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【日本酒学】#60 樽酒の科学

日本酒の香味は,主に麹菌が産生する酵素と酵母による発酵によって発現します.
一方で,「容器」という要素は飲み手にとってはあまり注目されない存在かもしれません.
しかし日本酒の歴史を振り返ると,酒は長らく「樽」によって貯蔵・運搬されており,容器は単なる入れ物ではなく酒質そのものにも影響を及ぼす存在でした.

そこで今回は,「容器」が酒質に影響を及ぼす代表的な例として「樽酒たるざけ」を取り上げ,そこに潜む科学的変化について整理していきます.



1. 樽酒とは

まず初めに,そもそも「樽酒」とは何かを確認しましょう.

(1) 制度上の定義

「樽酒」と聞くと祝いの席の鏡開きで用いられる円柱状の酒樽を思い浮かべる方が多いかもしれません.
この種の酒樽は外装保護のために藁を編み込んだこもを巻いていることから菰冠こもかぶりとも呼ばれ,中には杉で作られた酒樽が収められています.
神社仏閣などで奉納された菰冠が積み上げられた光景を目にしたことがある方もいるのではないでしょうか.

代表的な樽酒(菰冠)
(引用:月桂冠株式会社

一方,「樽酒」という呼称は国税庁が定める「清酒の製法品質表示基準」において定義されており,「木製の樽で貯蔵し,木香の付いた清酒(瓶その他の容器に詰め替えたものを含む.)である場合に表示できるものとする」と規定されています.

重要なのは,貯蔵時に木製の樽を使用していることが要件であり,販売時点で木製容器に入っている必要はないという点です.
即ち,瓶詰めされた商品であっても,樽貯蔵によって木香が付与されていれば「樽酒」と表示することができます

また,「木香が付く」ことが要件とされている点も見逃せません.
これは香料などの添加によるフレーバリングではなく,木製樽に清酒を接触させることで樽材由来の成分が自然に酒中へ移行した結果として香りが付与されることを意味しています.
したがって,樽酒は制度上も本質的にも「清酒」の範疇に位置づけられます.

この点は近年のクラフト酒やリキュールとの決定的な違いであり,樽酒が日本酒の歴史的製法の延長線上にある理由でもあると言えるでしょう.

(2) 酒樽に用いられる素材

清酒の樽酒に用いられる木材として,最も一般的なのが杉です.
とりわけ奈良県吉野地方で育成された吉野杉は酒樽用材として極めて高く評価されてきました.
杉が酒樽に適している理由としては,真っすぐで均一な材が得られる加工性の高さや,軽量でありながら高い強度を持つ点などが挙げられます.

杉の木の断面は,外側の白太しらたと内側の赤身に分かれており,木香は主に赤身部分に由来します.
白太と赤身の境目を含めて切り出した杉材で作られた酒樽は「甲付樽」と呼ばれ,外観は白く内側が赤い見た目にも美しい樽として高値で取引されます.
一方,赤身のみで作られた酒樽は赤味樽とも呼ばれ,樽香を付与した瓶詰製品などに用いられることが多いです.

1900年頃までは清酒は樽に詰められて流通するのが一般的でしたが,樽材の原価上昇や木製容器での熱殺菌も困難さなどから,1920年以降,物流面で優位性のあるガラス瓶へと徐々に置き換わっていきました.


2. 樽貯蔵による効果

(1) 香りへの影響

樽酒の最も顕著な特徴は香りの変化です.
特に杉由来の香気成分が付与されることで,樽酒は通常の清酒とは異なる表情を見せます.
現代の吟醸酒がカプロン酸エチルや酢酸イソアミルといった果実様のエステル香を中心に構成されているのに対し,樽酒の香りは酵母由来ではなく,木材由来成分によるものです.

樽酒の香気成分は木香様臭として知られるアセトアルデヒドと混同されがちですが,主因は杉材に含まれるセスキテルペン類と考えられています.
セスキテルペンはイソプレン3単位から生合成されるイソプレノイドであり,構造内の様々な箇所で閉環することによって多くの環状類縁体が存在し,多様な香気特性を示すことで知られています.
例えば,直鎖状セスキテルペンであるFarnesolはスズラン様の香りを呈し,十一員環を持つHumuleneはホップの主成分として知られています.

樽酒中ではEpicubenolやδ-Cadineneといったセスキテルペン類に加え,イソプレン4単位からなるSandaracopimarinolやPhyllocladanolといったジテルペン類も確認されています.

図60-1:代表的なセスキテルペン・ジテルペン類

杉香の強さは貯蔵期間や樽の新旧および白太・赤身の比率,さらにはアルコール度数などによって大きく左右されます.
樽の香りが強くなりすぎると清酒の繊細な香味を覆い隠してしまうため,樽酒造りには経験と分析に基づく繊細な判断が求められます.

(2) 色調への影響

一般的な清酒は無色透明からわずかな淡黄色を呈していますが,樽酒は淡黄色から橙色を帯びることがあります.
これは,杉材に含まれるノルリグナン類の影響によるものと推定されており,Sequirin-CやAgatharesinolといった成分が清酒中に移行していることが確認されています.

図60-2:樽酒中に存在する代表的なノルリグナン類

(3) 味わいへの影響

樽酒の特徴としてよく語られるのが「口の中を洗い流すような感覚」,いわゆるウォッシュ効果です.
脂の多い料理と合わせることで口の中がすっきりとリセットされる感覚は経験的に語られてきました.
近年では,この効果はアルコールによる油脂の溶解作用に加え,香気成分が油脂の乳化を促進することによって生じると考えられています.

また,樽材から溶出するタンニン類は熟した果実様のニュアンスを与え,濃厚な甘さを際立たせます.
一方で過剰になりすぎると渋味の原因となることから,元々の清酒の酒質を考慮した上で樽内での保管期間を適切に設計することが重要です.

このように,樽酒は鰻や煮物といった濃厚な料理とも高い親和性を示し,樽酒が宴席や祭礼の場で重宝されてきた理由は,単なる演出だけでなく機能的な側面にもあったと言えるでしょう.

(4) 樽酒の成分がもたらす作用

杉材から清酒中に移行するセスキテルペン類やジテルペン類は一般的に抗菌性を示すことが知られており,火落性乳酸菌である$${\textit{L. hilgardii}}$$や真性火落菌である$${\textit{L.hructivorans}}$$に対して増殖抑制効果が認められています.
そのため,樽酒は通常の清酒と比べると火落ちしにくい傾向があり,杉材が貯蔵容器として合理的であったことが科学的にも裏付けられています.

また,ノルリグナン類のSequirin-Cには消臭活性や活性酸素を無害化する抗酸化活性があることも報告されており,樽酒は香味だけでなく機能性の観点からも興味深い日本酒であると言えるでしょう.


3. おわりに

樽酒は現代の日本酒市場において主流の存在とは言えず,正月や祝いの席といったハレの場で供される演出的・象徴的な酒として認識されることが多いように思います.
また,繊細な香味設計や再現性を重視する現代の酒造りにおいて,木材由来の変動要素は扱いづらい側面があることも事実でしょう.

しかし,樽酒が持つ特異的な香味や特性は,天然素材である木材が清酒に直接作用することで生まれたものであり,日本酒の多様性を支える重要な選択肢の一つです.
今後,樽酒に出会う機会があれば,その香りや味わいの奥にある科学を思い浮かべながら味わってみていただくと,これまでとはまた違った日本酒の世界が見えてくるかもしれませんね.

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