」

「なるほど。」

「デパートで私の目指す喫茶店をやれるイメージが湧かないんです。」

「あなたの言いたいことは分かりました。だけど非常にもったいない。今のあなたの思いがあれば、どこだって成功すると思うのですが。」

まだ揺れる自分がいた。

「でも、私はこの場所だから頑張れているんだと思うんです。」

たぶん説明になっていない。
裕樹のそばにいたいとも言えなかった。

「この場所にかなりの思い入れがあるようですね。」

「そうかもしれません。この場所というより、ここを一緒に育ててくれた人たちが大切で……その、うまく話せなくてすみません。」

私はチヨちゃんがくれたイラストを見つめていた。

「では、今回うちのデパートに出店していただけたら、系列のもう一店舗への出店も保証するとしたら?」

「え、あの、どういうことですか?」

私は明らかに動揺していた。完全な揺さぶりだった。

「そのままです。」

迷いが態度に出ていた。もう迷わないと決めていたのに情けなかった。
落ち着くように自分に言い聞かせた。
大きく息を吸い込む。

「それでもここを離れるわけにはいきません。」

「分かりました。最後にもう一度だけ確認させてください。本当にデパートに出店するつもりはないのですね。」

「はい。すみません。」

頭を下げて視線を外した。顔を見るのが怖かった。
予想と違って、彼は穏やかな声で言った。

「頭を上げてください。」

言われた通りにすると、彼は怒ってはいなかった。

「今回は本当に残念です。普通なら大抵はいい返事が返ってくるんですけどね。だけど、まあよくわかりました。」

「どういうことでしょうか?」

「この喫茶店の居心地がいい理由がわかったということです。そのこだわりは本物だ。」

「ありがとうございます。実はお断りするのがすごく怖かったんです。判断を間違えているんじゃないかと思って。」

「それはまだわかりません。ただ、もう出店したいと言ってこられても、受けませんよ。」

私の表情を見極めているようだった。
しばらくして、彼は小さく頷いてから言った。

「仮にまた、ふさわしい時期が来たら、その時はこちらからお願いしに来ます。」

彼は足早に去っていった。私は喫茶店の入口から、ずっと見送っていた。

気を張っていたのか、今更感情が込み上げてくる。
足の震えが止まらなくなっていた。
多少、いや、かなりの後悔もあった。

ちょうど裕樹が戻ってくるところだった。
裕樹は私が震えているのを見るなり言った。

「優、大丈夫か。あいつ何を言いやがったんだ!」

彼のほうへ走り出しそうだったので、抱きついて止めた。

「行かないで。大丈夫だから。いい人だったよ。」

「そうか。がんばったな。」

「裕樹、どうしよう。私、断っちゃった。」

「自分で決めたんだ。大丈夫。」

「そうかな、私がこだわらなければ、きっと大きいお店になってたよ。親孝行できたかもしれないし、利益が出ればまたここに戻ることだって、普通にできたかもしれない、それに、」

私の言葉を遮って裕樹が言った。

「落ち着いて。優のこだわりがなきゃ今の喫茶店はないんだ。それに、これからどうなるかは誰にもわからない。それはこの場所だろうが、デパートだろうが同じだよ。」

「そうだよね。ありがとう、裕樹。」

今日は泣かないと決めていたけど、結局泣いてしまった。
裕樹は私が落ち着くまで抱きしめてくれていた。

* * *

あれから少し時間が経った。
今日は久々の定休日。忙しくて仕入れもできていなかったから、朝から外出して、忙しなく働いていた。

それでも昼には喫茶店に戻れたので、裕樹を呼んで新メニューのハンバーガーを一緒に試食した。

「うまいな、これ。」

「でしょ。しっかりしたパティとはみ出すくらいのレタス、そしてこのチーズが最高!」

「優は小さい時からチーズ大好きだもんな。ところでパティって犬の名前か何かか?」

「パティはこの肉のところ。誤解されるからお客さんの前で犬とか絶対に言わないでよ。」

「わかったよ。」

食後に二人でコーヒーを飲んでいた。

「そういえば入口のドアの蝶番、ネジが緩んでたから直しておいた。」

「ありがとう。」

「あと、あのテーブル、足がカタカタいうから、それも直しといた。」

「いろいろ助かります。」

しばらく謎の修理報告が続いた。

「何か言いたいことあるんじゃない?」

「ある。」

椅子に座り直して、私をじっと見ていた。裕樹の瞳には私が映っていた。

「喫茶店が成功するのはうれしかったけど、うらやましく思うこともあった。」

「そうなの?」

「カッコ悪いだろ。だからデパートの話を聞いた時、余計なことを言わずに応援しようって決めたんだ。」

「だからあんな態度だったのね。」

過去の裕樹の態度のひとつひとつが繋がった気がした。

「それに、優がそばにいなくなるのは嫌だったし。」

「本当?」

「ああ。それも態度に出てたと思う。」

「確かに、言われてみればそうだったかもね。」

「もういいだろ。」

「じゃあ、私がデパートに行かなくてよかった?」

「よかったよ。」

「そう。素直でよろしい!」

頬にキスをした。

「ご褒美。」

自分の顔が赤くなるのがわかった。

「ソースついちゃったかも。」

裕樹の顔を拭くフリをして視線を遮った。

落ち着いてから、あらためて聞いてみた。

「なんで私がいないと嫌なの?」

顎に手を当てて考えていた。

「朝起きれないから。」

裕樹は笑っていた。

「もう!」

裕樹があらためて言い直す。

「優がいたから気づくことがたくさんあった。たぶんひとりでは分からなかったと思う。」

「私も。」

「さあ、俺は事務所に戻るぞ。」

「うん。」

裕樹の足音は軽やかだった。

私は喫茶店のドアを開けて蝶番の具合を確認した。
鈴が鳴った。


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