祖父に引導を渡した日(創作大賞2025 中間選考通過作品)
ガラクタだらけ、段ボールまみれの納戸の奥に、学生時代に使っていた机がある。先日、母から「いい加減きれいにしなさい」との通告を受け、カビゴンより重い腰を上げたわけだが、部屋の片づけは昔から苦手だ。ひとまず、ごちゃごちゃした引き出しの中をまさぐる。
すると、二つ折りの、少し上質そうな紙が出てきた。思い出の品が出てくると片づけが滞る罠に幾度となく引っかかってきたが、どうやら今回も例外ではないらしい。
開くとそれは、僕が描いた祖父の似顔絵だった。

たしか、祖父の葬儀のときに描いたものだ。
絵を描くのが好きだったこともあって、なかなか上手じゃないか。それにしても、なんだってこんな散らかった部屋に放置されていたんだ。だれだよこんな大事なものを無造作にしまい込んでいたのは。
片づけを中断し、似顔絵を眺める。
Nまみれのタートルネックを着た祖父の周りには、生前の祖父と縁のある品々が描かれていた。
将棋の駒、みかん、眼鏡、ヤクルト、そしてベッドサイドモニタ。祖父との思い出が、映画のワンシーンのようにまざまざと甦る。
◇
「泣き虫」が、僕の代名詞だった。
友達とケンカしては泣き、親に怒られては泣き、ゲームに負けては泣いていた。そんな僕をよく慰めてくれたのが、祖父だ。
「子どもの頃、一番好きだった人は?」と聞かれたら、迷わずに「祖父」と答える。母の実家が近くにあったし、我が家で同居していた時期もあったから、僕にとっては単身赴任でよく家を空けていた父よりも身近な存在だった。一番優しくて安心できる人、それが祖父だった。
祖父は、それはそれは孫煩悩だった。誕生日やクリスマスはもちろん、なんでもない日にもお菓子やおもちゃを買ってくれたり。絵を描くのが好きだった僕の渾身の傑作たちを、ひとつ残らず褒めちぎってくれたり。未就学児の頃にはウルトラマンごっこ、小学校に上がってからは将棋と、よく一緒に遊んでもくれた。
娘である母に言わせると「昔は鬼のように怖かった」らしいが、僕にとっては仏みたいなものだったので、にわかには信じられない。白髪頭に眼鏡の風貌も相まって、より高齢でかなりの細身だったことを除けば、SLAM DUNKの安西先生みたいな人だったと言える。
祖父に怒られた記憶は、ほとんどない。最後に生まれたというのもあって、5人いる孫の中で僕が一番かわいがってもらえたと思う。「目に入れても痛くない」というが、まさにそれだ。僕が目に入っても本当に痛みを感じなかったんじゃないかと思えるし、むしろ眼球に押し込まれた僕の方が痛がって泣きそうな節さえある。
ウルトラマンごっこで怪獣役の祖父を思いっきり叩いても、将棋でずるをしても、大泣きしながらわがままを言ったときだって、祖父はいつも優しく微笑んでいた。僕がおじいちゃん子になるのも当然である。
祖父の膝の上は、僕の特等席だった。特に、みかんを食べるときなんかは、お気に入りの椅子に座るように祖父のあぐらの上に乗っかった。
祖父はよくみかんの皮を剥いてくれた。手先の器用な人だったので、しわしわの骨ばった両手で白筋まできれーいに剥いてくれた。
僕はそれを、特等席からまじまじと見る。露わになった果実は、一粒ひとつぶが夕陽のようにキラキラと輝いていて、まるで僕だけの宝石だった。
祖父は優しかったが、僕はクソガキだったので、よく祖父を困らせたものだ。
ポケモンと図工が好きだった僕は、ある日ポケモンのソーセージが入っていた空き箱を使い、はさみを入れたり内側の無地部分に絵を描いたりして『手作りポケモン図鑑』を作って遊んでいた。
いったん席を外し、戻ってくると、ポケモン図鑑にサトシとピカチュウの抱き合う姿が描かれていた。祖父が、僕のために一生懸命描いてくれたのだ。
しかし、当時の僕は憤慨した。せっかく作ったポケモン図鑑を汚されたと感じ、泣きながら祖父を責めた。なんで落書きなんかしたんだ、と。
よかれと思って描いた絵を否定され、祖父はショックだったはずだ。それでも、祖父の態度は変わることなく優しいままで、僕は祖父の愛情をたっぷり注がれてすくすくと育った。
ただ一度だけ、孫にデレデレの祖父が、僕を叱責したことがある。
◇
1998年、秋。小学3年生の僕はある日、同級生の家で遊んでいたのだが、そこでちょっとしたトラブルが起きた。同級生2人がじゃれ合いのつもりで僕にのしかかり、小柄でひ弱な僕は身動きが取れず、しまいには息ができなくなってしまったのだ。
なんとか脱出したものの、僕は恐怖と悲しみとで泣き出し、その家を飛び出した。止まらない涙もしゃっくりもそのままに、命からがら自分の家まで逃げ帰った。道中、薄いブルーの空にふんわりと滲むオレンジ色の夕焼けが、妙にきれいだったのを覚えている。
家には、祖父だけがいた。いつものように、一人掛けのソファーにあぐらという独特の体勢で夕刊を読んでいる。リビングには、外と同じオレンジ色が窓から差し込んでいた。
僕は祖父に泣きついた。2人にのしかかられて、息ができなくなって、とてもつらかった、と。祖父はきっと慰めてくれる、そう思っていた。
しかし、祖父の顔は険しい。
祖父は、静かに、そして力強く言った。
「いつまでも泣くんじゃない。男だろ」
正直、絶望した。優しいと思っていた祖父が、絶対に自分の味方でいてくれると思っていた祖父が、辛辣な言葉を放ったのだから。
その後、帰宅した母に泣きついた気もするが、あまり覚えていない。それはきっと、あのときの祖父の姿が鮮明に記憶に残っているからなのだと思う。それまで見たことのない、厳しい眼差しをした祖父の姿が。
このこと自体は、僕らの関係性を変化させたわけではない。あの後も祖父は以前と同じように優しかったし、僕も変わらずおじいちゃん子のままだった。ただ、人生で唯一、祖父に叱られた瞬間だったので、強く印象に残っている。
今思えば、あれは祖父なりの愛だったのだろう。
そう遠くない未来、僕たちが別れることを悟っていたのかもしれない。
◇
1999年1月。母方の祖母が他界した。祖父にとっては、長年連れ添った妻だ。そのショックは相当のものだったに違いない。
祖母の死からたったひと月ほどで、祖父は体調を崩し入院した。僕は母に連れられて、何度かお見舞いに行った。初めこそ入院前と変わりない様子だった祖父も、3月に入った頃にはすっかり憔悴していた。起きているのか寝ているのかわからないくらい意識は朦朧としており、肌は絵の具でも塗りたくったかのように黄色だった。その体からはなんともいえない不快なにおいが漂い、嗅覚が敏感な僕には耐え難いものがあった。
祖父とのツーショットを母が撮ってくれたことがあったが、そのとき僕は祖父のそばに行くのを泣いて嫌がった。悪臭もさることながら、大好きな祖父の変わり果てた姿を受け入れることができなかったのだと思う。そのうち、僕はお見舞いに行くことすら拒むようになった。
◇
同年3月。いよいよ祖父の容態が悪化したということで、僕ら家族と近所に住む伯母一家が病院に集まった。曇天の午後、病室の真ん中で、ベッドの上に横たわる祖父。それを囲むように、皆が祖父を見守る。ベッドサイドモニタの「ピッ、ピッ」という無機質な電子音が、祖父がまだ生きていることを生々しく伝えていた。
不安げに祖父を見つめていると、母に声をかけられた。
「じいちゃんの足をさすってあげて」
まだ幼かった僕は、これを救命の任務と捉えた。足をマッサージすることで祖父は助かる――本気でそう思った。
祖父の足元に丸椅子を置き、そこに座る。そして、目の前にある布団をめくると、足の裏が二つ見えた。数日前まで黄ばんでいた肌は、もはや血の気を感じられないほど青白く、そしてひんやりとしていた。
その足を、僕の手がさする。
じいちゃん、がんばれ。じいちゃん、がんばれ。
どれだけ手を動かしても、祖父の足は冷たいままだった。
それでも、自分の体温を祖父に与えるように、一心不乱にさする。
じいちゃん、がんばれ。じいちゃん、がんばれ。がんばれ、がんばれ……
………………
いつの間にか眠ってしまっていた。あまりにも一生懸命さすっていたので、疲れてしまったのかもしれない。
目覚めると、病室の様子が明らかに寝落ち前のそれとは違うことに気づいた。
2種類の新しい音がする。
一つは、2歳上の姉の慟哭。
そしてもう一つは、さっきまでは「ピッ、ピッ」と一定に刻まれていたはずの、ベッドサイドモニタの「ピーーーーー」という無情な電子音だった。
頭では理解していた。けれど、心が追いついていない。感情がこちらに向かって走り出したとき、事実はすでに目の前で横たわっていた。
祖父は、もうここにはいない。冷たくなった足が温もりを取り戻すことは、もうない。
祖父が息を引き取った直後、母が駆けつけた。なにか用事があって席を外していたのだと思うが、僅かに間に合わなかった。母は祖父の亡骸に抱きつき、激しく泣き叫んだ。
「どうして待っててくれなかったの!」
お母さん、ごめん。僕のせいなんだ。僕が寝ちゃったから、足をさするのをやめちゃったから……
じいちゃんは死んじゃったんだ。
諸々の手続きを終え、家に帰ることになった。窓の外に目をやると、日はすっかり暮れている。静かな暗闇は、まるで僕ら家族の気持ちをそのまま映し出しているようだった。
帰り際、病院内の自動販売機でヤクルトを買ってもらった。生前の祖父とよく一緒に飲んでいたヤクルト。2個で90円のヤクルトを、この日は母と分け合った。
ヤクルトを飲みながら、僕は母に謝った。
足をさすっているうちに眠ってしまったこと。だから祖父を助けられなかったこと。
涙があふれ出した。受け入れることができなかったのだ。祖父の死も、自分の過ちも。
そんな僕に、母は優しく言った。
「あんたが足をさすってくれたから、じいちゃんは気持ちよく天国に行けたんだよ。だからじいちゃんは『ありがとう』って思ってるはずだよ」
父親の最期を看取ることができなかったというのに、母は気丈に振る舞った。それは僕が祖父のことを大好きで、祖父もまた僕のことを大好きだと知っていたからだろう。
しかし、その優しい言葉さえも、幼い僕は受け入れられなかった。ヤクルトを持った小さな手には、冷たい足の感触がまだ残っていた。
◇
程なくして、祖父の葬儀が執り行われた。
広い葬儀場の中央奥に、たくさんの花が供えられている。そこにある小ぎれいな箱の中には、大好きな祖父が眠っていた。
僕は、お別れの手紙を読むことになっていた。黒い服を着た大勢の人たちが見守る中、マイクの前に出る。そして、ポッケから手紙を取り出し、それを読み上げた。手紙は祖父の棺の中に置いてきたし、記憶も曖昧なため、正確な内容を確認する術はない。ただ、どんなことを書いたか、どんなことを読んだかは、なんとなく覚えている。
ひたすら、謝っていた。
ウルトラマンごっこで思いっきり叩いてごめんなさい。
将棋でずるをしてごめんなさい。
ソーセージの箱にポケモンの絵を描いてくれたのに、怒ってしまってごめんなさい。
足をさすっているとき、眠ってしまってごめんなさい。
手紙を読む前、内容を母に確認してもらった。ごめんなさいばかりの文面を見て、母は一つ提案をした。
「最後に『そして、ありがとう』って書いたらいいんじゃない?」
その言葉のとおり、最後の一行を付け足した。しかし、いざ読むというときになってなんだか恥ずかしくなり、その部分を読むことができなかった。最後の一行を読まれることなく、手紙は祖父とともに炎に焼かれていった。
本当は伝えたかったはずなのに。本当は一番伝えたかったことのはずなのに。
僕は言えなかった。最も大切で尊い言葉を、自らの手で切り捨ててしまった。
◇
祖父との思い出が鮮やかな分、後悔もまたどうしようもなく鮮やかだ。
二つの後ろめたさを引きずりながら、僕は祖父のいない世界を生きてきた。
当時8歳だった僕は、今や35歳。無邪気だったあの頃に比べれば、僕は立派に薄汚れた大人となった。生きていく中で、きれいなままでは知りえなかったこともたくさん身につけた。
僕が祖父に引導を渡した日、母が言ったあの言葉の意味も、今ならわかる気がする。
あんたが足をさすってくれたから、じいちゃんは気持ちよく天国に行けたんだよ。だからじいちゃんは『ありがとう』って思ってるはずだよ――
「引導を渡す」という言葉には、残酷な響きがある。
けれど元々は、「亡くなった人が問題なく仏の世界へ行けるよう導く」という、あたたかい祈りの言葉らしい。
もし、あの日、僕のしたことが祈りだったなら。本来の意味での「引導を渡す」ことだったなら。祖父にとってこの上なく幸せな旅立ちだったのではないだろうか。
最期の瞬間にかわいい孫が自分の足をさすってくれている――これ以上のハッピーエンドなんて、きっとない。
別れから四半世紀以上が経った今、祖父はすでに過去の人だ。けれど、祖父の生き様、そして死に様は、今も僕の中に息づいている。祖父と過ごした時間は、僕を強くし、同時に弱くもした。
あの日、僕はたしかに、祖父に引導を渡した。でもそれは、絶望でも、呪いでもない。あの日の別れが、僕の弱さを受け入れるための儀式だったのだと――今なら、そう思える。
本当は棺の中に入れるはずだったこの似顔絵は、僕が残しておきたいと懇願したので取ってあったものだ。それが今、再び僕の前に現れた。
これは、ただの偶然だろうか?
あらためて祖父に手紙を書いてみたい。
もし天国に手紙を送る手段があるのなら、今の僕はなんと書くんだろう。いろいろ考えて結局「ごめんなさい」になりそうな気もするが、いやいや違う。ずっと胸にしまっていた本当の気持ちを、今こそ伝えるときだ。
「大好きなじいちゃんへ。僕のじいちゃんでいてくれて、ありがとう」
ダメだ、涙が止まらない。
泣き虫なのはちっとも変わってないや。
(おしまい)
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