得をするより、徳を積む~「納徳」という造語と「足るを知る」の相関性~
「何ができる人なのですか?」
仕事、学校で、SNSでも、そんな「能力の証明」を求められる場面が増えた気がします。
「あなたの得意なことは何ですか?」
いつでもどこでも、そんな問いを投げかけられる場面が増えた気がします。
もちろん、自分の得意を活かすこと自体は素晴らしいことです。
それでも時々、こんなことも感じるのです。

本当は…
「得意ではないけど…私はこういうことが好きです」
「こういうことを本気でやってみたいです」
「でも、実はこういうことは苦手なんです」
そんなふうに、得意も不得意も含めた「等身大の自分」を安心して曝け出せる社会ならば、もっと自然に人と人とがつながれるのではないでしょうか。
人は「完璧な強み」だけで支え合っているわけではないからです。
そもそも、完璧な人など存在するはずがありません。
それなのに…「苦手なこと全て克服して失敗もしない人にならなければならない」…そんな空気すら感じる世の中です。
得意な人が補い、苦手な人が頼る。
誰かの「できる」が、別の誰かの「助かった」になる。
その循環の中で自然と「ありがとう」が生まれていく。
本来の豊かさとは、そういうものだったのではないでしょうか。
「とにかく苦手なことは克服しなければ」という得体のしれない「圧」は、どこから来ているのでしょうか。
本来の資本主義は「心豊かな経済」だったはず
実際、資本主義という考え方そのものも、もともとは人を豊かにするための知恵だったはずです。
自分の得意を活かし、誰かの役に立つ。
その交換によって、お互いの暮らしが豊かになっていく。
そして、その思想の土台を築いた アダム・スミス は、経済だけではなく、人の良心や共感についても深く考えていた人物でした。
代表作として知られる 国富論 だけでなく、道徳感情論 を書いていたことにも、その本質が表れている気がします。
つまり本来の資本主義は、「損得」だけで動く世界ではなく、人の良心や信頼の上に成り立つ「心豊かな経済」でもあったのだと思うのです。
だから、資本主義そのものには、むしろ肯定的な立場でいます。

ところが、いつの間にか社会は…
「どれだけ効率よく成果を出せるか」
「どれだけ市場価値を高められるか」
「どうすれば勝ち組になれるか」
そちらに大きく傾いていったことで、歪んでいったようにも感じます。
さらには「嫌なことも我慢して働くのだから、その分を消費で満たそう」という空気感まで強くなっていったことは否めません。
その結果、本来は人を豊かにするはずだった仕組みが…「過剰な付加価値」や「過剰な消費」を生み出し、人の心の余白まで奪ってしまった側面もあるのかもしれません。
得をすることは増えた。
便利なこともとても増えた。
でもその一方で、
「満足を高めているはずなのに、心のどこかではなぜか満たされない」
そんな感覚を抱える人も増えている気がします。
「隣保」という言葉に感じたこと
先日、都会から少し離れたところに住む若い夫婦から「隣保(りんぽ)」という地域の仕組みについて話を聞きました。
7〜8世帯ほどの小さな単位で、地域を支え合う自治の仕組みだそうです。
「隣を保つ」と書いて、隣保。
その言葉が、とても印象に残りました。
適度に気にかけ合う。
困った時は助け合う。
でも、必要以上に踏み込みすぎない。
それは単なる「古い地域文化」ではなく、人が孤立しすぎずに生きるための知恵でもあるのかもしれません。
しかも、7~8家族単位(単位は地域によって違う)での支え合いという、適度に「顔が見える関係性」は、とても有機的なつながりになりえます。

もちろん、長年の田舎暮らしでそうした距離感を窮屈に感じる人もいます。
実際、他人との関わりを煩わしく感じて都会へ出る人も少なくありません。
その一方で、誰にも干渉されない暮らしは、ときに「誰にも気にかけられない孤独」と紙一重でもあります。
最近では、数百戸から千戸に近い規模のタワーマンションも珍しくありませんが、それほどの規模では、もはや人間が自然に「顔を認識できる限界」を超えているようにも感じます。
隣に誰が住んでいるのか分からない
困っていても気づかない
自治会や理事会にも誰も顔を出さない
それは「自由」でもあるように思われるけれど、「無関心」にもつながってしまい、結果として「お金」や「権利」が関係性の中心になりやすい。

もちろん、大規模マンションそのものが悪いわけではありません。
ただし、人はあまりにも「顔が見えない環境」の中では、「ありがとう」が循環しにくくなるのは事実でしょう。
そして、そこには「監視」ではなく「適度な関心」が生まれます。
「隣を保つ」と書く「隣保」…それは、単に隣人との関係を保つというだけではなく、もしかしたら「自分らしさを保つ」ということにも通じているのかもしれません。
基本、近隣とのお付き合いというものは、メンドクサイものというのは事実なのかもしれません。
それでも、まず自分らしさと向き合い、自分を愛でながら自分の面倒を見ていると…自分らしさを保つことができる。
まずはそれができているから、近隣の人の「面倒」にも関心が生まれるのでしょう。
そうなると「面倒」が「臭く」なくなるのかもしれませんね。
なお、1940年(昭和15年)に創設された「隣組」は、今述べている「隣保」とは、人との関わりが大きく違います。
戦時中の「隣組」には、相互監視の役割もありました。
もちろん現代社会は当時とは違います。
それでも今もなお、
「どう見られるべきか」
「どうあるべきか」
という『どうすべきか』が強くなりすぎると、人は息苦しくなっていくばかりか、いつの間にか『自分はどうしたいのか』という主体性を見失ってしまいます。
その結果、人からどう見えるかばかりを気にして、自分らしさまで着飾ってしまう…それは、どこか現代社会の息苦しさにも重なる気がしています。

だからこそ「隣保」のような、適度に気にかけ合いながらも主体性を尊重できる関係性には、今の時代にこそ大きな意味があるのかもしれません。
地域によっては、そんな理想通りにはいかないこともあるでしょう。
それでも「隣保」の本質は「自分らしさを保つことができていると、身近な誰かが困っていたら少し気にかけるようになる」という、人間らしい距離感なのでしょう。
そして実は、そういう小さな関係性の積み重ねこそが、「ありがとうの循環経済」の土台なのではないでしょうか。
得をするより、徳を積む
だからこそ常々ボクは思うのです。
「得をする」ことよりも、
「徳を積む」ことのほうが、人生を豊かにしてくれるのではないかと。
誰かに少し優しくできた。
無理をしすぎず、自分を大切にできた。
損得抜きで、心が動くほうを選べた。
そんな小さな積み重ねのほうが、あとから静かな充実感として残っていく。
そして、それは単なる「良い行い」という話ではなく、自分自身との関係性にもつながっているように感じます。
世の中では、「満足を高める」という言葉をよく耳にします。
ところがボクは以前から、「満足」よりも「納得」のほうが大切なのではないかと思って生きています。
満足を高めて、どれだけ周りから羨ましがられても、どれだけ条件が整っていても、自分の心が置き去りになっていたら、どこか苦しくなる。
逆に、大きな成功や派手な結果がなくても「今日は自分らしく生きられた」と思える日は、静かだけれど深い充足感があります。
満足を高めることよりも、納得できることを深めていく日々の暮らしです。

「納得」ではなく、「納徳」
ただし、ここでふと思ったのです。
本当に自分が求めているのは…「納得」という字なのだろうかと。
もちろん本来の「納得」は「腑に落ちる」「心に収まる」という意味を持った言葉です。
けれど、そうであるならば「得」という字よりも「徳」という字のほうがしっくりくる感覚がボクにはあります。
得を得るより、徳を積むからこそ、腑に落ちる。
だからこそ勝手に、こう呼びたくなりました。
「納徳(なっとく)」と。
自分の良心に、自分が頷けること。
誰かと比べるのではなく、自分の在り方に静かにOKを出せること。
それは、単なる満足とは少し違う感覚です。
もっと欲しい
もっと認められたい
もっと勝ちたい
そんな「外側へ向かう渇き」が悪いわけではありません。
それでも、その渇きを満たし続けることだけでは、人はなかなか落ち着けないのかもしれません。

それよりも…
「今日は愛おしいと思える瞬間があった」
「ちゃんと自分を大切にできた」
「少し肩の力を抜いて呼吸できた」
そんな日々の積み重ねのほうが、人を静かに満たしていく気がするのです。
そうして積み重ねる「徳」を、静かに自分の内面に納めていく。
だから「納徳」なんです。
「足るを知る」とは、愛おしさに気づくこと
そして「納徳」というのは「ご自愛」という言葉の本来の意味にも近いのかもしれません。
自分を甘やかすことではなく、自分を雑に扱わないこと。
「こうあるべき」で固めた自分ではなく、まだ言葉になっていない「自分らしさ」を、愛おしく見つめてあげること。
その感覚は、わがままとも少し違います。
むしろ、自分の内側にちゃんと耳を澄ませることに近いのだと思います。

「足るを知る」という言葉も、本当は「我慢」ではないのだと思います。
欲を押し殺すことでも、夢を諦めることでもない。
もうすでに自分の中にある愛おしさや、静かな豊かさに気づける感性。
それこそが、「足るを知る」の本質なのかもしれません。
満足を追いかけ続けると、もっと欲しくなる。
けれど、納徳を深めていくと、不思議と呼吸が静かになっていく。
「もっと、もっと」と外へ向かっていた意識が…
「これで充分」と、自分の内側へ還ってくるからかもしれません。
だからこそ、毎朝の深呼吸も、ただ酸素を取り込むだけではなく、
「今日も、自分らしさを活かしてみよう」という小さな決意を腑に落とす…そんな時間でありたいものです。

そうした親の背中は必ずお子さんが感じ取っています。
子ども達はオトナの姿を見抜く天才達ですから。
Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳
#キレイゴト上等
#勝ち組より価値組
#ロックな仕事観
#がんばり方を間違えない
#ジブンスイッチ
<参考コラム>
アダム・スミスの「国富論」と唱えていることの本質は【「競争」の美徳化は人を疲弊させる(後半)】でも記載しています。
