【日本酒学】#75 火入れの熱履歴設計
日本酒は搾った後もなお,微生物や酵素の影響を受けて変化し続ける酒であり,その変化をどの段階で止め,どのような品質として届けるかを決める重要な工程が「火入れ」です.
過去の記事では,火入れと生酒の違いについて整理しましたが,今回はさらに一歩進めて,火入れを「熱履歴設計」として考えてみたいと思います.
「火入れ」は単に日本酒を温める操作ではなく,微生物を殺菌し,酵素を失活させ,酒質を安定させるための工程です.
しかし一方で,熱は香りを揮散させ,味わいを変化させ,時には老香の前駆的な変化を促すこともあります.
つまり火入れとは,必要な安定化を実現しながら余計な熱ダメージをどこまで減らせるかを考える品質設計だと言えます.
この視点に立つと,火入れは「何℃まで上げるか」だけで考えるべき工程ではなく,どれくらいの温度で,どのくらいの時間さらし,どのくらいの速さで昇温し,どのくらいの速さで冷却するかという,熱履歴全体を考えることが重要であることがわかります.
そこで今回は,この「熱履歴」という考え方を軸に,清酒の火入れを整理してみたいと思います.
1. 火入れとは
(1) 火入れの目的
火入れの目的は,大きく「微生物の殺菌」と「酵素の失活」の二つに整理できます.
①微生物の殺菌
清酒では,火落菌と呼ばれる耐アルコール性乳酸菌が問題になることがあります.
火落菌が増殖すると,火落ちと呼ばれる白濁や異臭,酸味の増加などを引き起こし,酒質を大きく損なう恐れがあります.
そのため,火入れによる微生物の殺菌は,火落ちを防ぐための重要な工程です.
②酵素の失活
清酒には,麹由来のアミラーゼやプロテアーゼなどの酵素が残存している場合があります.
これらが貯蔵中に働き続けると,清酒中に残存したデンプンやタンパク質が分解されて糖やアミノ酸の生成が進み,味わいや香りが変化していきます.
したがって,火入れは「菌を殺す」だけでなく,「酵素の働きを止める」工程でもあります.
この二つの効果により,貯蔵中や出荷後における香味変化が抑えられ,製品としてのバラつきが小さくなり,品質が安定化します.
ただし,熱は安定化のために必要である一方,香りの揮散や香味成分の化学変化による味わいの変化も引き起こします.
このため,火入れは安定性と香味保持のトレードオフをどのように設計するかという問題でもあります.
(2) 火入れによる科学的変化
火入れを科学的に紐解くと,対象は大きく「微生物」と「酵素」に分けられます.
どちらも熱によって働きを失いますが,起きている現象は少し異なります.
まず微生物では,熱によって細胞膜や細胞壁,細胞内タンパク質,核酸などが損傷を受けます.
細胞膜の流動性が変化して物質輸送が破綻したり,代謝に必要な酵素タンパク質が変性したりすることで,微生物は増殖できなくなり,最終的には死滅します.
つまり,微生物の生命活動を支える構造と機能を熱で壊す操作と見ることができます.
一方,酵素は生物ではなくタンパク質の一種であり,特定の立体構造を持つことで触媒として機能しています.
酵素には反応基質を認識して反応を進める活性部位がありますが,加熱によってタンパク質の立体構造が崩れると,活性部位の形が変化し,基質とうまく結合できなくなり,酵素活性が失活します.
酵素失活とは,酵素分子そのものが消えてなくなることではなく,タンパク質の構造が変わることで,触媒として働けなくなる現象です.
卵白を加熱すると透明な液体から白く固まるように,タンパク質は熱によって構造を変えます.
清酒中の酵素も同じく,温度と時間に応じて立体構造を失い,糖化やタンパク質分解などの反応を進められなくなります.
ここで重要となるのは,微生物の死滅と酵素の失活はいずれも温度と時間に依存するものの,必要な条件が同じとは限らないという点です.
菌を十分に殺せても,酵素が残っていれば貯蔵中に味わいが変化する可能性があり,逆に酵素を十分に失活できたとしても,菌が生存していれば火落ちのリスクは残ります.
このため,火入れでは微生物と酵素の両方を考えた熱処理設計が必要となります.
2. 火入れの条件設計
(1) 熱履歴
火入れは温度だけで考えると十分な理解にはなりません.
例えば,到達温度が同じでも,短時間でその温度に到達してすぐ冷却する場合と,ゆっくり昇温して長く保持される場合とでは,酒質に及ぼす影響は大きく異なります.
ここで重要になるのが「熱履歴」という概念であり,工学的には対象物が受けた温度変化の経緯を指します.
熱履歴は,到達温度,保持時間,昇温・冷却速度をまとめて考える視点であり,この全体を熱履歴として捉えることで,火入れは単なる加熱ではなく,工程設計そのものになります.
清酒の火入れは100℃以下の比較的低温で行われ,食品工学的にはパスツール殺菌に近い処理と捉えることができます.
食品工学における熱処理設計では,D値とZ値という指標が用いられます.
D値:ある温度で菌数や酵素活性を1/10にするために必要な処理時間
Z値:D値を1/10にするために必要な温度上昇幅
この指標を導入すると,火入れに必要な殺菌・失活を満たす熱履歴を設計することができるようになります.
(2) 清酒におけるD値・Z値
清酒の火入れを考える上で,D値とZ値は非常に相性のよい概念です.
実際,火落菌の死滅速度や,清酒中の酵素失活挙動に関する研究では,温度と時間に依存した挙動が報告されています.
例えば,65℃で熱処理した場合,全ての酵素が2分以内に完全に失活したことや,60℃におけるD値が5分以下であったという研究結果があります.

(参考:谷本昌太ら, 「清酒の火入れ中の酵素失活挙動」, J.Brew.Soc.Japan, 99, 3, 208(2004))
この結果から,清酒中の酵素の中でも特にα-グルコシダーゼは熱に対して安定であり,清酒の熱処理条件を考える上での指標として有用と考えられます.
また,火落菌の火入れによる殺菌効果の研究においては,蛇管火入れや瓶燗での火入れと比べて,プレートヒーターを用いた火入れでは生菌数が十分に減少しなかった条件もあったという報告もあります.
このことは,火入れの成否が方式だけでなくどのような温度と時間の履歴を受けたかによって決まることを示唆しています.
なお,D値やZ値は対象となる菌株や酵素,清酒のアルコール度数,糖濃度,pH,成分組成などによって変化します.
したがって,「清酒は何℃で何分処理すれば絶対に安全」と単純化するのではなく,D値・Z値の考え方を用いて,目的に応じた条件を設計するという立場が適切です.
ここに,火入れを食品工学の一操作として見ることによる面白さがあります.
(3) 酒質設計と火入れ条件
火入れ条件は清酒中の成分によっても影響を受けます.
特にアルコール濃度や糖濃度は,酵素失活や微生物の熱耐性に関係します.
一般に,アルコールはタンパク質の構造安定性に影響を与えるため,酵素失活を促進する方向に働く傾向があります.
一方,糖はタンパク質の周囲に水和構造を形成し,酵素の熱変性を抑制する方向に働く場合があります.
つまり,同じ温度・同じ時間で火入れしても,清酒の成分設計によって酵素の残りやすさや失活しやすさが変わる可能性があります.
通常の清酒の範囲では糖濃度の影響は熱処理条件を大きく変えるほどではないと考察されていますが,成分組成が熱失活挙動に関わるという視点は重要です.
近年では,低アルコール酒や甘口酒,貴醸酒,スパークリング清酒など,従来の一般的な清酒とは成分設計の異なる商品も増えています.
こうした酒では,従来の経験則だけでなく,酒質に応じた火入れ条件の最適化がより重要になっていくと考えられます.
通常,清酒の火入れは60 ~ 65℃程度の温度帯で行われることが多く,実務上は65℃付近を目安に条件設計されることも少なくありません.
これは,流通時の品質変化を抑えるために酵素失活や火落菌対策を安全側に見込んだ条件と考えることができます.
よりフレッシュな酒質を目指す場合には,熱履歴を最小限に抑えながら必要な殺菌・失活効果を満たす条件を模索する必要があり,安全性と安定性を確保しながら,酒質の狙いに応じて最適化されるべき設計変数と言えます.
(4) 実務上の温度モニタリング
火入れを行う際には,設備の設定温度だけでなく,清酒そのものの温度を管理することが重要になります.
熱源温度や設備の設定温度を見ているだけでは,清酒が実際に何℃に達したかは分かりません.
例えば,清酒を瓶に詰めた後に湯煎する瓶燗火入れでは,外側の湯温が60 ~ 65℃であっても,瓶の中心部の液温は遅れて上昇します.
瓶の外側からガラスを通じて熱が伝わり,さらに内部の液体へ熱が移動するため,瓶内にも温度分布が生じます.
熱の移動速度は温度差に依存し,液温を60℃以上に上げるためには,それ以上の温度を持つ熱源が必要になります.
そのため,瓶内の中心部が目標温度に到達する頃には,瓶の上部や周辺部がそれ以上の温度に達している場合もあり,瓶内でも位置によって大きな温度差が生じる可能性があります.
したがって,瓶内の温度を可能な限り均一化するためには,瓶外部の水位や湯温の推移を調整し,瓶内の対流を促す方法が採られることもあります.
火入れを確実に実施するために,市販の自動瓶燗設備ではダミー瓶に温度センサーを装着して品温を計測する方法や,槽温と品温のデータを比較して瓶燗条件を設計する例もあります.
設備温度と液温は一致せず,熱が液体へ移るまでのタイムラグは瓶材質,充填量,流速,滞留時間,冷却条件によっても,実際の熱履歴は大きく変わります.
火入れは清酒が実際にどのような温度履歴を受けたかで管理されるべき工程です.
3. 火入れ方式による熱履歴の違い
火入れにはいくつかの方式がありますが,それぞれの方式が酒にどのような熱履歴を与えるかが重要です.
(1) 瓶燗火入れ
瓶燗火入れは,瓶に詰めた後に瓶ごと加熱する方式です.
密栓または仮栓した状態で処理できるため,火入れ後の再汚染を防ぎやすく,瓶内で処理が完結するという利点があります.
香味を重視する高級酒で採用されることが多く,製品単位での品質管理がしやすい面もあります.
しかし,瓶の外側から中心部へ熱を伝えるため,液温が目標温度に達するまでに時間がかかります.
その結果,瓶の外側と中心部で温度差が生じやすく,工程によっては熱履歴が大きくなったり,火入れが不十分になったりするリスクがあります.
また,瓶燗火入れでは打栓の扱いも重要です.
加熱すると清酒の体積は膨張し,瓶内の気相部の圧力も上昇します.
特に一升瓶のような液相に対して気相容積が小さい容器では,打栓したまま加熱すると破瓶リスクが高く,仮打栓や王冠を軽く乗せた状態で火入れし,火入れ後に本打栓する運用が採られることがあります.
瓶燗火入れは再汚染防止に強い一方で,熱履歴と内圧上昇の管理が重要な方式だと言えます.
(2) プレート火入れ
プレート火入れは,プレート式熱交換器を用いて,清酒を薄い流路に通しながら短時間で加熱・冷却する方式です.
瓶燗火入れと比較して,熱源と液相の物理的距離が短く,温度分布が小さくなりやすいことに加え,流速が大きくなるために伝熱速度が速く,短時間で昇温・冷却できる点が特徴です.
このため,清酒に与える熱履歴を小さくしやすく,大量処理にも向いており,工業的な制御性にも優れています.

一方,火入れによって殺菌した後に設備から火落菌などが混入しては元も子もないため,加熱した後に配管やタンク,瓶詰工程を通る場合には後工程の衛生管理が重要です.
熱履歴を小さくできる反面,火入れ後の再汚染リスクをどう抑えるかが品質管理上の課題になります.
(3) 蛇管式
蛇管式は,湯槽にコイル状の蛇管を沈め,管内に清酒を流しながら加熱する方式です.
プレート式よりも構造は簡便ですが,伝熱効率はやや低下します.
一方,プレート式は流路が非常に狭いため,滓などの固形物を含む清酒を流すと閉塞するリスクがありますが,蛇管式では管径を調整することで,ある程度こうした条件にも対応しやすい利点があります.

(4) 火入れ後の冷却
火入れは,加熱して目標温度に到達した時点で終わるわけではありません.
火入れの目的である酵素失活と微生物の殺菌を達成した後は,余分な熱履歴をできるだけ抑える必要があります.
目標温度に達した後も高温状態が長く続けば,その分だけ酒は余分な熱履歴を受けます.
微生物の殺菌や酵素失活には必要な熱履歴がありますが,それを超えた熱履歴は,香りの揮散や味わいの変化につながりやすくなります.
したがって,火入れは「温める工程」ではなく,温めて,必要なだけ保持し,速やかに冷ます工程として設計する必要があります.
なお,瓶燗火入れでは,急冷しすぎると瓶への熱衝撃によって破瓶するリスクもあります.
そのため,冷却も単に早ければよいわけではなく,瓶への負荷と酒質への熱ダメージの両方を見ながら設計する必要があります.
4. 火入れ回数と工程設計
火入れ回数の違いは,商品分類の違いであると同時に,フレッシュさと安定性のどこに重心を置くかという品質設計でもあります.
①生酒
生酒は,製成後に一切加熱処理を行わない清酒です.
火入れを行わないため,最もフレッシュさを感じやすい一方,酵素や微生物の管理は難しくなります.
香りの若さやみずみずしさが魅力ですが,酵素や微生物の活性が残っていることから,保存条件への依存度は高く,低温管理が重要になります.
②生貯蔵酒
生貯蔵酒は,製成後,加熱処理を行わずに貯蔵し,出荷前に一度だけ火入れする清酒です.
貯蔵中は生酒に近い状態であえて香味変化を促し,出荷前に加熱処理を行うことで,製品としての品質安定性を高める設計と言えます.
③生詰酒
生詰酒は,一般的に(※)貯蔵前に火入れを行い,出荷前には火入れを行わない清酒として説明されます.
秋に出荷される「ひやおろし」は,この生詰酒の代表的な例です.
貯蔵前に一度安定化させつつ,出荷時の熱負荷をかけないことで,熟成感とフレッシュさの両方を残す設計と見ることができます.

つまり,火入れ回数の違いは単なる製法の違いではなく,どの段階で品質を固定し,どの段階でフレッシュさを残すかという設計思想の違いが現れてきます.
※「生酒」と「生貯蔵酒」は清酒の製法品質表示基準にて定められている一方,「生詰酒」については公的な定義はありません.
このため,「出荷前に火入れを行わない」ことを指して生酒に「生詰」表示が併記されている商品もあるようです.
法令上の規定はないものの,国税庁や酒類総合研究所から貯蔵前に火入れした酒を生詰と称している資料が公表されていることもあり「一般的に」と表現しましたが,日本酒業界には「甘くない ⇒ 辛口」のように文脈を知らないと直感とズレる表現も多く,日本酒らしいとは思いつつも一般的理解を妨げる要因になっていることも事実だと思います.
時代の変遷という側面もあると思いますが,何らかの形で整理してほしいものです.
5. おわりに
火入れの本質は「すべてを止めること」ではなく,必要な微生物活動と酵素反応を止め,同時に香味の魅力をできるだけ残すことにあります.
日本酒は香味が繊細であり,高温・長時間の熱履歴は香りの揮散,味わいの変化,熟成感の増加などにつながりやすくなる一方で,熱履歴を弱めすぎれば火落ちや貯蔵中の香味変化のリスクが高まります.
そのため,火入れは安全性と安定性を確保しながら,余計な熱ダメージを避ける操作として設計されるべきです.
この視点で見ると,火入れは香味を含めた品質制御の工程だと言え,温度だけを見ていては見えないことが多く,熱履歴として見ることでその難しさと高度さがよく分かります.
何を止めて何を残すのかの設計の妙こそが,昨今の日本酒の品質と多様化を支えているのだと思います.
