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原爆は、長崎ではなく小倉に落ちるはずだった幽霊塔の下で遊んだ小学生


2026年8月8日 日曜日

おはようございます☀️
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今日のテレビ番組表

【午前中~夕方】    【18:00~】

午前中~夕方
午後6:00~


ー長崎の方々へ捧げるー


1945年8月9日、午前11時2分。

長崎の上空で、一発の原子爆弾が炸裂した。

長崎市の記録では、死者7万3,884人、重軽傷者7万4,909人。町も、人も、家族の暮らしも、一瞬の光と熱と爆風によって破壊された。

けれど、その原子爆弾の第一目標は、本当は長崎ではなかった。

福岡県の小倉。
現在の北九州市小倉北区にあった「小倉陸軍造兵廠」だった。



原爆を積んだB29は、最初に小倉へ向かった

1945年8月9日、原子爆弾「ファットマン」を積んだB29爆撃機は、第一目標である小倉陸軍造兵廠を目指して飛んできた。

小倉陸軍造兵廠は、当時、西日本最大級の兵器工場だった。

しかし、小倉上空は雲や煙などに覆われ、爆撃機から目標を目視することができなかった。

当時、原爆投下はレーダーだけではなく、目標を直接確認して行うことが条件とされていた。

爆撃機は小倉への投下を断念し、第二目標の長崎へ向かった。

そして午前11時2分、長崎市松山町上空で原子爆弾が炸裂した。

もし、あの日の小倉上空が晴れていたら。

もし、雲や煙の切れ間から小倉陸軍造兵廠が見えていたら。

長崎ではなく、小倉の町が消えていたかもしれない。

そして私は、この文章を書いていなかったかもしれない。



父は、原爆の目標となった兵器工場の近くにいた

私の父は無線を扱うことができた。

家族から聞いた話では、原爆が小倉を目指して飛んできたその日、父は小倉の兵器工場の近くにいた。

その場所が原爆の第一目標だったことを、父はどの程度知っていたのだろう。

上空にB29が来ていたことを知っていたのだろうか。

無線を扱えた父は、何かを聞いていたのだろうか。

今となっては、もう確かめることはできない。

ただ一つ確かなのは、原爆が小倉に投下されていたら、父は生き残れなかった可能性が高いということだ。

父が亡くなっていたら、私は生まれていない。

私だけではない。

あの日、小倉にいた人々の子どもも孫も、今ここにはいなかったかもしれない。

私たち小倉人の現在は、長崎に原爆が投下された歴史と切り離すことができない。



私が遊んでいた「幽霊塔」

私は昭和40年代、小倉北区大手町に残っていた大きな廃墟のような場所で、毎日のように遊んでいた。

今の勝山公園や、か健和会病院がある一帯。
そこには戦時中、小倉陸軍造兵廠が広がっていた。

子どもだった私たちは、そこに残っていた巨大な給水塔を、

「幽霊塔」

と呼んでいた。

高い梯子を登って、上まで行ったこともある。

中をのぞくと、巨大な円柱状の空洞が広がっていた。

もちろん子どもだから、それが何のために造られたものなのか、
そこでどんな兵器が製造されていたのか、そんなことは何も知らない。

戦争の遺構は、私たちにとって巨大な遊び場だった。

けれど今考えると、私は原爆の照準点とされた場所で遊んでいたことになる。



その一帯には、広い原っぱもあった。

ある日、地面に1メートル四方ほどの鉄板があるのを見つけた。

取っ手の付いた、ものすごく重い鉄の蓋だった。

それを1人でなんとか持ち上げた。

すると、地下へ続く階段が現れた。

私は階段を降りていった。

地下の左右の壁には、直径1センチから1.5センチほどの黒い円形の痕が、無数に残っていた。

何百、何千という数だったように記憶している。

銃弾の痕だったのか。
爆発物による痕だったのか。
あるいは、まったく別の設備の痕だったのか。

60年近く前の子どもの記憶なので、私には断定できない。

鉄板の下の地下施設が、小倉陸軍造兵廠のどの設備だったのかも分からない。

それでも私は、重い鉄板を開け、暗い地下へ降り、黒い痕がびっしり残った壁を見た。

それは、今も私の中に残っている。

歴史は資料館のガラスケースの中にだけあるのではない。

子どもの手で触った鉄板や、暗い階段や、意味も分からず眺めた壁の痕にも残っている。



山田弾薬庫は、今も森の中に残っている

小倉には、もう一つ大きな軍事施設があった。

現在の山田緑地一帯にあった「山田弾薬庫」である。

山田弾薬庫は1930年代に整備され、戦後は米軍に接収されて、1970年まで弾薬庫として使われた。

閉鎖後も一帯は長く一般の立ち入りが制限されたため、都市のすぐ近くでありながら森が残った。

現在、北九州市が管理する山田緑地の一般利用区域では、弾薬庫跡を今も見ることができる。北九州市平和のまちミュージアムによれば、確認できる弾薬庫跡は11か所あるという。

戦争のための弾薬庫だった場所に、今は木々が茂り、生き物が暮らしている。

自然が戦争の痕を覆い隠しながら、それでも完全には消さずに残している。



「小倉は助かった」で終わらせたくない

小倉では、原爆が投下されなかったことを「小倉の幸運」と呼ぶことがある。

確かに、小倉に住んでいた人々にとっては幸運だった。

父も生き残った。
その結果、私も生まれた。

けれど私は、それを単純に「良かった」とは思えない。

小倉に落ちなかった原爆は、消えてなくなったのではない。

そのまま長崎へ運ばれ、長崎の人々の上に落とされた。

長崎の方々が、小倉人の身代わりになることを選んだわけではない。

それでも結果として、小倉人が受けるはずだったかもしれない原爆を、長崎の人々が受けた。

だから私は、小倉人の一人として、長崎の犠牲を他人事にはできない。

「小倉は助かった。運が良かった」

その一言だけで終わらせてはいけないと思っている。

私たちが今ここにいることの向こう側には、長崎で奪われた、数え切れないほどの人生がある。



都市の運命を分けたのは、雲だった

原爆投下という巨大な国家の決定。

科学者が作った兵器。
軍人が立てた作戦。
爆撃機を飛ばした人間。
戦争を始め、止められなかった国々。

そのすべてが重なった最後に、小倉と長崎の運命を分けたのは、上空を覆った雲や煙だった。

都市の運命が、人間には制御できない空の状態によって入れ替わった。

それが恐ろしい。

長崎に暮らしていた一人ひとりにも、朝の予定があった。

仕事へ行った人。
学校へ行った子ども。
家族の食事を作っていた人。
赤ん坊を抱いていた人。
病人を看ていた人。

その人たちは、小倉上空の視界が悪かったことなど知らない。

なぜ自分たちの町に原爆が落とされるのかも知らないまま、一瞬で日常を奪われた。



8月9日、小倉で育った人間として長崎を思う

私は戦争を知らない。

けれど、原爆の第一目標だった町で育った。

兵器工場の跡で遊び、「幽霊塔」に登り、原っぱの鉄板を開けて、地下へ降りた。

そして父は、原爆が飛んできた日、その兵器工場の近くにいた。

私の家族の歴史は、長崎の原爆と一本の細い糸でつながっている。

だから8月9日、午前11時2分。

私は長崎で亡くなった方々を思う。

小倉の代わりに犠牲になった、とは簡単には言えない。

長崎の人々は、誰かの身代わりとして生きていたのではないからだ。

それでも、小倉に落ちなかった原爆によって命を奪われた方々のことを、小倉人として忘れたくない。

原爆を落とされなかった町にも、伝える責任がある。

戦争の痕跡を見つけたとき、面白い廃墟として眺めるだけではなく、

ここで何が作られ、誰が働き、なぜこの場所が原爆の目標にされたのか。

そこまで考えたい。

幽霊塔は消えても、鉄板の下の記憶は残っている。

山田弾薬庫は、今も森の中に残っている。

そして長崎には、80年以上たった今も、あの日から続く苦しみと記憶がある。

8月9日は、長崎だけの日ではない。

原爆が落ちるはずだった小倉にとっても、忘れてはいけない日なのだ。



参考資料

* 北九州市「平和のまちミュージアム」特集
* 北九州市平和のまちミュージアム「山田緑地に潜む戦争の爪痕」
* 北九州市「山田緑地―30世紀の森づくり―」
* 長崎市「歴史年表・昭和時代」

※「幽霊塔」と鉄板の下の地下施設については、昭和40年代に現地で遊んだ筆者自身の記憶です。地下施設の用途や壁に残っていた痕の正体は確認できていないため、断定を避けて記載しています。

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