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凡事徹底~本来のマジメに戻す近道~

与えられたルールを守り空気を読んではみ出さないように従順に働くこと…それが「真面目」ということやと思い込んでるオトナが、いつの間にか社会では大半となっている。

辞書には「真面目」の意味に、ルールを守ることや従順であることなどという文字や説明は一つも出てこない
つまり、大半のオトナが本来の意味をはき違えているということになる。

と・こ・ろ・が…やね。

久しぶりに「真面目」をネット検索してみるとAIによる概要説明では、とうとうそれに近い表現になってしもてるやん!

もし「真面目」が“従順”のことを指すようになってしもたら…
いずれ辞書でもそういう意味合いに改訂されてしまったら…
それは自由に生きる力を失うオトナが続出する由々しき事態になるねんな。

そうなると、次世代に対する「大罪」になると言ってもいい。

いたたまれずに…「本当の“マジメ”を取り戻す近道は、意外にも“遊び”の中にある」ということをコラムにしましてん。




真面目の意味が歪められていく背景

人間は、自分の思うように自由に考え、行動しているように思いがち。
ましてや日本は民主主義の国…みんな自由に生きているよと誰もが言う。

しかし、実際には何らかの社会構造に支配されていて、周囲の環境や社会的規則(構造)によって、無意識に「マジメちゃん」であることこそが正しい生き方であると刷り込まれている。

それでは、社会が主体で自分が客体であるため、本質的な自由とは程遠い。
そうなると、頭は働けど自分の心が躍動する感覚はどんどん失われていく。

恐ろしいのは、その状態を“美徳”として疑わなくなる大人が蔓延していくことであり、それは特定の権力者や資本家に都合のいい話にしかならないということだ。それのどこが自由の国やねん。

このままでは、「マジメ」の意味は人や何かに従順であることなどという【大きな誤解】のまま、社会に定着してしまう。

ところが従来より辞書には「真面目」にそんな意味は一つも載っていない。

本来の「真面目」とは――

人や物事の本来の姿・真価に向き合うこと。
その人らしく本気で生きること。

けれども、多くの大人がこの本質を取り違えている影響もあってか、最近のAI検索では「従順」「社会的役割の尊重」といったニュアンスが混ざり始めている。

このまま放っておけば、やがて辞書にすら歪んだ意味が載る日が来るかもしれない。
そうなれば本当に「真面目」という言葉は確実に“魂”を失う。

真面目とは本来、自分が主体であることだから…“従順”とは全くの真逆。

そして自分の内側から湧く衝動とつながる時間こそが「自分が主体である」という感覚を取り戻す入り口になる。
その原型となるのが、実は「遊び」ではないかという仮説が、どうも最近確信に変わってきた。


遊びは人が生きる営みの中心にあるもの

遊びは本来「ご褒美」ではない。
「遊び」は、辛いことを頑張れば与えられるものでもなければ、浮かれまくったりふざけることでもない。

人が生きる営みの中心にあるもの…すなわち、遊びとは“本気であること”を意味する。

真面目に(本気で)遊ぶからこそ探究心が湧く。
その探究心によって自然と学びを深める。
そうして得た知識は、自分の感性と結びつき、知性となる。
その独自の知性が「自分だから見出せる価値づくり」を生み、それを働きや暮らしに活かすことで社会と関わる。

人が心豊かに生きるというのは、まさにそういうプロセスを辿ることだ。

だから、真面目に働くとは「社会の期待に従順であること」ではなく、
「自分の心に正直に、本気で向き合うこと」ということになる。

その結果として、納得できる人生を振り返ることで棺桶では笑顔で横たわっていることなんやないかなぁ…。

つまり、本気で自分らしさを「活」かして「生」き抜く「者」が「生活者」であるということは、拙筆した本「未来に期待したくなるジブンスイッチ」でも述べてるねんけどね。

そして、遊びというものは本来自分で見出すもの
だからこそ創造力・決断力・失敗力・共生力が育つ。

ところが、他者に与えられた遊びばかりでは、それらはまず磨かれない。

そして「自分らしさは二の次で、人やルールに従順であるマジメ」が本格的に美徳化されていくと、遊びは社会の中心に据えられるどころか、従順であったことのご褒美としてあてがわれるものという位置づけに降格する。

今は遊びをお金で簡単に手に入れられることもあり、日頃の従順であることのストレス解消として、多くの人がより強い刺激を求めてお金を払い、その発散度合いを競い合うようにSNSで晒し出す人が続出中やんか。

人に造られた遊びに自分を合わせているだけの遊びは、空虚なものであることに気づかずに依存性が強まるか、感動があったとしてもそれは一過性のものになりかねない。


なぜそのルールなのかを問うチカラ

社会のルールを否定しているのではない。
もちろん、ルールなんか守るなよなんていうことも言っていない。
何も考えずに「ルールを守りさえすればいい」という状態が危険なのだ。

大事なのは、問い続けること。感じること。考えること。

何も感じられなくなって、とにかくルールを守ることだけが目的となってしまい、なぜそのルールになったのかの背景や目的に無関心なままでは、それこそ本質的な秩序は生まれにくい。

要するにその問うチカラの源になるのが「ありのままの自分らしさを活かして物事に本気で向き合う」という本来の意味の「真面目」さやねん。

「何事にも従順であるマジメちゃん」ではそういうチカラは生まれにくい。

だからこそ「遊び」だとか、とても非効率と思われがちな「寄り道」というのは、自分が本来持っている感性や可能性を湧き立てるものなので、社会の中心に据え置く必要性がある。

「真面目」の本来の意味と「遊び」の自ら見出すことを社会の中心に持ってくることを、もっと多くのオトナ達が再認識する必要がある。
それが未来を創る次世代に対する我々の使命だからだ。


使うか使われるかよりちょうどイイ関係へ

既製の服や造られた家に自分を合わせるのではなく、自分に合う服・自分に合う暮らし・納得のいく食材を揃えていく流れの中で、本当の心豊かさを自ら見出だせるようになる。

そうは言えども、社会のすべてを自分に合うように完璧に仕向けることは、物理的にも経済的にも心理的にも疲弊していく。

そうした中では、社会と自分が「使う」(能動)か「使われる」(受動)かのどちらかではなく、そのどちらとも言えない中動態的な関係こそが、社会と自分との「ちょうどいい」関係なのかもしれない。

その起点となるのが、自分の主体性だ。

だからこそ「真面目」の意味が、これからも歪められないように、一人ひとりの大人が自分らしさを活かして生きることを今日から徹底することだ。

要するにこれが「凡事徹底」なんだと思う。
「凡事徹底」こそが自由を得られる最大の近道なんやないやろか。
そして日々その背中を魅せることが、次世代への最大の説得力にもなる。

中高生の体育会系の応援団旗に示されることもある「凡事徹底」は、まずは我々オトナが問われていることなんやろうな…。

自分の襟を正すこともなく、わが子に「立派な学歴」「立派な勤め先」という空虚なワッペンを付けさせたがるのは、結局は歪んだ「マジメちゃん」を産み出してしまいがちだ。

そして、そんな人だらけの大企業ほど、生活者の安心と安全を脅かす不祥事を起こし続けていることに、そろそろ多くの親が気づいてもエエ頃やろ。

自分の思うように自由に物事を考えて行動することが「真面目」の本来の意味やからね。
そして、そういう背中をまた次世代は必ず見透かすねん。

周りを意識してばかりの正しい答えより、自分が納得して歩ける道を。
その一歩は、心の奥のかすかなざわめきから始まるんとちゃうかなぁ。

あなたの中に眠っている“まだ言葉になっていない問い”に、そっと触れられる時間をつくっていくことから始めればエエやん。
そこにいつか必ず光が照らされますように。

Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳

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