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子どもの主体性を信じるということ

~写真を撮る親と絵を描く子ども~

前回のコラムでは、「ストイック」という言葉の本質を多くの大人が誤解して、自分を縛り削ることが美徳化されている危険性について書いた。

自分に余白を許さず、感情を置き去りにして「ちゃんとした大人」であろうとする姿は、気づかぬうちに、子どもにも同じ生き方を手渡してしまう。

さて、今回のコラムでは
「子どもは親をどう見ている可能性があるか」ではなく
「親が子どもをどう見ているか」について…これを「写真と絵」の対比を用いて述べてみることにする。

写真を「撮る」と絵を「描く」の違い

写真を撮る行為は、今あるものしか写せない。
目の前に広がる景色の中から、どこに立ち、どこを切り取り、何をフレームに入れるかを選ぶ行為だ。

同じ場所に立っていても、撮る人が違えば、写真はまったく違う。
写真とはつまり「今ある姿を、どんな視点で眺めるか」の表現だ。

一方で、絵を描く行為は違う。
絵では、目の前にないものも描ける。
まだ存在していない未来も、想像の中で自由に描くことができる。

確かにそれは創造的で尊い力だ。
ところが、この力を子どもの人生に向けて使ってしまった時は、少し立ち止まる必要があるように思う。

子どもの未来を描くのは誰?

子どもの主体性は「未来を自分で描ける感覚」から育っていく。
つまり、子どもの未来を描くのは子ども本人だ。

親にできるのは、今この瞬間の姿を、写真を撮るように眺め続けることなんだ。
それなのに私たち親は、ときに無意識のうちに、子どもの未来を「絵」として描いてしまうこと往々にしてある。

「この子には、こうなってほしい」
「この道を選ばないと苦労する」
「私と同じ失敗はさせたくない」

もちろん、それは支配したいからではない。
多くの場合、守りたい気持ちから生まれる。

だからこそ、気づきにくい。
守ってあげているつもりが過干渉になってしまい、子ども自らが想い描いて行動する機会を自然に奪っている可能性は、当事者ほど気づきにくい。

理想的な親になろうとしていないだろうか

先日、親のあり方について対話する場を運営した時のこと。
哲学カフェのように、正解を出さず、問いを持ち寄る時間だ。
その場の参加者のお一人が、こんな感想を残してくれた。

親の関わり方には正解がない。
個性と個性の組み合わせで、最適な関わり方はそれぞれ。
理想はあるけれど、理想どおりにいかないのも事実。理想をキープし続けることが、本当に良い成長につながるのかという靄(もや)が浮かんだ。
人は無菌室のような環境では育たない。
反面教師、共感者、傍観者、評価者、自分にとって好ましい人、そうでない人などなど。色んな人と個性を持ち寄り、時にぶつかり合うことで何が生まれるのかは……分からない。靄(もや)。
でも、そんな答えのない場が楽しく、貴重だった。

この感想はとても興味深い。

一方で、自分達の投げかけは、一歩間違えば「全員で理想的な親になろう」というメッセージとして受け取られかねないとも気づかされた。

それはまさに、親が子どもの未来を絵で描いてしまう構造とよく似ている。
そうなってしまっては、本末転倒である。

靄(もや)が立ち上がることの価値

多くの子育て論は、スッキリした答えを用意する。
でもこの対話の場では「靄」が残ったというこの方の感想。

実はこれこそが「主体性が動き出す瞬間」なのだと思う。
分からなさを抱えたまま、自分で考え続ける余白が生まれたからだ。

無菌室のような完璧な環境は、現実の社会では存在しない。
反面教師も、共感者も、合わない人も、ぶつかり合いも含めて、人は育っていく。
それは、完成図を描けないからこそ起こる成長なんじゃないかな。

写真を撮るようにわが子を見る

話を「写真を撮る」と「絵を描く」の対比をモチーフにしたものに戻そう。

今日は、どんな表情をしているだろう。
何に夢中になっているだろう。
どんなところで立ち止まっているだろう。

視点や距離を変えるだけで、これまで見えていなかった姿が立ち上がる。

遊びの中では人は無意識に内省しているし、遊びこそが、内省を習慣化させやすい。
子どもが遊んでいる姿を眺めることは「この子は今、何を選び、何を感じているのか」を写真のように切り取る行為でもある。

親が未来を描かなくても、子どもはちゃんと、自分の線を引いていく。
むしろ、描かれなかった余白の中でこそ、主体性は息をし始めるんだ。

もし今「このままでこの子は大丈夫だろうか」と不安になるなら、それはコントロールを強める合図ではなく、親が視点を変えてみる合図なのかもしれない。

つまり、子育ては、完成図を描くことではない。
写真を撮るように、今の姿を眺め、いろんな姿の切り取り方を選び直し続けることで良いのかもしれない。

理想的な親になることよりも、分からなさを抱えたまま、子どもと同じ地平に立ち続けること。
その余白こそが、子どもの主体性を育てる環境になるんだろうな。

ジブンのヨハク探求道場

このコラムを書き、対話の場を重ねる中で、 やはり「ジブンのヨハク探求道場」をどうしても実現させようと決意を新たにした。

まずは道場を開設させる

開設の準備はできている。
まだ形として動き出してはいないが、今、必要としている人がいる感触は確かにある。

子どもの主体性は、親が正しい関わり方を身につけたときに育つのではない。
親自身が、 分からなさを抱え、 立ち止まり、 問い直し、 選び直す姿を見せているときに、 静かに主体性とはどういうものかが次世代にも手渡されていくものだと感じている。

そもそも、この道場では「理想的な親になろう」というメッセージ性はない。「ちゃんとした答えを出そう」ともしない。
自分の感情に気づき、 自分の価値観を疑い、 余白の中で、自分自身を俯瞰し直す。その「習慣」を取り戻すための場だ。

答えを急がなくていい。
でも、自分から目を逸らさない。
それが、この道場で大切にしている姿勢だ。

道場の運営方法

「ジブンのヨハク探求道場」は、 私が拠点を構えて人を集めるコミュニティではない。
この思想や対話の時間を、 すでに誰かが大切に育てている場へ、 コンテンツとして持ち込み、実施する形を取っている。

親の学びの場/子育てや教育に関わるコミュニティ/対話や内省を大切にしている集まり/地域・学校・団体・企業内の小さな場…そうした場所で、「正解を教えない対話の時間」を一緒につくりたいと考えている。

  • 親が“ちゃんとしなければ”と追い込まれている空気を感じている

  • 子どもの主体性を大切にしたいが、どう関わればいいか迷っている

  • 学びの場に、もう少し余白と対話を取り入れたい

そんな想いを持つ方がいたら、あなたが大切にしているその場で、私と一緒にこの道場を開いてほしい。
私は、そのための対話とコンテンツを携えて出向く。

親である前に、立ち止まることを許される場があってもいいよね。

Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳

▶ ジブンのヨハク探求道場

https://www.bs-inc.net/yohaku/

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