『はじめて見る景色』──ある晴れた日の思い出
脳出血で倒れた妻は、
リハビリを重ねていたものの──
3カ月が経過しても、右半身は麻痺し、
言葉もまだ戻っていませんでした。
そんな中、
医師から出された外出許可。
──ふたりは初めて、
ピクニックを計画することに。
春の晴れた、ある日曜日。
その日はリハビリもないので、
私たちは初めてピクニックに行く計画を立てていました。
数日前には医師に確認し、
外出の許可をもらっていました。
妻もよほど楽しみだったようで、
すぐに周りにも伝えていて──
しばらくの間は、
看護師やスタッフの人たちからも、
『日曜日楽しみですね』
『とっても楽しみにされてますよ』
──などと声を掛けられるように、
なっていました。
妻も外出は初めてではないものの、
これまでは肌寒さもあり、
病院を一歩出る程度しかできていませんでした。
幸い当日の最高気温は、
18度で晴天の春らしい最高の予報でした。
当日は、その予報通り。
病棟から出る時には、
病棟にいる人たち皆が笑顔で手を振り、
『楽しんできてね〜』
と妻を送り出してくれました。
病院の入り口のドアを抜けると、
外から『ブワッ』と、
暖かい春風が吹き抜けていきました。
目の前には、
青い空と作付け前の土の畑が広がり、
春の陽射しに、ちらほらと咲き始めた桜の花が揺れていました。
それは、本当に素晴らしい景色でした。

お気に入りのえんじ色のニット帽を被った妻は、目の前に広がるその景色を目にした途端。
『うわあー』と、
目をキラキラと輝かせて、
歓声を上げてました。
しばらくその景色を眺めながら──
『ここまで本当に大変だったね。
一緒によく頑張ったよ』
と妻に言って、行こうとすると。
いろいろな思いが噴き出したのか、
妻はポロポロと涙を流しながら、
静かに泣いていました。
その姿を見て、
つられて涙が出そうになりましたが、
『さあ行くよ!』
と言って、車椅子を押そうとすれば、
妻も『うんうん』とうなずき、
泣きながらニッコリと。
『泣いたり笑ったり、ほんと忙しいね』
と言えば、
少し照れた様子──
そのまま車椅子をゆっくりと押して、
病院をあとにしました。
周囲は春の匂いで、
あふれかえっていました。
桜がちらほらと咲き、
垣根の花も色とりどりに咲いていて、
何もかもが本当にきれいに見えました。
妻が倒れた、あの日から──
本当にすべてが、
変わってしまいましたが、
その時の私たちには、
その全てが"新しい世界"にいるかのような感覚でした。
ピクニックの行き先は、
事前に下見しておいた近くの公園と決めていました。
──屋根付きのベンチがある公園。
そこでランチを食べる計画を立てていました。
途中でコンビニに立ち寄って、
妻に好きなものを選ばせたいとも考えていました。
私はゆっくりと車椅子を押しながら、
『めっちゃ気持ちいいね』
と声をかけると、
その度に妻は『わあー、わあー』
と声をあげて喜んでいました。
動く方の左手で垣根の花に触れたり、
すれ違う犬をじっと見つめたり。
ニコニコしたり驚いたり、
涙流したりと、やや忙しかったですが、
妻は本当に楽しそうでした。
予定通りコンビニに立ち寄り、
一つずつ、妻が好きそうなものを手に取りながら、
『これにする?』
『これはどう?』
と聞いていきました。
──結果、妻が選んだのは、
ネギトロ巻きと握り寿司。
そしてミルクティーでした。
寿司とミルクティー?
と思いつつも、
そのどれもが、
妻の“好き”が詰まったものでした。
何より、それらは病院で、
これまでに"食べられなかったもの"でもありました。
そこは桜や花もちらほら咲き始めている、広くて綺麗な公園でした。
まだ人は、まばらでした。
予定通り、
屋根付きのベンチのある場所へ行き、
テーブルの横に妻の車椅子を停めました。
私は妻と直角にベンチに腰かけて、
『じゃあ、ピクニックランチ始めます』
と言えば、
妻もワクワクした様子。
妻が選んだネギトロ巻きと、
握り寿司の容器を開けて、
小さな袋の醤油を、
直接お寿司にかけてランチの準備完了。
『いただきます!』
ミルクティーをごくりと飲みながら、
ゆっくり食事を始めました。

まだ自分では食べられない妻に、
まずネギトロ巻きを箸で、
そっと口へ運ぶと──
その瞬間、えも言われぬ表情に。
続けて握り寿司を一つ。
麻痺してる右の口が大きく開かないため、醤油が垂れないよう慎重に。
──これまた最高の笑顔でした。
そんなふうに、
いくつか食べさせていると──
妻は、『食べないの?』といった顔で、
こちらを見てきました。
私は自分用にサンドイッチとおにぎりを用意していましたが、
妻は自分のネギトロ巻きを、
私に食べさせたいようでした。
以前は自分の好きなものを、
私に分けるようなタイプではなかった妻でしたが。
倒れてからは、
病院食でも、お見舞いのお菓子でも、
自分が気に入ったものは、
『これ、美味しいから食べて』
と言いたそうに、
私に分けようとしていました。
言葉はなくても、
妻はニコニコと笑いながら、
いつも私を気遣ってくれているのが、
伝わってきました。
開頭手術の後も生々しく、
見た目も大きく変わってしまった妻でしたが。
大学時代に一目惚れした妻とは何も変わらずに、
私にとってはやはり、
"最高に可愛い人"でした。
まだ大変な渦中に、
いるはずなのに──
なぜか心は穏やかで、
満ち足りた気持ちでいっぱいでした。
結局、妻は、
ほんの少ししか食べられなかったため、
お寿司のほとんどは私が食べました。
『じゃあ、そろそろ病院に戻ろうか』
そう言うと、ニコニコと。
私たちは公園をでて、
ゆっくりと病院に向かいました。

『はじめて見る景色』
──ある晴れた日の思い出
【終わり】
*追記:
その日の夕方――
どうやら『生もの』はまだ早かったようで、妻はかなりお腹をくだしてしまいました。
病室に戻ってすぐ、看護師さんに
『生ものはまだダメでしょー!』
と叱られて
……すいません。
【終わり】
※この話は、
実際の経験に基づいています。
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