知識だけでは辿り着けない場所
感性を頼りに歩いた人だけが残せる足跡
近頃はなんでもネット検索すれば答えはすぐ見つかります。
AIに相談すれば整理もできます。
学びたい知識は、昔より遥かに手に入りやすくなりました。
便利な時代になりました。
それなのに、私たちは以前にも増して、なぜ「正解探し」に疲れているのでしょうか。
また…「正解の探し方」次第では、がんばり方を間違えることもあります。
私はその理由の一つに、大人も子どもも「感性」を使う機会が減ったことがあるように思っています。
「またその話か」と呆れずに、少しだけお付き合いください。
一章:知識は借り物、感性は持ち物
私は以前から「知識は借り物。感性は持ち物。」と考えています。
「知識」は先人たちから借りることができます。
そして知識だけを頼りに導かれる答えは、誰が考えても似たものになりやすいのです。
しかし、「感性」は人に借りることができません。
自分自身が感じ、悩み、遊び、失敗を繰り返し、暮らしの中でさまざまな経験を経て磨いていくしかありません。
それでも、その人にしかない持ち物となります。
そして私は「知識」と「感性」が出会ったとき、そこに初めてその人らしい「知性」が生まれるのだと思っています。
「個性的」というのは、そういうことなのでしょう。
「知性」によって導かれる答えは「知識」とは違い、人によって違って良いものであり、時には世界で唯一無二のものになることもあります。
「感性」が磨かれると、その人が本来持っている主体性が更に芽生えます。
日々の行動がに主体的になると、自分なりの考えや独自の価値観がさらに育まれていきます。

つまり、人と同じである必要がなくなります。
ここで、その人ならではの「独自性」が生まれるのです。
自分らしさとは、探しに行くものではなく、感性を頼りに歩き続けた先で、ふと振り返ったときに見える足跡なのかもしれません。
知識は「地図」を与えてくれます。
ところが、その地図だけでは「足跡」は残りません。
自分の感性を頼りに、自分の足で歩いた人だけが、その人だけの「足跡」を残していくのだと思います。
そして、その足跡は何かしらのメソッドによってつくられたものではなく、その人だからこそ歩むことができた生き方の証なのかもしれません。
誰もが同じ「足跡」を残せるようなマニュアルが存在しないことこそ、人の営みの面白さなのではないでしょうか。

だからこそ私は、努力の積み重ねによる知識量を増やさせることだけに躍起になるのではなく、自然と感性が育まれる「土壌づくり」こそが大切なのではないかと考えています。
無知な部分があっても「知識」はいくらでも補充できます。
無知なことよりも深刻なのは「無関心であること」です。
関心ごとが増えると、自ら能動的に学ぶ姿勢もでてきます。
しかし感性であったり関心ごとを豊かにすることは、管理や指示によって育つものではありません。
子育てでも、学校教育でも、企業経営でも、私たちはつい「もっと知識を」「もっと正しいやり方を」と求めがちです。
しかし、本当に磨くべきことは、言われたことを正確にこなす力だけではなく、自ら感じ、考え、気づく力なのかもしれません。
二章:独自性がありがとうを循環させる
私は、この生活者一人ひとりの独自性こそが、これからの社会に最も必要な資源だと思っています。
なぜなら、独自性を持った人ほど、自分の得意なことだけでなく、苦手なことも素直に認められるからです。
私は、これからの社会に必要なのは「何でもできる人」ではなく、「苦手なことを安心して言える人」ではないかと思っています。
「私はこれが大好きです。」だけでなく…
「私はこれはとても苦手です。」も自然に言えるようになる。
すると、苦手なことを補える人が現れます。
そこに協力が生まれます。
相互依存が生まれます。

私は、本来の経済とは、こうした相互依存の上に成り立つものだと思っています。
相互依存を土台にした経済は、必ず「ありがとう」が流れていきます。
本来、お金は債務としての代用品ではなく、感謝と同時に交換されるものだと思うのです。
先に「ありがとう」の気持ちが湧くから、同時にお金で交換をする。
独自性があるから、役割が生まれる。
役割があるから、人に頼れる。
頼られるから、ありがとうが生まれる。
つまり「ありがとう」が循環する経済は、感性が磨かれ、主体性が芽生え、一人ひとりに独自性が育まれた先に「苦手なことも公言できる寛容性と相互依存」が生まれるものなのです。
マスマーケティングによって生活者が踊らされ、ブランド依存して考える力が落ちた生活者のお金だけが流通する経済は、やがて生活者を疲弊させるだけであり、そうしたお互いに顔が見える関係性もますます薄れていきます。
三章:借り物を贈り物へ変える力
私はこれまで、少年スポーツ、地域コミュニティ、企業文化づくりのそれぞれのあり方に身を置く中で、そのことをずっと考え続けてきました。
結局のところ、子どもを育てることも、社員を育てることも、地域を育てることも、目的は同じなのだと思います。
知識を詰め込むことや、優れた覚醒メソッドを手に入れることではなく、「自然と感性が育つ土壌をつくること」です。
あらためて整理すると…
知識は借り物。
感性は持ち物。
その二つが出会い、融合すると、その人ならではの知性が生まれる。
そうして生まれる知性は、自分への贈り物となります。

要するに、感性は「借り物を贈り物へ変えるチカラになるもの」なのかもしれません。
これは個人のことだけではありません。
事業活動においても同じ構造があります。
知識は資格や専門性となって安心につながる。
感性はお客様への関心となって信頼につながる。
そして、その二つが融合することで、その会社やお店ならではの価値提案が生まれる。
その事業体の中にいる人の感性の積み重ねが、独自の企業文化になっていくのだと思います。

少年スポーツにおいても、家庭においても、職場においても、美しい文化が形成されなければ、人の心の豊かさは育ちにくいのではないでしょうか。
四章:あなたでいてくれてありがとう
私は、さまざまなところで一貫して取り組んできたことがあります。
それぞれ違う言葉を使ってきました。
主体性。
感性。
自分らしさ。
遊び心。
余白。
対話。
けれど、本当にやりたかったことは、それらの言葉のさらに奥にあったような気がしています。
それは「人が自分の存在価値を感じられる文化を育てること」なのでしょう。

そして面白いのは、存在価値を感じられる人ほど、無理に優秀さを証明しなくなることです。
空虚な承認欲求にも執着しなくなる。
だから苦手も言える。
だから助けを求められる。
だから相互依存が生まれる。
だからありがとうが循環する。
私はそんな循環を信じています
だからこそ、社会を変える力を政治や制度だけに求めたいとも思わないのです。
もちろん選挙に行くことも大切です。
しかし、生きづらさや理不尽さのすべてを、権力者や政治家だけの責任にしてしまうことには、どこか違和感があります。
なぜなら、社会は誰かが与えてくれるものではなく、私たち一人ひとりの暮らしの積み重ねによって形づくられているものだからです。
私は「生活者」とは、自分らしさを「活」かして「生」きる「者」と捉えています。
まさに文字どおり、一人ひとりが社会の担い手です。
だからこそ、「選挙に行こう」という呼びかけも大切ですが、その前に問い直したいことがあります。
自分の中にある感性をどう磨くのか。
自他への贈り物となる知性をどう育てるのか。
日々の暮らしの中で、どんな文化を育てていくのか。
私は、その積み重ねこそが、相互依存が循環する社会の礎になると思っています。
だからこそ私が本当に育てたいのは「頑張ったから認める文化」ではなく、
「あなたでいてくれてありがとう」
「あなたでいてくれて良かった」
そんな言葉が自然に交わされる文化です。
それは家庭かもしれません。
学校かもしれません。
職場かもしれません。
地域かもしれません。
そして、その文化は特別な誰かがつくるものではなく、私たち一人ひとりの日々の暮らしの中から育まれていくものだと思うのです。

思い返せば、この感覚は二十歳の頃からほとんど変わっていません。
「きれいごとでは生きていけない。」という言葉を何度も耳にしました。
それでも私は今でも、その「きれいごと」の中にこそ、人が人らしく生きるための本質があると思っています。
だから私は、誰かを論破したいわけでも、正解を押しつけたいわけでもありません。
知識は借り物。
感性は持ち物。
そして感性は、借り物を贈り物へ変える力。
私は、その力を信じています。
『ジブンのヨハク探求道場』も、そんな感性を再発見し合える仲間と出会うための、小さな実験の場として続けていきます。
Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳
