< 日本の論点 ~ りう君の飼い主は語る ~ >② 高市政権と日韓の統一教会問題の深刻さと解決 [序~破]
女性初の総理大臣となった高市政権は一応快挙でもあるだろう。保有投資信託のポートフォリオにも半導体を組み入れているが、ここ1ヵ月は上がり続けている。ただ、日経PER平均はとうとう20倍に近づいており、米国ダウPER平均25倍とおなじ20倍台に突入する可能性が迫っている。決算の良い半導体株がものすごく指数を牽引している模様だが、米国とおなじ20倍台に突入するのは今までとは意味が違ってくるのではと個人的には思う。今までは米国は20倍台だけど、日本は10倍台でまだ安いという安直な考えがあった。
女性総理という事で喜ばしいとは思うが、大手マスコミには3か月間はあまり批判的な事を言わない暗黙の報道協定があり、潜在化するリスクを先送りしそうな感覚はある。神奈川県民ですが、まあ進次郎にならなくて良かったですよ。
防衛大臣の他に、どうしても進次郎が総理大臣になる運命の場合、もう1回何か重要な大臣を経験しないとなってはいけないと思う。そして地方公共団体ではなく、国家を代表する総理大臣には、四大国家資格 ( 国家公務員Ⅰ種 [ 官僚 ] 試験・司法試験・公認会計士試験・医師国家試験 ) 合格レベルの学力がないと本来はいけないのではないかとも思う。そしてそれらを多く輩出する大学出身でないと、信用力や判断力がどうしても劣ってくるのではないかと思うのだ。官僚が言う通りに全て決定して述べていたら、もう議院内閣制や民主主義は単なるお飾りに過ぎないだろう。そして田中角栄の様に、自民党総裁選で数十億を自民党国会議員に提供して票を買収する( 自民党総裁選は金による買収が合法! )時代ではない。
日本は戦後1945年9月2日~1952年4月28日まで、6年7ヵ月GHQに直接支配された事は事実であり、ポツダム宣言を受諾した1945年8月15日から2日後には、GHQから要求したとの wikipedia情報 もあるが、日本政府側は数万人の女性を集めて米軍男性の性的相手をする慰安所を申し出ている。終戦後の日本はGHQ指揮下の日本政府による統治が著しく低下しており、朝鮮半島出身者の一部は、GHQの憲兵のジープに同乗して憲兵気取りをする者が現れたり、破壊され尽くした市街地中心街の一角にロープを張って占有し、20年経過して本当に法律的にも私有地にしてしまったり、パチンコ屋・焼肉屋・風営店を経営し始めた。GHQは一切の赤字国債発行を認めなかったので、5年間で700% というマイルドなハイパーインフレが発生し、都市部の労働者階層は食料品・物資の調達に大変苦労したが、朝鮮半島出身者が公然と闇市を仕切ったりする現象が多くの都市部で行われていた。GHQが逆統治の一端として非公式的に行っていたのではないかとも思うのである。またGHQは一切の航空機研究を日本の旧財閥に禁じたので、終戦から西側復帰までの時点で、7年近い米国との技術開発力のブランクが発生した。
日本はサンフランシスコ講和会議で独立し、西側諸国の一員となったが、前回も書いたが、1951年8月に米国上院議員カール・ムント氏が「日本全土に総合通信網を日本の民間資本で建設する」と発表した翌月の9月4日、正力松太郎氏 (旧東大卒;警察官僚→貴族院議員→読売新聞社社長) が 日本テレビ放送網設立構想を発表、キリスト教進学校で有名な女子学院の隣り (旧満州鉄道社長宅) に、日本テレビ社屋を建設開始。9月10日、テレビ放送に必要な機材を米国RCA (ブラウン管日本製テレビのチューナーや、レコードなどを独占的に提供。) 社に発注。資金は正力から要請を受けた池田勇人大蔵大臣 (京大卒:大蔵次官→大蔵大臣→首相) が財界に声をかけて調達した。そして10月28日に日本テレビ放送網が開始するのである。翌1952年4月28日に日本はGHQの支配が終了し独立をするが、一連の流れを見て分かる通り、日本テレビ設立だけでもGHQ (米国) 主導で、55年体制前の官僚出身の旧自民勢力 (自由党・改進党+支持財界) が米国機材を使ってテレビ局を作ったものと分かる。また読売新聞が1955年に「平和の為の原子力」運動を大々的に展開した後、正力氏は衆議院議員となり、文系なのに初代の科学技術庁長官になっているが、これは1952年に水爆実験を成功させたソ連が東欧諸国に原子力発電所建設の技術提供をすると表明した事に危機感を抱いた米国が、日本にも原子力発電を推進させようと1953年12月8日にアイゼンハワー大統領が国連演説をしたものを受けて開始されている。そして1954年3月に国会に予算が提出され1955年に原子力基本法が制定されたが、日本防衛はおろか、民放テレビ放送や原子力開発まで、米国政府の意向を強く受けたものになっており、それらは決して研究を再開したばかりの当時の日本の技術力では単独では実現不可能であり、独立したとは言え米国の意向を極めて強く受けたものとなった。
そのような日本の状況の中で文鮮明氏は1954年5月に韓国で統一教会を創立したが、1948年に社会秩序動乱罪で逮捕・懲役5年で服役(1950年9月に朝鮮戦争の国連軍が釈放した)、教団設立の同年に姦通罪で他の信者と共に3か月間逮捕、1955年には梨花女子大の女子大生を監禁などの疑いで逮捕されたが無罪となった。ただ、朝鮮戦争 (1950~1953) が終わると今度は米ソ冷戦が開始されたので、この頃から日本での布教を計画し、1958年に弟子の崔奉春 (日本名:西川勝) を密入国で日本に入国させ、早稲田大学そばの 韓国のキリスト教徒が経営する雄鶏舎時計店 (西早稲田2丁目18−23) 2階に統一教会日本支部を誕生させた模様である。

教祖・文鮮明は1941年4月から1943年10月まで来日し、早稲田高等工学校電気科(2.5年制)で学んでおり、雄鶏舎時計店そばの三橋家に下宿して早稲田大学理工学部が運営する、この各種学校 ( 夜間高専みたいな学校 ) を卒業したことから、人脈や思い入れのあるこの地から布教活動を始める事に大きな意義があったのだろう。文鮮明は京城商工実務学校電気科(3年制・現在の中央大学 [韓国] )を卒業した後に早稲田高等工学校に来日しているので、根は賢い。
また、それより前に中国共産党の草創期メンバーである、陳独秀や李大釗 (ショウ) も早稲田大学に留学経験(陳独秀:1901年, 李大釗:1913年)があるが、それぞれ、満州族である清王朝を打倒する民族革命 (陳独秀) や 社会主義思想 (李大釗) を学んだとあり、これらは徳川幕府を倒そうと薩長がイギリスと組んで画策したり、16世紀イギリスの産業革命の過程で国民が資本家と労働者階層に分化し、労働者側が生き続ける為に思想の連帯 (社会主義・共産主義) を持って資本家に対抗し始めたのに似ている。そう、知らない若者も多いと思うが、社会主義や共産主義の概念は初めイギリスで生まれたのである。
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