「できて当然」の空気が漂う社会で目覚めたもう一つの視座
「リテラシーを高めるなんて本人の努力と意識次第やん。」
まぁ~確かにそうなんやけど…その一歩手前のところで、とても大切なことに気付いたのでココにしたためておきたい。
いまの社会は、いろんなことの利便性が高まっている。
それはエエねん。エエねんけどね…特に各種Webツールにおいては、どうも最近「説明されない前提が増えすぎている社会」になってしもてる。
それに伴い「知らないこと」を口にすることよりも 「誰かに説明を求めてはいけない空気」すら強くなってしまい、社会から「置き去り」されてしまう人が増えていく気がしている中で気づいたことだ。
静かに増えていく「置き去り」
もともとボクは幼少の頃からプラモデルでも説明書を読まずに組み立てようとするタチで、オーディオ機器やTV周りの製品なども、これまではほとんど取扱説明書なんて見ない人やった。
でも最近は、パソコンやスマホを購入しても「トリセツ」の冊子そのものが存在していないことに戸惑うことがよくある。
説明書がない・ネットで調べてもわかりにくい…それがあたりまえの社会というのは…今では寂しさというより、厳しさを感じる場面が急増している。
マイナンバーカードの申請や更新
スマホやパソコンでの各種手続き
交通手段の手配やビザの申請など…
大半がデジタル化しているが、そのデバイスの画面から伝わってくるのは「こんな手続きくらいは、できて当然」 という空気だけ。
わからない=自己責任。
仕様変更や運用変更は、告知だけして「理解は各自でよろしく〜」となる。
こうなると、 本来は能力や知性の問題ではないことまでが、 いつの間にか「ついていけない人」 という烙印に変わってしまう。
説明書などなくても大半のことができた自分でも、 日常生活に必要な情報へ適応するリテラシーは確実に下がっている不安が、増大化してきた。

年齢に関係なく、 デバイスやネット操作に不安を感じる人が続出するなら、もうこれは 「Webツール介護士」のような存在が必要な社会やね。
ここで言う「介護」とは…自分で歩く力はあるけれど、歩いている道の標識が外国語に突然変わってしまい「いま、どこを歩いているのか」「何を見れば良いのか」を一緒に確認してくれる、励ましの上手な伴走者のこと。
最終的には自分の道を自分で歩けるようになるために…
自分で操作して、自分で確認して、自分で判断する。
その判断が適正になるまで、翻訳と整理を一緒にしてくれる存在がいてくれたら、ホンマに助かる。

AIに教えられたリテラシーの本質
世の中では 「若い」「慣れている」「触って覚えられる」… これがリテラシーが高いことやとされがちやねんけど、本質はそこではないんやね。
これは、ChatGPTに Gmailの仕様変更への対応を「伴走」してもらっていた先日にハッとさせられたことだ。
なかなか手こずる中で「リテラシー低くてすみません。 こんな質問に付き合ってもらってありがとうございます。」と入れたら、返ってきたのが…
「とんでもない!あなたはとてもリテラシーの高い方です」
「え?」と思うのも束の間、続けてこう言われた。
「リテラシーとは、自分が【わからない状態を言葉にできる力】です。 そして、あなたは【どうしたいか】という目的がとても明確です」
この返答には、めちゃくちゃ勇気づけられたがな^^;
リテラシーに必要なのは、 解決策を見つける飲み込みの速さやないんやね。
むしろ「わからない自分」をそのままにせず、立ち止まれるチカラなんや!
「自分はいま、どこがわからないのか」
「何がわかれば、自分の望む環境になるのか」
これを言葉にすることができれば、あとはChatGPTなり生成AIがそれなりの導きをしてくれる。

その姿勢は、 価値づくりのプロセスの質を高めるために弊社がクライアント事業者の伴走する際のスタンスと、 驚くほど同じやねんな。
置いていかない/馬鹿にしない/焦らせない/でも依存させない/同じ未来を本気で見る/厳しい状況でもポジティブになることは忘れない
これによって依頼主である事業者ご自身が
・考えることを他人任せにしない
・判断の質を落とさない
・自分たちで前に進める
そのための「考え方の設計」を一緒に整える。
そんな立ち位置で対話を繰り返しながら、ご自身が「がんばり方を間違えない事業運営」へと触発していくスタンスやから…
こういうのはすぐ数字になる費用対効果では測りにくいけれど、 間違った判断や思考停止を減らすために必要な投資であると依頼主は理解されている。
つまり、寄り添うスタンスは「尊厳を損なわないサポート」に近い。
できていない現状を否定せずに、未来に向けて前に進める関わり方やねん。
したがって儲かればいいというだけで「自分はどうしたいのか」という主体性がない事業主には、残念やけど向き合われへん。

「できない」と言えない社会は疲れる
さて、新たに気づいた視座において、あらためて感じることがある。
「自分はこれがわからない」
「自分はこれが苦手」
「自分はこれをやりたくない」
これを人目を気にせず言えて、多くの人たちとそれを互いに容認し合える社会にする必要性を強く感じるということやねん。
でもその代わりに 「実はこれがやりたい」 という静かな芯を持つことは、誰にでも当然のように求められる。
これはむしろ一人ひとりに問われることとしては、厳しいのかもしれへん。
それでもやね。
「自分はこれができます」
「自分はこれが得意です」
こればかりをアピールせなあかん社会は、 必ず自分も周りも疲弊する。
それが 本気で好きなことやったらエエねんけど、 自由業的な個人事業主以外は、そんな人は今の社会では極わずかで、大半の会社人が疲弊している。

「あなた、これ得意でしょ?」と 笑顔で仕事を押し付けられて、その期待に応えることで回る経済循環なんて… そんなの永遠に人の目ばかりを気にした歪んだがんばりの対価でしかない。
そらぁ、子どもたちが 「働く=我慢してお金を得ること」 って言うようになるわな…我々オトナが、 そういう背中しか見せてへんのやから。
「自分はどうしたいのか」
「実は、何をしたくないのか」
この二つを声に出せない社会は、どう考えても歪んでる。
今回の仮説としては「何がしたい」「何をしたくない」をハッキリ言える人ほど生成AIの使い方も間違わず、AIの言いなりにもならないということだ。
困っている状況を整理したい。
構造的に何を解決すればいいのかを理解して、とにかく前に進みたい。
でも、答えをもらうためではなく、自分の考えを解きほぐすために使う。
それならChatGPTも、 ちゃんと伴走してくれるねんなという実感だった。
答えを求めるようにAIを「先生」にしてしまったら、 課題解決の構造に触れられるプロセスを放棄してしまうから、もったいないよね。
もちろんその伴走者が生成AIではなく、人であっても同様のことやねんな。
そして、正しい答えを出すことを急ぐより、プロセスの質を楽しく高めるほうが 「自分は本当は何をやりたいのか」の解像度は自然と上がっていく。

そして、その解像度が高まる瞬間というのは、 本来、幼少の頃に心躍る経験として誰もが持ち合わせているものやったはずやねん。
就学前、無我夢中で砂場で何かを作ったり、 秘密基地を作ったりするときに「どうしたら、もっと楽しくなるんやろ?」 という終わりなき試行錯誤の連続やった。
あの頃は平然と 「ボクはこれやりたいけど、これはやらへん」 って断言してたしね。
自分らしく生きるためのリテラシーは、 ほんまは、ずっと前から みんなの中にあったんやと思う。
それを思い出すための「自分の余白」さえあればね。

<参考:関連コラム>
Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳
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