鶴巻さん

三十三歳になる圭太郎は未だに労働が嫌いであった。武蔵小杉から横浜に向かう横須賀線の電車の中で大人になれない自分自身を冷笑していた。ふと目の前には二十台前半の半袖シャツを着たサラリーマンがスマートホンでアニメを観ていた。彼は労働が好きだろうか。仕事が好きであれば好きの感情は伝染する。お金が社会でクルクル回っているように感情も人と人との間でクルクル循環しているのではないか。

圭太郎はなぜ労働が嫌いなのか横浜駅に到着するまでの間考えてみた。決まった時間に起きて、決められた行動を行い、上司の前で謙虚な姿勢を求められるのが嫌で嫌で堪らないのであった。生きるとはそういうことだ、と神様に叱られたら、こっちだって生まれたくて生まれたんじゃない、と反論してしまいそうだった。

圭太郎は昨日買った文庫本をチノパンの後ろポッケから取り出し一ページ目を捲る。面白いと思って買ったはずの本がなぜか頭に入ってこなかった。圭太郎は明らかに自分の方が格下の短編小説を書いているのにもかかわらず、自分の書いた小説の方が面白いと感じていた。それは圭太郎が普段感じている内面の感情を言葉で客観的に表すことの快楽に溺れているだけだった。面白くない文庫本をまたチノパンの後ろポッケにしまい吊り革の上に貼られているインフルエンサーの広告を眺めていた。

すると近くの座席にパートで清掃やお茶汲みをしている鶴巻さんが本を読んでいた。背が百五十センチに満たない身長に黒髪のおかっぱ頭、黒縁眼鏡で黙々と働く鶴巻さんは誰にでも謙虚であった。仕事熱心の鶴巻さんは一体どんな本を読んでいるのか圭太郎は興味が湧いた。圭太郎は鶴巻さんに近づき会釈をして声をかけた。

「おはようございます」

「おはようございます。髪、サッパリしましたね」

圭太郎は自分が髪を切ったことを忘れており、鶴巻さんが覚えていることに驚いた。

「鶴巻さんが読まれてるのは小説ですか」

「えぇ。今の子、本読まないでしょ。夏目漱石の道草。知らないよね」

圭太郎は心臓が飛び跳ねそうになり、瞳孔が開いた。

「道草ならこの前読みました」

「あらっ本当。若いのに珍しい。この話本当、暗いよね。けど私なんでかわからないけど、夏目漱石の小説は高校生のときから好きなのよ」

圭太郎は生涯、夏目漱石の道草を読んだことのある人と出会えると思っていなかった。それから私の尊敬している著者を読んでいるのが鶴巻さんかと一瞬、虚無感に襲われた。圭太郎は自分の傲りを認めざる終えなかった。文学に触れたからと決して読者が偉くなるわけではない。それでも圭太郎の好きな小説を好きと言ってくれる人が目の前にいるのはは幸せだった。

「あの人、病的に暗いじゃない。奥さんの鏡子さんも苦労したと思うの。だからね、私。この人の本を読むと私も頑張ろうって思えるだ」

普段、黙々と働いている鶴巻さんが好きな小説を一生懸命話す姿は心から素敵だと思い、それが圭太郎の好きな小説であることは奇跡だと感じた。圭太郎は年齢が近かったらどれだけ興奮だろう。神様はやっぱり都合良く世界を作り上げてはいないようだった。しかし圭太郎は神様への反論を取りやめることにした。




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