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【異世界×ダーツ】ダブルブル・リスタート 第1話「最後の一投」

【プロローグ】

雨が、降っていた。

石造りの天井を打つ雨音が、がらんとした店の中に、遠く響いている。

的までの距離、二メートル三十七センチ。

見慣れたはずのその数字が、今夜はやけに遠く感じる。

当たり前だ。ここは、俺が慣れ親しんだ距離じゃない。音も、光も、俺を祝福してはくれない。

俺が狙うのは、華やかな真ん中の的じゃなかった。

盤の外れ、細く、頼りない一本のダブル。

かつての俺なら、絶対に信じきれなかった――逃げ続けてきた、その一本。

ランタンの灯りに照らされた指先が、震えている。

――でも。

「……大丈夫。信じてる。」

隣で、そう声がした。

小さくて、たどたどしくて、けれど、芯のある声。

その一言で、ようやくわかった。

俺は、もう、一人じゃない。

息を吸う。腕を引く。

もう、逃げない。

放つ――。

* * *

第1話「最後の一投」

最後の客が帰ったのは、日付をまたいで、午前零時を少し過ぎた頃だった。

「マスター、店じまいなんて、寂しくなるね」

常連の田口さんはそう言って、いつもより多めのチップを、そっとカウンターに置いていった。しわの寄った千円札。

気を遣わせてしまったのが申し訳なくて、俺は「ありがとうございます」と頭を下げるしかなかった。

ドアベルが乾いた音を一つ立て、それきり、店は静かになった。

《BULL'S EYE》。俺が三年前に開いた、小さなダーツバー。

壁際には、フェニックスの筐体が二台。液晶の光は落ち、あの派手な電子音も、盤面が点灯するときの祝福みたいなエフェクトも、今は眠っている。

カウンターの向こうに並んだボトルの列。壁に飾った、海外プロのポスター。

そのどれもが、明日にはもう、俺のものじゃなくなる。

閉店。廃業。

どう言い換えたところで、要するに――失敗した、ということだ。

俺は照明を半分落とし、カウンターに一人で座った。冷めきったコーヒーを口に運ぶ。

苦い。豆を安物に替えたのは、いつからだったか。もう、思い出せない。

天井を見上げる。あちこちに凝った間接照明。無垢のオークを削り出した、自慢のカウンター。

金をかけた分だけ、この静けさが、やけに重くのしかかってくる。

――思えば、最初から、歯車は少しずつ、狂っていたんだ。

始まりは、ただの気晴らしだった。

残業続きで、心がすり減っていた頃だ。同僚に無理やり連れ込まれたダーツバーで、俺は初めてソフトダーツを投げた。

狙った場所になんて、まるで刺さらない。それでも盤面は、俺の下手くそな一投を、派手な光と音で祝ってくれた。

不思議だった。

盤に向き合っている、あの数十秒。頭の中を埋め尽くしていた雑音が、すっと消えた。

締め切りも、上司の小言も、明日の憂鬱も。その一瞬だけは、どこか遠くへ行ってくれた。

俺は、のめり込んだ。

仕事終わりに閉店ギリギリまで投げ、休みの日は開店から居座った。

指先の感覚が、日に日に研ぎ澄まされていく。狙った場所に、狙った通りに刺さる。

世の中で唯一、自分の思い通りになる場所。それが、俺にとってのダーツだった。

無口な、あの店のマスターの顔が浮かぶ。めったに人を褒めない人だった。

その人が、ある夜、俺の背中に、ぽつりと言ったんだ。

「お前、プロテスト、受けてみないか」

冗談だと思った。俺みたいな素人が、と。

でもマスターは真顔で、こう続けた。

「腕はある。あとは――覚悟だけだ」

覚悟。

あのとき俺は、その言葉の重さを、何ひとつ、わかっちゃいなかった。

大会の会場で、生で見たあの女子プロ選手のことも、忘れられない。

彼女のスローフォームは、とにかく静かで、美しかった。派手なパフォーマンスなど、一つもない。

ただ、勝負どころで必ず、あの地味なダブルを、当たり前みたいに、そっと決めてしまう。

俺は、割れんばかりの歓声よりも、その一投の前の、彼女の呼吸の静けさに震えた。

いつか、あの舞台に立ちたい。彼女と、同じ場所で投げたい。

――そして、受かった。プロテスト、合格。

マスターは「ようやく、スタートラインだ」とだけ言って、握手をしてくれた。

分厚い、あたたかい手。その手が、少しだけ震えていた気がするのは、俺の思い違いだろうか。

俺は、会社を辞めた。

周りは、口を揃えて反対した。安定した仕事を捨てて、何を血迷ったのか、と。

でも、止まれなかった。

貯金をはたき、足りない分は銀行と、消費者金融から借りて、この店を開いた。

プロとして大会で名を売り、この店を、街の名所にする。自分の城を、この手で築くんだ――

そんな絵を、俺は本気で、疑いもせず、描いていた。

現実は、そう甘くなかった。

まず、店の場所だ。俺は駅前の、いちばん目立つ一等地のテナントを選んだ。

「プロの店なんだから、これくらいの場所じゃなきゃ格好がつかない」。

家賃は、月に三十万近い。契約書のその数字を見ても、俺は「客さえ入れば、すぐ埋まる」としか、考えなかった。

内装にも、湯水のように金を注いだ。無垢のオークで削り出したカウンター。海外から取り寄せた、本格的なブリッスルボード。フェニックスの最新筐体を、二台。

ダーツバーってのは、雰囲気が命だ、と。見栄えのする箱を作れば、それだけで客は来る。そう信じて、疑わなかった。

いま思えば、笑い話だ。

俺は「店を開くこと」に金を使いきって、「店を続けること」に要る金を、まるで残していなかった。

運転資金――その言葉の意味すら、俺はまともに知らなかったんだから。

値付けも、どんぶり勘定だった。

一杯のドリンクの原価がいくらで、そこにいくら乗せれば利益が出るのか。家賃も光熱費もリース代も人件費も、ぜんぶ賄ったうえで、月にいくら売り上げなきゃ赤字になるのか。

そんな計算を、俺は開店から一度も、まともにしたことがなかった。

「他所がこれくらいだから」「安いほうが、客も喜ぶだろう」。

その程度の感覚で、俺は自分の首を、じわじわと絞めていた。

だが――いちばんの、致命的な間違いは、そんな数字の話じゃなかった。

俺は、いつの間にか、店を「自分のための場所」にしていたんだ。

客が来れば、俺はカウンター越しに腕を披露した。

華麗なグルーピング。ブルへの、連続ヒット。三本の矢が、狙い違わず同じ一点に吸い込まれるたび、客は「おお」と声を上げてくれる。

「すごいですね、マスター」「さすが、プロだ」。

その一言が、たまらなく心地よかった。

擦り減った日々の中で、俺の渇いた自尊心を潤してくれるのは、その称賛だけだった。

だから俺は、いつしか客に投げさせるより、自分が投げて見せることのほうに、夢中になっていった。

客が下手な一投をすれば、つい「そこは、こう」と口を出す。教えてやっている、という顔で。

本当は、自分の腕を、もう一度見せびらかしたいだけだったのに。

――ここは、客が楽しむための店じゃない。俺が、気持ちよくなるための店だ。

客は、そういう空気を、驚くほど敏感に嗅ぎ取る。

初めて来た客が、恐る恐る矢を握る。狙いを定めて、投げる。的を大きく外して、決まりが悪そうに笑う。

そこで俺が「惜しい、腕がこう流れてる」なんて、頼まれてもいない指導を始める。

相手の顔から、すっと笑みが引いていく。

萎縮した客は、二杯目を頼まず、そそくさと帰っていく。そして――二度と、来ない。

「下手なところを、プロに見られたくない」。「あの店は、なんだか居心地が悪い」。

口には出さずとも、客はそう感じていたんだろう。

俺の店は、いつしか、投げて楽しむ店ではなく、俺のプレイを黙って眺める、品評会みたいな箱になっていた。

賑やかだったはずのフェニックスの電子音が、日を追うごとに、まばらになっていく。

夜が更けても、盤面はほとんど灯らない。

俺一人が、誰もいない店で、パチン、パチンと、乾いた音を立てて投げているだけ。

――皮肉な話だ。狙い通りに刺さる、その音を、俺は世界でいちばん心地よく思っていたはずなのに。

ある頃から、その音が響くたび、胸の奥が、しん、と冷たくなるようになった。

客が減れば、売上が落ちる。

売上が落ちても、家賃も、リース代も、光熱費も、容赦なく毎月やってくる。

俺は、その穴を、また借金で埋めた。

人件費を削るために、バイトを辞めさせて、仕入れも、仕込みも、接客も、洗い物も、帳簿づけも、何もかも一人でやった。ワンオペだ。

朝、仕入れに走り、昼に仕込み、夜通し店に立つ。

閉店後は帳簿と睨めっこ――といっても、赤い数字を眺めて、ため息をつくだけだ。

眠る時間なんて、ろくになかった。

ある朝、洗面所の鏡を見たとき、そこに立っていたのは、頬がこけ、目の下に濃い隈をつくった、知らない男だった。

俺は、しばらくその男を、他人みたいに見つめていた。

それでも――俺は、助言に、耳を貸さなかった。

心配して言ってくれる人は、いたんだ。あの田口さんも、その一人だった。

「マスター、もっと初心者が気楽に投げられる日をつくったらどうだい」

「教える会でも開けば、若い子が来るよ」

「値段と原価を、一度きちんと、見直したほうがいい」

正論だった。ぜんぶ、痛いくらいに、正論だった。

だが、俺は聞かなかった。

――プロなんだから。

その、たった二文字が、俺の耳を、固く塞いでいた。

プロが、素人相手に手取り足取り教えるなんて。プロの店が、安売りして客に媚びるなんて。

そんなのは、俺のちっぽけなプライドが、断じて許さなかった。

いま思えば、俺は、ただの、井の中の蛙だった。

小さな水たまりの中で、自分がいちばんだと信じ込んで、外に広がる海を、見ようともしなかった。

すっかり、天狗になっていたんだ。

そして、その伸びきった鼻を、自分の手でへし折る勇気を、俺は最後まで、持てなかった。

「……何が、プロだよ」

誰もいない店で、俺はぽつりと、自分に吐き捨てた。

カウンターから立ち上がり、壁に掛けたマイダーツを手に取る。

もう、何万回と握った、俺の相棒。この店でこいつを投げるのは、今夜が、最後だ。

フェニックスの電源を、もう一度だけ入れた。

液晶が、じじ、と息を吹き返し、能天気な待機音が、店の重い静寂を、無遠慮に破る。

スローラインに、立つ。盤面までの、二メートル四十四センチ。

この距離だけは――どんなに何もかもが崩れていっても、ただ一つ、変わらなかった。

目を閉じると、いやでも思い出す。

プロになって初めて出場した、あの公式戦を。

俺は、あと一本で、勝てた。

「ダブルアウト」。残り数字を、ダブルで、ぴたりと上がりきる。プロなら、当然のフィニッシュ。

俺が狙ったのは、ダブル16。何百回と決めてきた、慣れた場所だった。

会場の隅に、あの憧れの選手が、いた。

彼女が、見ている。この一投を決めれば、俺は――彼女と、同じ舞台の人間になれる。

そう思った、まさにその瞬間。

指先が、ほんのわずかに、固くなった。

外した。

矢は、無情にもシングルに刺さり、俺の番は終わった。

相手が次のターンで、難なく上がりきって、それで、俺の初陣は、幕を閉じた。

いや――あの一投で、俺の中の、何かが、終わってしまったのかもしれない。

派手なブルなら、俺は誰にも負けない自信があった。

でも、勝負を決める、地味なダブル。本当に大事な、たった一本を、俺はいつも、どこかで信じきれずにいた。

同じ舞台に立ちたいと願うくせに、その一線を越える覚悟が、俺には、なかった。

……店を続けることも、きっと、同じだったんだろう。

マスターの声が、耳の奥で、静かに響く。

「あとは、覚悟だけだ」

「……最後くらい、決めさせてくれよ」

俺はダーツを構えた。狙うのは、盤面の、ど真ん中。ブル。

最後に、あの気持ちよさだけでも味わって、終わりにしたい。

プロとしても、経営者としても、結局、何ひとつ残せなかった俺の――せめてもの、餞別だ。

息を、吐く。腕を、引く。

指先の、たった一点の感覚に、意識のすべてを、研ぎ澄ます。

放つ。

矢は、真っ直ぐに飛んだ。吸い込まれるように、盤面の、中心へ。

――ブル。

フェニックスが、けたたましく祝福を鳴らした。

派手な電子音。虹色に明滅する盤面。無人の店に響く、俺の最後の一投を讃える、盛大な空騒ぎ。

その瞬間だった。

ダーツが盤面に触れた一点から、視界が、ぐにゃりと歪んだ。

赤いインナーブルと、それを囲む緑のアウターブルが、渦のように、回転を始める。

「……は?」

立って、いられない。足元が、ぐらりと、傾いだ。

いや――違う。傾いだのは、床じゃない。俺の、ほうだ。

急に、頭の奥が、鉛を詰めたように重くなった。視界の端から、じわりと、暗んでいく。

手足の感覚が、遠い。指先に握っていたはずの、相棒の重みすら、もう、わからない。

――ああ。

妙に冷静な自分が、まるで他人事みたいに、静かに納得していた。

無理が、たたったんだ。

眠らず、食わず、一人で、何もかも抱え込んで、赤い数字ばかりを睨んで。

あの朝、鏡の中にいた、頬のこけた、隈だらけの、知らない男。

あれは、とっくの昔に限界を通り越していた、身体の、悲鳴だったんだ。気づかないふりを、していただけで。

膝から、力が、抜けていく。

カウンターも、ボトルも、壁際のフェニックスも、店じまいの静けさも、そのすべてが、ゆっくりと、遠ざかっていく。

まるで、深い、深い水の底へ、静かに沈んでいくみたいに。

――なんだ。

こんな、あっけないものか。

三年間、爪を立ててしがみついた、この店の、最後の夜に。誰にも看取られず、たった、一人で。

情けなくて、いっそ、笑えてきた。

プロだ、経営者だと、あれだけ大きな夢を語ったくせに。結局、何ひとつ残せず、借金の山だけを残して。

こんな場所で、こんなふうに――。

……俺は、ここで、死ぬのか。

不思議と、怖くは、なかった。

ただ、ひとつだけ。

最後に投げた、あの一本が。ちゃんと、ブルのど真ん中に、刺さったこと。

それだけが、なぜだか、胸の奥で、静かに、あたたかかった。

――ああ。ちゃんと、決まったな。

狙い通りに刺さった、意味のない、たった一投。

それを最後に、俺の意識は、暗闇の底へと、落ちていった。

そして――あれほど騒がしかった、すべての音が、嘘みたいに、ふつりと、消えた。

* * *

死んだ、はずだった。

なのに、頬に石の冷たさを感じて、俺は目を覚ました。

見上げた先にあるのは、店の天井じゃない。苔むした古い石と、見たこともない色の空。湿った風が、頬を撫でていく。

――ここは、どこだ。

現世で、何ひとつ掴めなかった俺の物語は、こんな場所で、まだ続くというのか。

狙い澄ました、あの「最後の一投」は。

どうやら、本当の意味では、まだ終わっていなかったらしい。

第一話「最後の一投」おわり

* * * * * * * * * * *


やあ、深澤翔真だ。ここまで読んでくれてありがとな!
はじめての人でもわかるようにダーツ用語をわかりやすく解説していくぞ!

◆ ソフトダーツ

先端が柔らかいプラスチックの矢を、電子機器の盤面に投げる方式。得点は機械が自動で計算し、当たると音や光の演出が出る。俺が現役でやっていたのは、こっちだ。

◆ フェニックス

ソフトダーツの機械(ダーツマシン)の名称。盤面が光り、ヒット時に電子音とエフェクトで盛り上げてくれる。

◆ ハードダーツ

金属の先端(スティール)の矢を、麻を固めた盤に突き刺す方式。音や光の演出はなく、得点は基本的に自分たちで数える。センサーやカメラで自動採点する機材もあるが、高価なので、置いていない店のほうが多い。

◆ ブル

盤面の中心にある的。内側の「インナーブル」と、その外側の「アウターブル」に分かれている。

◆ シングル

盤面の各エリアの、標準の得点部分。倍率がかからない、基本の当たり。

◆ ダブル

盤面のいちばん外側にある細いリング。ここに入ると、その数字の得点が二倍になる。

◆ ダブルアウト

残りの点数を、ちょうどダブルに当てて、ぴたりとゼロにして上がる決め方。多くの公式ルールで、勝敗を決める最後の一投は、これが求められる。

◆ グルーピング

投げた複数の矢を、狙った同じ場所に固めて入れること。まとまり具合が、その人の技術を表す。

◆ スローライン

矢を投げるときに、足を踏み越えてはいけない基準線。この線から盤面までの距離が決められている。ソフトダーツの場合は、二メートル四十四センチ。

◆ マイダーツ

自分専用の、持ち込みのダーツのこと。手に馴染んだ一組は、プレイヤーの相棒になる。

◆ ブリッスルボード

麻(サイザル麻)を圧縮して作られた、ハードダーツ用の的。矢が刺さっても、繊維が閉じて跡が残りにくい。


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