愛という動詞
書斎の本棚に、
古い辞書がある。
ある日、「愛」という項目を引いた。
そこには、名詞としての定義が並んでいた。
しかし、愛は、名詞ではない。
愛とは、動詞だ。
ある修道女の話がある。
彼女は生涯、貧しい人々のために働いた。
病人を看護し、孤児を育て、
死にゆく者に寄り添った。
「なぜ、そこまでするのですか」と、
誰かが尋ねた。
彼女は答えた。
「愛するとは、することだから」
「愛していると、言うだけではダメなのですか」
「言葉は風だ。行為だけが、形を残す」
愛に生きるとは、愛を、所有することではない。
多くの人は、愛を名詞だと思っている。
手に入れるもの、蓄えるもの、
誇示するものだと。
「私には愛がある」
「私は愛されている」
「私の愛は大きい」
しかし、それは錯覚だ。
愛は、持てない。
愛は、「ただ、する」ことしかできない。
愛に生きるとは、毎朝、選択することだ。
目が覚める。隣で眠る人を見る。
起こすか、起こさないか。
朝食を作るか、作らないか。
優しい言葉をかけるか、無言で出ていくか。
その選択の一つ一つが、愛だ。
感情ではない。
気分でもない。
ただ、行為だ。
ある父親の話がある。
彼の息子は、反抗期だった。
暴言を吐き、扉を叩きつけ、
何日も口をきかない。
父親は、傷ついた。怒りも湧いた。
しかし毎朝、息子の弁当を作った。
「どうせ、感謝もされないのに」と、
妻が言った。
「それでも、作る」
父親は淡々と答えた。
「愛とは、見返りを求めないことだから」
息子が家を出る日、父親に言った。
「ありがとう。毎日の弁当、全部食べてた」
父親は、何も言わなかった。
ただ、頷いた。
愛は、報われるために行うものではない。
しかし、行い続ければ、いつか届く。
愛に生きるとは、
小さな行為を、積み重ねることだ。
壮大な犠牲ではない。
英雄的な献身でもない。
朝、「おはよう」と言う。
夜、「おやすみ」と言う。
疲れている相手に、お茶を淹れる。
話を聞く。最後まで、遮らずに。
約束を守る。小さなことでも。
その繰り返しが、愛だ。
ある陶芸家は、こう言った。
「愛とは、土をこねることに似ている」
「どういう意味ですか」
「毎日、手を動かさなければ、形にならない」
一日だけ土をこねても、茶碗にはならない。
しかし、毎日少しずつこね続ければ、
やがて形になる。
愛も同じだ。
一度だけの「愛している」では、
何も生まれない。
しかし、毎日の小さな愛が、
やがて、人生という作品を形作る。
愛に生きるとは、自分を忘れることではない。
多くの人が、ここを誤解する。
愛とは自己犠牲だと思い込み、
自分を削り、すり減らし、消耗していく。
それは愛ではない。それは、自己破壊だ。
ある看護師が、こう言った。
「最初、私は患者のために全てを捧げた。
睡眠を削り、休日を返上し、自分の健康を顧みなかった」
「それは、愛ですね」
「違う。それは、傲慢だった」
彼女は首を振った。
「自分が壊れたら、誰も助けられない。
愛に生きるとは、まず自分の器を保つことだ」
愛に生きる者は、自分を大切にする。
十分な睡眠を取る。
栄養のある食事をする。
心の余白を保つ。
なぜなら、満ちた者だけが、与えられるから。
空の器からは、何も注げない。
愛に生きるとは、見返りを期待しないこと。
しかし、無償で尽くし続けることでもない。
それは、バランスだ。
ある日は、多く与える。
ある日は、少し受け取る。
ある日は、ただ一緒にいる。
その往復が、関係を育てる。
一方的に与え続ければ、枯れる。
一方的に受け取り続ければ、腐る。
愛とは、呼吸のようなものだ。
吸って、吐いて。
その循環が、命を保つ。
ある老夫婦の話がある。
夫が病に倒れた。妻が、介護をした。
「大変ですね」と、誰かが言った。
妻は微笑んだ。
「大変だけど、これが私の愛の形だから」
「愛の形?」
「そう。若い頃、彼は私のために働いた。
今は、私が彼のために動く。
ただ、それだけのこと」
愛に生きるとは、役割を固定しないことだ。
時には与える側、時には受け取る側。
時には強い側、時には弱い側。
時には導く側、時には導かれる側。
その柔軟さが、愛を長続きさせる。
では、愛に生きることは、誰に対してのことか。
家族だけか。恋人だけか。友人だけか。
違う。
愛に生きるとは、全ての存在に対して、
愛という動詞を行使することだ。
ある庭師は、草木を愛した。
毎朝、一本一本に声をかけた。
「今日も元気だね」と。
枯れかけた葉を見つけたら、そっと取り除いた。
「植物に愛なんて、わかりませんよ」と、
誰かが言った。
庭師は答えた。
「わかるかどうかは、問題じゃない。
私が愛するかどうかが、問題だ」
愛に生きる者は、
道端の花にも、目を向ける。
通りすがりの人にも、微笑む。
名前も知らない誰かのために、扉を押さえる。
それは偽善ではない。
見返りを求めているわけでもない。
ただ、愛という動詞を、習慣にしているだけだ。
愛に生きるとは、結局
生きることそのものを、愛の実践にすることだ。
呼吸する。この身体を愛する。
食べる。この命を愛する。
働く。この社会を愛する。
休む。この時間を愛する。
全てが、愛になる。
書斎を出て、窓辺に立つ。
外では、雨が降っている。
誰も見ていない。
誰も褒めない。
しかし、雨は降る。
大地を潤し、草木を育て、川を満たす。
それが、雨の愛だ。
見返りを求めず、ただ降る。
愛に生きるとは、そういうことだ。
誰も見ていなくても、行う。
誰も褒めなくても、続ける。
誰も理解しなくても、貫く。
なぜなら、それが私の在り方だから。
愛は、感情ではない。
愛は、名詞ではない。
愛は、所有物でもない。
愛は、動詞だ。
そして、愛に生きるとは、
その動詞を、毎日、何度も、繰り返すこと。
小さく、静かに、淡々と。
それだけだ。
しかし、それが全てだ。
深海、静寂のなかで
