【異世界×ダーツ】ダブルブル・リスタート第2話「名もなき酒場」
――冷たい。
頬に触れる、硬く湿った感触で、意識が浮かび上がってきた。
石だ。
苔むした、冷たい石。
重い瞼を、こじ開ける。
見上げた先にあったのは、見たこともない、抜けるように青い空。
ざわめく葉擦れの音。
どこか遠くで、聞き慣れない鳥が鳴いている。
「……は?」
俺は、たしか。
店じまいの夜、最後の一本を投げて、それから――
膝から力が抜けて、暗闇に沈んだはずだ。
死んだ。
そう、思ったはずだった。
なのに、身体が痛い。
指先を握れば、爪が土を掻く感触がある。
息を吸えば、湿った草の匂いが鼻をつく。
死んだ人間が、痛みを感じるだろうか。
冷たさを、感じるだろうか。
「……ここは、どこだ」
ゆっくりと身を起こす。
周りには、崩れかけた円形の石造りの遺構が広がっていた。
俺が知っている、どんな街並みとも違う。
夢だ、と思いたかった。
だが、頬に残る石の冷たさが、これは現実だと突きつけてくる。
ふと、右手に硬いものを握っているのに気づいた。
――マイダーツ。
手のひらに馴染んだ、俺の相棒。
あの夜、最後に投げたはずの一本が、なぜか、俺の手の中にあった。
なんで、これだけ。
わけがわからないまま、それでも、その重みだけが、妙に安心できた。
* * *
悲鳴が、聞こえた。
女の子の、細く、引き裂くような声。
考えるより先に、身体が動いていた。
声のした方へ、石を蹴って走る。

木立を抜けた先。
そこに、いた。
そして――俺は、その光景に、思わず、息を呑んだ。
三人の、ガラの悪い男たち。
だが、そのどれもが、人間じゃなかった。
頭の上に、ぴんと立った、犬の耳。
腰の後ろで、ゆらりと揺れる、太い尻尾。
むき出しの牙。
獣のように、爛々と光る眼。
――なんだ、あれは。
背筋が、ぞわりと粟立った。
着ぐるみ、なんかじゃない。
あれは、生きて、動いて、呼吸している。
人の身体に、獣の頭を継ぎ足したような、あり得ない姿。
頭が、理解を拒んだ。
そんなものが、この世にいるはずがない。
夢だ。
やっぱり、これは夢なんだ。
悪い夢を、見ているだけなんだ――。
足が、竦んで、動かない。
逃げろ、と、本能が叫んでいた。
あんな化け物に関わるな。
今すぐ、踵を返せ。
見なかったことにして、走って逃げろ。
――だが、そのとき。
化け物たちに囲まれた、真ん中の、小さな影が見えた。
古びた木の板を、胸に抱きしめて、震えている。
その子も、また。
白い髪から覗く、猫のような、白い耳。
丸まった背中で、心細げに垂れた、白い尻尾。
恐怖に引き攣った、幼い横顔。
――同じ、だ。
あの子も、人間じゃない。
俺が、化け物だと思った、あいつらと、同じ側の存在だ。
矛盾が、頭の中で渦を巻いた。
怖い。
あの子も、怖い。
得体が知れない。
関わってはいけない。
けれど。
木の板を抱きしめて、それでも逃げようとしない、あの小さな背中。
きっと、あの中には、あの子にとって、命より大事な何かがある。
手放したら、全部が終わってしまう何かが。
その姿は――耳や尻尾を取り払ってしまえば。
あの夜の、俺自身と、何一つ、変わらなかった。
誰も助けてくれない店の中で。
シャッターを半分下ろして、たった一人で震えていた、情けない俺と。
「――くそっ」
自分でも、馬鹿だと思う。
姿かたちなんて、関係あるか。
震えているのは、怯えているのは、あの子の方だ。
牙を剥いて、寄ってたかって、一人の子供を追い詰めている――
悪いのは、どう見たって、あのでかい図体の連中だ。
助けたい。
理屈じゃない。
ただ、あの子を、見捨てたくなかった。
けれど、身体は動かない。
喧嘩の仕方なんて、知らない。
ましてや相手は、牙を持つ、獣だ。
殴られたら、いや、噛みつかれたら、それで終わりだ。
俺に、何ができる――。
そのとき。
無意識に握りしめていた、右手の中の、硬い感触に気づいた。
視線が、そこに落ちる。
――マイダーツ。
手のひらに、吸い付くように馴染んだ、俺の相棒。
三年間、いや、それよりずっと長く。
眠っている間も、握っていたんじゃないかと思うほど、身体の一部になった、たった一本の矢。
そうだ。
俺には、これがある。
拳が、腕っぷしが、牙が、勝負を決める世界じゃない。
俺の戦場は、いつだって、たった数メートル先の、小さな一点だった。
だが――今の俺と、あの獣たちとの距離は、遠い。
しかも、まずい。
風が、俺の背中から、奴らの方へと、吹いている。
犬。
あの立った耳。
ひくつく鼻先。
獣の血が流れているなら、鼻も、耳も、人間の比じゃないはずだ。
この風向きのままじゃ、俺の匂いも、息遣いも、とっくに気取られていておかしくない。
近づく前に、気づかれる。
――回り込め。
足音を殺し、身を低くして、じりじりと、木立の陰を伝う。
奴らの、風下へ。
風上へと、俺自身が回り込むように。
匂いを、風に乗せない。
気配を、断つ。
一歩、また一歩。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
それでも、間合いを詰める。
ダーツと同じだ。
焦って踏み込みすぎても、遠すぎても、狙いは狂う。
たどり着いたのは、丈の高い、生い茂った茂みの陰だった。
絡み合った枝と、幾重にも重なった葉。
奴らからは、こちらの姿は、まず見えまい。
だが、それは、俺にとっても同じこと。
この葉と枝の壁が、俺の狙いの、邪魔をする。
――構わない。
茂みの葉が、わずかに揺れる、その隙間。
獣たちの姿が、途切れ途切れに覗く、その一点。
そこに、道が、見えた。
――もう少し。
もう少しだけ。
そして。
その一歩を、踏み出した、瞬間。
――ああ。
分かった。
身体が、勝手に、教えてくれた。
二メートル、四十四センチ。
投げる者と、的とを隔てる、あの間合い。
数えきれないほど立ち、数えきれないほど狙い、身体の芯まで刻み込んだ、俺だけの距離。
そこに、入った。
その、刹那。
――すっ、と。
世界から、音が、消えた。
ざわめく葉擦れも。
獣たちの荒い息も。
リタの、押し殺した嗚咽も。
うるさかった自分の心音さえも、遠く、遠く、退いていく。
残ったのは、俺と、的だけ。
これだ。
この、静寂。
俺が、この世で唯一、心の底から安らげる場所。
スローラインの、向こう側。
世界のすべてが消え去って、ただ狙うべき一点だけが、鮮明に浮かび上がる、俺だけの世界。
目の前に立ち塞がっていたはずの、枝も、葉も、もう見えない。
あるのは、その隙間を縫って、まっすぐに伸びる、一本の透明な線だけ。
俺の指先から、獣の右目まで。
誰にも見えない、俺だけの、軌道。
狙いを、定める。
手前の獣の、爛々と光る、その、右目。
黒目の、中心。
俺にとっての、ブル。
指先が、勝手に構えを取る。
肘の角度。
手首のしなり。
何万回と繰り返して、考えるより先に身体が覚えた、俺のフォーム。
息を、吐く。
(――もらった)
投げた。
ヒュッ、と、鋭く風を切る音。
放たれた矢は、生い茂った茂みへと、迷わず飛び込んでいく。
一枚の葉を、掠める。
枝と枝の、指一本ほどの隙間を、擦れる音一つ立てず、すり抜ける。
行く手を阻むはずだった緑の壁を、まるで初めからそこに道があったかのように、一直線に――貫いて。
俺のダーツは、狙い違わず、その右目のすぐ脇――
眉の上を、鋭く切り裂いた。
「――ぎゃんっ!?」
犬が鳴くような、甲高い悲鳴。
獣が、目を押さえて、無様にのけぞる。
額から流れた血が、視界を塞いだのだろう。
棍棒が、からん、と乾いた音を立てて、地面に落ちる。
急所の、すぐ脇。
殺すつもりは、なかった。
ただ、二度と、あの子に手を出す気を、失くさせるには――
目を潰しかけるくらいの、恐怖で、ちょうどいい。
「な、なんだ!? どこから――」
残る二匹が、弾かれたように、耳を立て、辺りを見回す。
だが、風上から、匂いも気配も断って忍び寄った俺の位置を、そう易々とは掴めまい。
その一瞬の、混乱。
俺は、精一杯の虚勢を張って、腹の底から声を出した。
「――次は、外さない。狙うのは、そっちの目だ」
嘘だ。
矢は、もう手元にない。
あの一本が、俺の全てだった。
だが、男たちは、それを知らない。
痩せた人間が、木立の陰から、涼しい顔で立っている。
姿も見せず、たった一投で、仲間の目を射抜きかけた、正確無比の一撃。
その不気味さが、獣たちの戦意を、根こそぎ削いでいくのが、逆立った毛並みから、手に取るように分かった。
「……く、くそっ! 気味の悪いよそ者が……!」
「に、逃げるぞ! こんなガキ、放っておけ!」
男たちは、目を押さえた一匹を抱えるようにして、尻尾を巻いて逃げていった。
その背中が、木立の向こうに消えるまで。
俺は、動けなかった。
姿が完全に見えなくなった、その瞬間。
――どっ、と。
全身から、力が抜けた。
膝が笑い、その場に、へたり込みそうになる。
……はったりだ。
全部、はったりだった。
もう一本でも飛んできていたら、とっくにこっちが終わっていた。
背中を、冷たい汗が伝う。
それでも。
地面に転がった、俺のダーツを見て。
そして、無事だった、あの小さな影を見て。
俺は、ほんの少しだけ、笑ってしまった。
――ちゃんと、狙い通りに、いったな。
* * *
静かになった木立の中。
俺は、地面に落ちたダーツを拾い上げ、女の子に歩み寄った。
「……大丈夫か」
彼女は、木の板をぎゅっと抱きしめたまま、こくり、と小さく頷いた。
白い耳が、ぺたりと伏せられている。
「あの……ありがとう、ございます。……その、あなたは」
「翔真。深澤翔真だ」
名乗ってから、少し迷った。
自分がなぜここにいるのか。
どこから来たのか。
それを、うまく説明できる自信がなかった。
というより――説明したところで、信じてもらえるとは思えなかった。
死んで、目が覚めたら、知らない場所にいた。
そんな話を、誰が信じる。
だから、俺は、余計なことは言わなかった。
「訳あって、行くあてがなくてな。気がついたら、そこの遺跡で倒れてた」
嘘は、ついていない。
ただ、本当のことを、全部は言わなかっただけだ。
「リタ、です」
彼女は、消え入りそうな声で名乗った。
「翔真、さん。すごい……です。あの、さっきの。まっすぐ、飛んで」
「まあ、これだけは、得意でな」
ダーツを、指先で軽く回してみせる。
リタの瞳が、それをじっと追いかけた。
リタは、少しの間もじもじと迷っていたが、やがて、意を決したように口を開いた。
「あの……もし、行くあて、ないなら。うちに、来ませんか。
ちゃんと、お礼も、したいですし。……その、傷の手当てくらいは、できますから」
正直、ありがたい申し出だった。
この見知らぬ場所で、俺には、頼れるものが何一つない。
財布もなければ、身分を証すものもない。
あるのは、痩せた身体と、手の中のダーツだけだ。
「……助かる。じゃあ、お言葉に甘えて」
俺が頷くと、リタの尻尾が、ほんの少しだけ、ぴくりと揺れた。
* * *

リタに連れられて、木立を抜ける。
やがて見えてきたのは、石畳の道と、木と石で組まれた、素朴な家々の連なり。
行き交う人々の中には、リタと同じように、獣の耳や尻尾を持つ者たちがいた。
犬のような耳の男。
狐のような尻尾の女。
角の生えた、大柄な人影。
――ああ。
その光景を見て、俺は、ようやく、腹の底から理解した。
ここは、俺のいた世界じゃない。
死んだはずの俺は、どうやら、まるで違う世界に、放り出されたらしい。
不思議と、恐怖はなかった。
ただ、静かな諦めと――そして、ほんの少しの、奇妙な高揚があった。
失うものなんて、もう何もない。
俺は、あの夜、全部失ったんだから。
* * *
リタが案内してくれたのは、街の外れにある、小さな店だった。
木の看板は、文字が掠れて読めない。
扉を開けると、埃っぽい空気と、薄暗い店内が広がっていた。
カウンター。
並んだ古い椅子。
壁際には、酒瓶の並ぶ棚。
だが、どこもかしこも、活気というものが、抜け落ちている。

「ここ……酒場、なんです」
リタが、ぽつり、と言った。
「ガレンさんの。あたしを、育ててくれた人の、お店で」
「ガレンさん?」
「はい。……先月、亡くなって。
あたし一人じゃ、とても、切り盛りできなくて。
もう、閉めようと、思ってて」
リタの声が、震えていた。
俺は、店の中を、ぐるりと見回した。
見覚えがあった。
この、静かに死んでいく店の空気に。
――俺の店だ。
《BULL'S EYE》。
三年前、大きな夢を抱えて開いて、そして、静かに潰した、俺の店。
* * *
「……あの」
リタが、店の奥の壁を見つめて、言った。
そこには、粗末な、木でできた円い的が掛かっていた。
傍らには、いびつな形の、木の矢が数本。
「ガレンさんが、一番、大事にしてたものです。
この街の酒場じゃ、よくある、酔っ払いの、賭けの遊びで……
上の街の偉い人には、下品だって、笑われる、ものですけど」
リタの手が、そっと、木の矢に触れた。
「ガレンさんは、好きだったんです。誰よりも。
……『身分も、種族も、関係ねえ。同じ的に、向かえる。
こんなに面白いもんは、ねえ』って」
――どくん、と。
俺の心臓が、跳ねた。
その言葉は、俺が、二十五の夜に、逃げ込んだダーツバーで、確かに感じた、あの熱と、一言一句、同じだった。
会ったこともない、ガレンという男。
だけど、俺は、その瞬間、その人と、繋がった気がした。
同じものを、美しいと思った、仲間として。
「リタ。その、形見の矢。少しだけ、貸してくれないか」
リタは、戸惑いながらも、木の矢を、俺に手渡した。
* * *
重心も、バランスも、めちゃくちゃだ。
まっすぐ飛ぶわけがない、と、頭ではわかっている。
それでも。
俺は、壁の的に向かって、構えた。
息を、吐く。
投げる。
いびつな木の矢は、ぶれながら、それでも――
的の、真ん中に、突き刺さった。
「……っ」
リタが、息を呑む音がした。
エメラルドグリーンの瞳が、大きく見開かれている。
「翔真、さん……今の……」
俺は、的に刺さった矢を見つめたまま、ぽつりと言った。
「『身分も、種族も、関係ねえ。同じ的に、向かえる』――か。
いい言葉だな、ガレンさんは」
そして、リタの方を、振り返る。
「なあ、リタ。一つ、頼みがあるんだ」
「頼み、ですか?」
「ああ。……さっきも言ったが、俺には、行くあてがない。
この街に、知り合いもいなければ、金もない。
だから――しばらく、この店に、置いてもらえないか」
リタが、きょとん、とした。
「その代わり、と言っちゃなんだが」
俺は、手の中の、いびつな木の矢を、軽く掲げてみせた。
「俺に、この店を、手伝わせてくれ。
料理も、力仕事も、大したことはできない。
喧嘩も、見ての通り、からっきしだ。
だけど――これだけは、誰にも、負けない自信がある」
指先の、ダーツ。
「この、面白さを。
ガレンさんが惚れ込んだ、この遊びの面白さを。
この店で、もう一度、証明してみせる。
だから――」
俺は、頭を下げた。
「店を閉めるのは、待ってくれないか。
俺を、置いてくれ。
その分、必ず、役に立ってみせるから」
* * *
リタは、しばらく、黙っていた。
やがて、その大きな瞳から、ぽろり、と、涙が零れた。
「あたし……本当は、嫌だったんです。
ここが、なくなるの。
ガレンさんとの、思い出が、全部……消えちゃうみたいで」
「ああ」
「でも、あたし一人じゃ、どうしたらいいか、わからなくて。
……怖くて」
「もう、一人じゃない」
俺は、言った。
「二人だ。二人でなら、背負えることも、ある」
それは、リタに向けた言葉であり――
同時に、あの夜、全部を一人で抱え込んで潰れた、俺自身への言葉でもあった。
リタは、ごしごしと、乱暴に涙を拭って――
そして、涙を浮かべながら、笑った。

初めて、見せた笑顔だった。
「……はい。こちらこそ、よろしく、お願いします。翔真、さん」
「ああ。よろしくな、リタ」
軋む店の、埃っぽい空気の中。
俺の――二度目の人生の、そして、二度目の「店」の、本当の始まりの音が、静かに、鳴った気がした。
ガレンさん。
あんたの遺した、この場所。
少しだけ、借りるぞ。
そして――あんたが惚れ込んだこの遊びが、どれだけ面白いか。
この世界中に、俺が、証明してやる。
こうして。
俺の、そして、リタの。
潰れかけの人生の、二度目の再挑戦《リスタート》が、静かに、幕を開けた。
第2話「名もなき酒場」おわり
* * * * * * * * *

◆ バレル
ダーツの、金属でできた胴体の部分。
指で握るところだ。
太さや形、重さで、投げ心地がまるで変わる。
自分の手に合う一本を見つけるのが、上達への第一歩だ。
◆ フライト
矢の後ろについた、羽根の部分。
これが空気を受けて、飛んでいる間の姿勢を安定させる。
形や大きさで、飛び方の癖が変わってくる。
◆ 重心(バランス)
ダーツの、重さの中心がどこにあるか、ということ。
前寄り、真ん中、後ろ寄り。
これ一つで、狙いのつけやすさが大きく変わる。
◆ グルーピング
投げた矢が、同じ場所に、きれいに集まること。
狙った一点に、何本も寄せられるかどうか。
これが、腕前を測る、一番わかりやすい物差しだ。

